第二章 光が風に舞い遊び - 4/7

SIDE Rethe

 

 

弱いもの

 

 その後は何程のこともなく、無事に王宮に戻ることが出来た。
 最後の仕事として任されたのは、ベオク達を部屋に案内することだった。用意したのは個室が五つに中部屋が五つ。大きな男共から個室に押し込み、女性と商人の双子は二人ずつ中部屋に入ってもらった。
 残ったのは、見るからにひ弱そうな青年と、前に挨拶をしてきたヨファという少年だ。
「ねぇ、レテさんの髪はキルロイさんの色とおんなじだね」
 ヨファは寝台に尻から飛び乗った。キルロイと呼ばれた青年が、遠慮がちに荷物を置いて、締まりのない顔で言う。
「そうだね、そっくりだ。だけどレテさんの方が少し明るいみたいだ。ね?」
「それが何だと言うのだ」
 レテは青年を睨み上げた。ごめん、と青年は小さくなる。
 こういう実のない話がレテは苦手だ。謝るぐらいなら最初からしなければいいと思う。
 発端であるヨファは、口笛でも吹きそうな形に口唇をすぼめて、右に左に首を傾けている。
「おい。お前は何故こいつと同室なんだ。兄とやらはどうした?」
「オスカーお兄ちゃん? やだよ、口うるさいんだもん。ボーレはボーレ自体がうるさい」
 レテの問いに、ヨファは悪びれもせず答えた。
「ぼくはキルロイさんといっしょにいるんだ。心配だから」
 ヨファの方は特段気にもならない。青年の方が否定もせずにへらへらしていたのがレテの癇に障った。
「腑抜けだな。子供にこんなことを言われて、何も言うことはないのか」
「ぼくは子供じゃないよっ!」
「うるさい、私はこいつと話をしている!」
 レテはヨファの抗議を遮り、一歩前に出る。青年は怯えて後ずさるかと思ったら、その場を動かなかった。
「ヨファは確かに僕らより幼いかもしれないけれど、でも、子供じゃないと思うよ。僕はとても頼りにしているんだ」
 青年は飴色の目で真っ直ぐにレテを見つめていた。決して強い眼光ではなかったが、その濁りのなさはレテを困惑させる。
 ヨファは立ち上がり、レテと青年の間に立った。
「ぼくは子供じゃないけど、一人前じゃないことぐらい分かってる。キルロイさんは大人だけど、身体が弱くて戦えないんだ。ぼくらは半分ずつかもしれないけど、だからいっしょにいるんだ。だから、ぼくはキルロイさんを守るんだ」
「ヨファ。ありがとう、もういいよ」
 青年はそっとヨファの肩を抱いた。よくないよ、と叫んでヨファは身をよじる。
「レテさんだってそのはずだよ。兵隊さんって、戦えない人を守るためにいるんでしょ? その人たちは、守られてるから恥ずかしいって思わなきゃいけないの? ぼくらはその人たちのことが大切で、だから、戦うんじゃないの? レテさんはちがうの、ねぇ」
