第二章 光が風に舞い遊び - 3/7

 

幕間・白い封筒

 

「姉さん。こんなところに一人でいちゃ危ない」
「危ないかどうかは自分で分かるわ。一人にして頂戴」
 気だるげに答えた姉に最早何も言わず、ジョフレは首を振って立ち去った。ルキノは薄汚い壁に背を預け、ため息をつく。
 クリミア王都が陥落した後、ルキノはフェール伯ユリシーズの助けを得て王城を脱出。王女を連れ出したはずのジョフレは、急襲を受けその居所を見失った。散り散りになった彼らは、有事の際に集まるよう決めていた場所にばらばらと落ち合った。
 ルキノはまず弟の無事を喜ぶより先に、血を分けた美丈夫を見る影のなくなるまで殴った。ユリシーズが止めなければ殺していたかもしれない。もっとも、殴ること自体を止めなかった彼も、されるがままだった弟も、怒っているのには相違なかった。
 しかしジョフレをいくら責めたところで、過去は変わらない。ともかく遺臣を集め、潜伏しながら機を計ることとなったのだが。
 デイン軍によるクリミア王女の捜索は目下継続中。この大掛かりな動きがやんでいないということは、エリンシアは少なくとも捕えられてはいないということだ。だがそれは、即ち彼女が無事であることを意味しない。
 女神よ、どうかこれ以上の試練をあの方にお与えにならないで下さい。ルキノは目頭を押さえる。
 エリンシアは誇張ではなく、本当に虫も殺せないような少女だ。尊い血筋に生まれたからといって、豪奢も華美も好まなかった。日々を慎ましく営んで、花が咲いたと喜んで、ルキノが淹れた茶を美味しいと言ってくれた。
 貴族同士の諍いや、厳しい鍛錬に疲れたときも、エリンシアが笑ってくれるだけで癒された。
 ルキノにとっては、彼女こそが女神だったのだ。こんな過酷な目に遭うべき人物では、決してない。
「どうしてなの……」
 呟いたとき、風がやわらかな声を耳に運んだ。
「大丈夫。クリミアの姫君は無事にガリアに入られたよ」
 神の啓示か、とルキノは身体を強張らせた。だがすぐ我に返り、口許に苦々しさを滲ませる――何故女神の御声が男の声なのだ?
「何者?」
 ルキノは誰何しながら振り返った。右手は剣の柄にかけている。くすんだ土色の外套に身を包んだ男は、何も持っていないことを示すように両手を軽く上げた。
「あぁ、すみません。あんまり悲しそうだから、つい早く安心させてあげたくなっちゃって……驚かすつもりはなかったんだけど」
 目深に被ったフードの陰から、紫色の瞳が遠慮がちに覗いている。
 全身を覆うのは、意図的につくられた無防備だ。実際には一分の隙もないのがルキノには分かる。
「オレはこういう者なんだけど」
 男が左手を懐に入れた。ルキノは抜刀した。本当に斬ろうとしたのではない、一種の警告だ。男はルキノが肉薄する前に地を蹴る。ルキノは思わず上を向く。逆光の中で三日月のように背を反らしている身体を見て、言葉を失った。
 ――どういうこと。人間は、あんな風に滞空していられるものなの?
 軽やかに着地した男は、あー、申し訳ない、と言葉を選ぶようにゆっくりと弁明した。
「確かに、誤解を招く言動だった。ただ、オレには貴女を傷つける理由も、意思もないことは、分かってほしい」
 ルキノは目を丸くしたまま男を見つめていた。男は両膝を曲げて右手を下についている。フードはさっきの拍子に肩へ落ち、逆立った髪が露出している。その空色の茂みの中で、特徴のある耳が半回転する。
 ルキノは半歩後ずさりながら、その男に問うた。
「あなた、ラグズ――獣牙族の猫、ね?」
「さすが友好国クリミアのお貴族様。その名称をご存知とは、よく教育されていらっしゃる」
 男は低い姿勢のまま、にやりと口唇を歪めてルキノを見上げた。
「オレはライ。ガリア王国第六師団長、カイネギス王の密命によりクリミア遺臣を捜していた」
 ルキノははっとして辺りを見回す。大丈夫誰もいないさと男、ライは笑う。ベオクよりずっと気配に敏感なラグズが言うのだから、間違いはないだろう……この男に悪意がないとすれば、だが。
 ルキノは眉をひそめながら剣を納めた。
「ご無礼を。状況が状況なものですから」
「それは、ね。ところで、お願いだからそんなに硬くならないでくれるかい? こっちも緊張しちまうんでね」
 とりあえずこれをどうぞ、とライは立ち上がり、何かを差し出した。先程懐から出しかけていた物だ。