 少年の疑問はあまりにも純粋で、レテの胸に鋭く突き刺さった。レテはゆっくりと息を吐きながら、違わんな、と天井を仰ぐ。
「お前の言うことが正しい。余計なことを言った」
 立ち去ろうと背中を向けたら、青年に呼び止められた。レテは振り返らぬまま聞いている。
「余計なことじゃ、ないと思うんだ。黙って軽蔑される方が僕はつらい。本当を口にすることで変わることもあるんだし。だから、君がちゃんと言葉にしてくれたこと、僕はとても嬉しいと思うよ」
 穏やかな声だった。レテが肩越しに視線をやると、青年はゆっくり微笑んだ。
「ありがとう。僕たちは半分こだから、僕もちゃんとヨファを守るよ」
 レテは今度こそ部屋を出た。気分が悪かった。早く同胞の顔が見たい。
 だが足早に歩いているところを、部屋の中から呼び止められた。
「申し訳ない。この雨戸の開け方を教えていただけませんか――お急ぎでなければ」
 ヨファの『口うるさい』方の兄御だ。寝ているのだか起きているのだか分からないような顔をしている。
 レテは眉をひそめた。急いでいることぐらい見れば分かるではないか。しかしここで問答をするより、雨戸ぐらい開けてやった方が面倒がない。
 部屋の中に入り、窓に近づく。雨戸の錠は外れている。これならすぐに開くはずなのだが、押しても動かない。レテが両手を雨戸に押し付けていると、兄御がのっぺりとした声で言った。
「弟が何か、ご無礼をしましたか?」
 先程の大声が聞こえていたのかもしれない。力を入れると、木製の扉が開いて西日が射し込んでくる。
 ガリアの窓には硝子も窓掛けもない。風も光も全てありのままだ。
「確かに貴様の弟とやらは、無遠慮だ。だが短慮ではない。無礼とも思わん」
 兄御は、そうですか、とただでも細い目を一層細めた。レテは雨戸を軽く叩いた。
「立て付けが悪くなっているようだ。閉めるときにも力が要るかもしれん。後で直させよう」
「よかった。私が壊したのかとヒヤヒヤしてしまいました」
 兄御が品よく笑う。レテは振り向く。半分は冗談だが半分は本気で問う。
「自分に責任がなければ気が済む訳か」
「気が済む? と、いうより――そうですね」
 兄御は腕組みをして眉間にしわを寄せた。
「安心はするでしょうね。建物が劣化するのは自然のことですから。自分がそれを不自然に早めてしまっては、貴女方に申し訳が立ちませんので」
 妙な奴だと思った。どうして怒りもせず馬鹿真面目に答えるのだろう。団長ともども妙な奴らだ。
 そんなことより、半時後の会議に備えて少し休まなければ。
 

 

「よぉ、レテ。おつかれさん」
 日没。あてがわれた部屋に戻ろうとしたら、ライが声を掛けてきた。片手を上げて、にやにやと笑っている。
 レテは思い切り右の肘を引き、ライの頬に向け拳を突き出した。ライが慌ててレテの右腕を掴む。
「ああっぶね! おっまえ、上司にいきなり殴りかかるなよ!」
「うるさい、私は部下を生け贄にするような男を上司とは認めんぞ!!」
 先の集まりを思い出す。
 クリミア王女がベグニオンに行くので、我が国からも護衛を出すことになった。
 希望者はイるか? マぁ、イるわけナいな。
 モゥディは傭兵団だかの連中を随分気にいっていたみたいだぞ。
 ジゃあモゥディを行かセたらイい。
 だったら隊長のレテも監督者としてついて行くべきだろう。
 では、レテとモゥディが行くということで。賛成。賛成。賛成。
「お前全然止めてくれなかったじゃないか! あんなものが会議なものか、ただのイジメだろう!!」
「いやー、だって、オレも師団長とはいえ下っ端なワケで。上に楯突くなんて恐ろしくて出来ないって」
「嘘をつけ、いつもならもっとズケズケものを言う筈で――」
 そこまで怒鳴って、レテははっと気付いた。
 そうだ。そもそもレテ達が傭兵団の元に遣わされたのも、ライの差し金ではないか。
 王の信頼厚き師団長殿は、ベグニオン行きのことも承知済みだったに違いない。ハメられたのだ。
「歯を喰いしばれ」
 レテは改めて右腕を振り上げた。予告したのにライは避けなかった。
 つまり、これで許せということなのだろう。腹立たしいので額も叩いておいた。
「二発目は余計じゃね?」
「やかましい。これぐらいで済まされるのをありがたく思え、クソ上司」 
 吐き捨てる。ライは殴られた方の頬をさすりながら、ため息をついた。
「何もオマエらだけを行かせようなんて思っちゃいない。コトがコトだからな、一番信頼できる奴らを連れて行きたいんだ」
「キサは?」
「あいつまで外に出しちまったら、誰がウチの隊の面倒を見る? オレとオマエが出て、キサとサルロが繰上げで隊長代理をやる。これが妥当だろうが。それともあいつらとモゥディを出してオレとオマエが残るかい」
「分かった、分かった。今のを二発目の分で許してやる。……まったく」
 今度はレテが嘆息する番だった。
 若き重鎮に信頼されているというのは悪い気分ではなかったし――それは間接的に王の信頼を得たということだから――ライの言う理屈も分からないではなかった。優秀だが経験の浅い部下たちに、こんな役目を押し付ける訳にはいかない。
 ならば喜んで引き受けるかといえば、そういう心持にもなれなかった。
 ライは肩をすくめる。
「色々準備もある。明日も早朝に出発ってことにはならないだろう。長旅だからな、親御さんに顔ぐらい見せてきな」
「気遣いは無用だ。かえって今生の別れみたいな気分になる」
「じゃあせめてリィレと会ってけよ」
「それこそ理由がない」
 レテは痛む頭を押さえた。
「もういいだろう。疲れた。休ませてくれ」
「……オマエがいいなら、オレはいいけどね」
 ライは首の後ろをかいた。レテは立ち去ろうとしたが、ふと思い出して、振り返る。
「あの花、どうなった?」
「花?」
「お前に預けたままの――」
「ああ、キサに任せてあるけど。見ていく?」
 レテはゆるゆると首を振った。
「元気ならそれでいい」
 口の中で繰り返す。
 両親も……妹も、ただ元気なら、それで。
 それだけで安心して、大切な人達の為に、自分の半身の為に、戦うことが出来るのだ。
 それ以上の甘えも赦しも要らない。
 レテは顔を上げて、歩き出した。
 もうしばらくは見ることのないガリアの夜を、瞳に焼き付けておこうと思った。
 