「貴女がたの頭に渡してほしい。そして内容を把握し次第、即刻燃やしてくれ」
 一通の手紙だった。ガリア王国の封蝋は本物に相違ない。
 肩の力が抜けていく。ルキノは封筒を胸に押し当て、ごめんなさい、と呟いた。
「疑ってしまって本当にごめんなさい。姫様は……エリンシア様は、ご無事でいらっしゃるのね?」
「ああ、お怪我すらない。姫君はガリア王宮が保護している」
 ライはルキノを安心させるような声音で言った。だがすぐに硬い口調になる。
「だがいつまでもウチで預かっているという訳にもいかない。そこにも書いてあるが、細かいことは追って連絡しよう」
「そうは言っても、一体どうやって?」
 いくら何でも、今この場で彼に隠れ家を教えることは出来ない。ルキノの困惑を読んだように、ライは微笑して首を傾げた。
「大丈夫、貴女の顔も匂いも覚えたよ。オレは美人のことは忘れないんでね」
 だからオレのことも覚えておいてくれよ。どこまで本気か分からない台詞を残し、ライはきびすを返した。
 ルキノは、フードを被り立ち去ろうとする彼に駆け寄り、腕を掴んだ。
「待って! エリンシア様にお伝えして。私たちは無事でいると……」
「それは出来ない」
 ライは二色の双眸でルキノを見下ろしながら、きっぱりと言った。だがルキノの動揺に同情の念が起こったのか、急にやわらかい言い方になる。
「正直に言って、今は姫君より貴女がたの方がよっぽど危険な状況に置かれてるんだ。生存の報がいってからもしものことがあったら」
「――ええ、そうね。姫様を、より深い絶望へ追いやることになる」
 ルキノは俯いてライの腕を放した。
「ごめんなさい。浮ついていたみたい」
「冷静でいろって方が難しいだろう。でも、貴女は充分に聡明なひとだと思うぜ」
 ライは右手を地面と水平に伸ばした。そのまま肘から先を内側に折る。ラグズ式の敬礼だ。ルキノの目を真っ直ぐに見つめて、言う。
「貴女がたに女神の御加護があらんことを」
「ありがとう」
 ルキノは手巾を取り出してライの手に握らせた。ラグズなら、ベオク貴族の馬鹿げた風習(たとえば女性のハンカチを婚約の証として受け取るようなこと)を知らないだろうし、よしんば知っていたとしてもこの状況で勘違いはしないはずだと思った。
 仮に、もし仮にそんな風に解釈されたとしても――大事の前の小事だ。後で拒めば済むだけのこと。
「私の匂いを忘れない為に持っていてほしいの。道中のご無事をお祈りしています」
「どうもご丁寧に」
 次に会ったら返すよと、ライは知っているとも知らないとも分からない一言だけ置いて、いなくなった。
 ルキノは充分に警戒しつつ、それでも隠せない軽い足で仲間の元へ戻る。
「ユリシーズ! ユリシーズはいる?」
 すぐに見慣れた髭面が奥から出てきた。胸に右手を当てて近寄ってくる。
「おお、ルキノ殿! そのように声を張り上げずとも、愛し君の水面を渡る風のごとく涼やかなる美声は、たとえ千里を隔てようとも恋の奴隷たる我輩の耳には届きますもの。ところでいずこへ行っておられたのかな? ルキノ殿との別離は一瞬たりとて耐えがたき地獄の責め苦、それはさしずめ古の未だ他の大陸在りし時」
「貴方に恋文よ。ユリシーズ伯」
 放っておけば永遠に続きそうな口上を遮り、ルキノは封筒をひらりと振った。なんと、とユリシーズが目を丸くする。
「この手紙を、一体誰が?」
 お得意の華美な修辞もなくなっている。ルキノは口唇の端を上げ、肩をすくめた。
「ガリアの師団長殿。とても紳士的だったわ。クリミアの貴族なんかより、ずっとスマートで素敵な殿方」
 なんと、とユリシーズは同じ言葉で悲鳴を上げた。より熱心に追及しようとするのをかわして、ルキノは弟を呼びつける。
「ジョフレ! ジョフレいらっしゃい。今日は姉さん機嫌がいいの。特別にお料理を手伝わせてあげる」
 ジョフレは気乗りしない様子だったが、下手に断ってせっかくのご機嫌を損ねるのも得策ではないと思ったか、大人しく姉に従った。とはいえ気にはなるらしく、何があったんだ、といつでも撤回できるような音量で控えめに尋ねた。
「今に分かるわよ。あなたも生きたくて仕方なくなるわ」
 ルキノは早口に答えた。ジョフレは首を傾げたが、それ以上何も聞かず後をついてきた。
 生きるのだ。再び主にまみえる、その日の為に。自分たちの希望である主の、その希望となる為に。
 生きるのだ。何としてでも生き延びるのだ。