 

「レテ」
 廊下で呼ばれて振り返るとそこにはキサがいた。
 男に生まれたが心は乙女だと言い張るキサのことを、彼と呼ぶべきか彼女と呼ぶべきかレテには分からないが、ただともかくキサはキサなのだからそう呼べばいいと思っている。
「どうした? 今日も仕事があるんじゃないのか」
 レテは気遣いながら問うた。これが別の者なら詰問調にもなるかもしれないが、真面目なキサに限って職務放棄するなどということはありえない。何か不都合が起こったのかと心配にもなる。
「朝ぐらいは自分の時間も取れるのよ。少しだけどね」
 キサは広い肩をすくめた。虎としては華奢なキサだが、猫であるレテと比べればやはり大柄に見える。
「ベグニオンに発つの、今日でしょう? 挨拶ぐらいさせてちょうだいよ」
「あ……」
 まったくライ隊長と一緒に船旅なんて羨ましいわねぇ、こんなときじゃなきゃついて行きたいわよと笑うキサに、レテは耳を伏せた。
 顔を背け、戦に向かないキサの腕を両手で握る。
「どうして、お前が行かないんだ」
 キサはため息をついて天井を見上げた。
 ラグズはベオクよりも自然に忠実である。自然に反したことをラグズは許さない。生来の性と違う性を自称する者の存在など、ラグズは認めない。だが、ライはキサを認めた。キサが『彼』ではなく『キサ』であることを許した。キサがライに惹かれるのは至極当然のことだった。
 レテは指先に力を入れる。
「ライが一番信頼してるのは、きっと――」
 キサはライの忠実な右腕として働いてきた。ライに迷惑を掛けぬため、寡黙に謹厳に振るまってきた。
 無事に帰れるかも分からない、この危険で重大な任務において、ライの傍らにあるべきは誰よりもキサであると、レテは強く思う。
「だからこそ、でしょ」
 キサはレテの手をそっと剥がした。見上げる紫の瞳を、藍色の目で優しく見下ろす。
「あの人は、残していくものたちをあたしに託してくれたの。命よりも大切にしているものたちをあたしに任せてくれたの。それはあたしにとって、何よりも誇らしいこと」
 だからあんたは行きなさい。胸を張って行きなさい。
「あたしの分まで、あのひとを守って」
 キサは震える声で言って、レテを抱き寄せた。髪を撫でる手は大きくてあたたかった。幼子にするようにキサが包んでくれると、レテは決まって安心する。
「こんなところを誰かに見られたら、妙な噂が流れるぞ」
「かえって都合がいいわよ。ホントのことは、あんたと隊長だけ知ってくれてればいいの」
 キサはそう言ってレテの背中を軽く叩いた。
「あんたも無茶しないのよ。あんただって、あたしの大事な人なんだからね。レテ」
「わかってる」
 レテはキサの胸の中で首を振った。
「私はベオクの中でなんか死なない」
 嘘つき共の中でなんか死なない。誰かを守る為に自分を偽る哀しみを、私は知っている。
 自分を守る為に誰かを欺く者たちの中でなど、死なない。
 ベオクの為などではない。王の為に。仲間の為に。家族の為に。この国に生きる全ての者の為に。
 私は私の同胞の為にこそ、戦うのだ。
「思いつめちゃダメよ」
 キサの指がレテの髪を梳いた。
 服を握り締めながら、わかってると繰り返すと、どうかしらね、とキサはからかうように笑った。
 

 

 指示された部屋で待機していると、ライが傭兵団長とクリミア王女を伴ってやって来た。
 王女はベオク式の――といっても、アレはベオクのうちでも女だけ、更に上流階級に属する者しかしか用いないらしい――礼をして、モゥディに初対面の挨拶をする。モゥディがにこやかに答える。
 まったくベオクというのは他人に取り入るのが上手いものだなと思いながら、レテは壁に寄りかかる。
「本当に、いいのか? あんたたち」
 傭兵団長が寄ってきて、気遣わしげにそう訊いた。
 レテはこの手の意味のない問いが嫌いだ。
「他の者は皆、ベオクと行くことを嫌がったんだ。私だって、ベグニオンに行くのは震えがくるほど嫌だが……王のご命令とあらば、従う他あるまい」
 ここで自分が本音を言っても何も覆らないのだ。それをわざわざ確認してくるなど、悪趣味にも程がある。
 アイクは何か言いたげに息を吸ったが、結局喉は震わせなかった。一度唾を呑み込んでから、アイクは揺らぎのない声で続ける。
「それでも、助かる。獣牙族の戦闘力の高さは、何度か見せてもらったからな」
「そうだ我らは戦力補強の為に行く。それ以上の接触は無用だ。馴れ合うつもりはない、心しておけ」
 レテは彼の目を間近で睥睨してから、後悔した。胸がざわつく。全てを底の底まで招き入れるような、深く(ひろ)い海の色。
 レテはこの色を見る度に落ち着かなくなる。何もかもぶつけてやりたくなる。
 ああそうだ、お前にはもう分かってるんだろう。お前らを蔑みながら、私は少しずつ『ニンゲン』と同じ罪を重ねて――。
「コイツの憎まれ口は許してやってくれ」
 唐突に、ライが肩に手を回してきた。気軽さを装ってはいるが、指先の強さが彼の感情をはっきりと伝えてくる。
 凍りついたレテの耳に、ライは酷薄な声を滑り込ませる。
(下手な挑発は止せ。レテ第三連隊長)
 レテは目玉だけでライの顔を見た。アイクに向けられた表情は完璧なまでに友好的だ。
 口許を歪ませ、レテはライを振り払った。自分の建前などお話にもならない。この男は、もっと悲惨な欺瞞に塗れて生きている。相手の権謀と対峙する為に、彼自身も毒を呷らねばならなかった。彼は激痛に身を灼かれながら、王の為に生きることを選んだのだ。
「オレは、王に報告を済ませたら戻ってくる。アイク達は、それまでに出発の準備を完了しといてくれるか?」
 ライは肩をすくめてそう言った。アイクは、分かったと呑気に答え、王女と共に部屋を出て行く。
「モゥディ、一応お部屋までついてて差し上げてくれ」
 ライは親指で外を指差す。オぉと言ってモゥディが駆け出て行ったら、ついに二人きりになった。
 レテは顎を引いてライを睨んだ。
「オマエはオレと来い。いいな」
 ライはその視線をあっさりと受け流し、歩き出す。レテも慌てて後を追う。
 回廊を早足で彼は行く。その背に投げつけたいものは余る程あるのに、握ろうとすると崩れてしまって、上手く手の平を離れない。
「お前は、よくも、そんな」
 無理に放った言葉は文章の体を為さなかった。
 レテが悔しさに口唇を噛んでいると、ライは振り返らずに足を止めた。
「オレは、本当に悪いベオクなんてそうはいないと思ってる」
 またお得意のベオク擁護論か。あんな接し方しか出来ないくせに。レテはそう思いながら、鎖した口唇を解かずにいる。
 ライは半身をこちらに向けた。頭の上の耳はぴんと張っている。
「ベオクを奸計に駆り立てるものは、弱さだ。オレ達はそれを受け入れなければならない。彼らは本質的に弱いものなのだと知っていれば、向けられた善意を疑わずに済む。唐突な悪意に動じずに済む」
 まだ角度のない陽射は、ライの顔を完全に照らし出すには至らなかった。しかし獣牙族の目には、表情まではっきりと分かる。
「弱さと相対する為には、自分が強く在ればいい。単純な話だ」
 二色の双眸は揺るぎなく一点を見つめている。
 レテは返事をしなかった。拳を握り締めてただじっと立っていた。
「ただ、見失わなければいいんだ。獣牙の誇りを」
 ライは歩み寄ってきて、歌うように囁いた。
 レテはその太腿に蹴りを喰らわす。いてぇ、とライが叫ぶ。
「何だよ!」
「お話はそれだけか。師団長殿」
 レテは苦々しい顔で言った。
 ライは、あーもーいいよ、これ以上蹴られちゃたまんねーや、と手で払う仕種をする。
「大丈夫だよ、オマエなら!」
 立ち去ろうとする背にライが叫んだ。レテは一瞬だけ視線を向け、すぐに歩く速度を速めた。
 

 

 
 回廊に座っていたら傭兵団長殿がやってきた。こちらから声をかけてやる義理はないと思い、レテは無反応を貫く。
 前を見つめているが特に何を見ているのでもない。何かしている風でないと、無視するにも体裁が悪いというだけだ。この期に及んで体裁など気にしている自分が馬鹿らしい。
 アイクはレテのほぼ真後ろに来てから、ようやく口を開いた。
「憂鬱そうだな」
「当たり前だろう。くだらないことを聞くな」
 どうしてこいつはいちいち分かりきったことばかり訊くのか。弱い弱いというのなら、こいつの一番弱い場所は頭だ。
 レテは胸中で毒づいた。 
 アイクは、間に二人ぐらい座れるような位置に腰を下ろした。レテはぴくりと耳を動かす。確かに密着なぞしようものならその場で後頭部を石に沈めてやるところなのだが、かといってこうあからさまに気を遣われるのもかえって癇に障る。
 しかしライに釘を刺されたばかりだったので、黙っていた。口を開くのは例によってアイクだ。
「……さっき、ガリアの兵士に道案内を頼んだんだが」
 そこでアイクは一度言葉を止めた。レテは何も言わない。ここで終えようが終えまいが向こうの勝手である。望んで聞いている話ではない。
 アイクは長い息継ぎを終えて続きを口にする。
「離れて歩いてくれと言われた。受け継がれた血が、ベオクに受けた仕打ちを覚えているからと」
「そうだろうな」
 レテは短く言った。それきりだった。
 なぁモゥディ、お前の血は何故ベオクを拒まない? それともお前は、血をもねじ伏せる程の強さをその大らかさの内に持っているのか。お前は本当に、ベオクの罪を弱さのせいにして赦すことが出来るのか。
 本当は苦しいんじゃないのか。――なぁ、ライ。
 レテはうなじに手をやり、翡翠の髪飾りにそっと触れた。
 お前の中には、我らの国には、こんなにも優しく美しいものが息づいているのに。我らはどうして、我らだけで充足することが出来ないのだろう?
「……遅い」
 レテは何の前触れもなく吐き捨てた。
 何か他のことに苛立ちをぶつけないと、とらわれてしまいそうだったのだ。
「まだ揃わないのか? ベオクというのはどれだけ愚鈍なんだ」
「悪いな。あんたたちみたいに、身一つで動ければ楽なんだろうが……武器の用意なんかは手間取るんだ」
 アイクは首を振った。いつもは無根拠な自信に満ち溢れているくせに、ときどきふと恨みがましいことを言ってくるところが、レテの気に喰わない。いっそ黒尽くめの軍師のように、常に嫌味たらしい方がマシというものだ。
「『鉄』の武器か。ベオクは軟弱だ、あれがないとまともに戦えないのだからな」
 レテがそう言って鼻を鳴らすと、アイクはすかさずレテの左脚を指差してきた。
「だが、あんたも短刀を持ってるじゃないか。その足につけてる鞘はそうだろう?」
 揚げ足取りに余念のない奴だ。レテはため息をついて首を横に振る。
「これは戦い用じゃない」
「じゃあ、なに用なんだ?」
「肉を食べる時に小骨をとったり、果物を口に入れる大きさにしたり……。なかなか重宝するんだ」
 レテは抑揚のない声で答えた。
 アイクは黙ってこちらを見ていた。
 眺めるというのでなく、何かを引き出すようにじっと強く、見つめていた。
「なんだ? 言いたいことがあるなら、はっきり言え!」
 レテは耐え切れなくなって怒鳴りつける。アイクは無愛想に皮肉を重ねる。
「ベオクが嫌いでも、ベオクの作るものを使うんだな?」
「いいものは、いい。当然の評価を捻じ曲げてまで、否定論に固執するのは愚か者のやることだ」
 口にしながら、レテは自分に言い聞かせる。
 好悪と、利便性とは、違う。分けて考えなければならない。厭賤と、殺意とは、違う。分けなければ、陰惨なことになる。嫉妬と弾圧を分けられなかった、ニンゲンたちのように。
 だから、ライは。私は。割り切るしかない。お前たちはそれを、私たちを節操無しと嗤うだろうか?
「私だって、ベオクのすべてを否定している訳じゃない。ベオクが皆、お前のように我らと普通に接するなら、きっと……」
「レテ」
 名を呼ばれ、レテはびくりと肩を震わせた。思わず見てしまった蒼い瞳は、漣すら立てずにレテの視線を吸い込んだ。
 寒気がした。ああこうして騙されてきたのだ、と思った。
 強く在らねばならない。こいつらは、その弱さ故に弱さを見逃さない。
 ――いつか引き裂かれる。小さな綻びから、残酷に、指をかけて。
「く、くだらない話をしてしまった! 私はもう行くからな」
 レテは慌てて立ち上がり、駆け出した。一刻も早く彼のそばを離れたかった。
 疑うな。信じるな。動じるな。ライ、私には無理だ。私には、難しすぎる。
 戦いなら負けない。誇りだってある。けれど。あの瞳に向き合うには、私はあまりに弱すぎる――。
 風を切る。樹々の葉が揺れる。花の香が吹き散る。
 レテは思う。ああ私の五感はガリアを受け取るだけで手一杯だ。
 これ以上のものを、どう抱えろというのだろう?