第二章 光が風に舞い遊び - 6/7

SIDE Rethe

 

 

届かなかった手

 

 クリミア騎士や民兵の生き残り、更に鍵開けを手伝ってくれたフォルカと名乗る――軍師殿曰く『これからも役立ちそうな』男を引き連れ、レテたちは海辺の町へとたどり着いた。
 クリミア最西の港町、トハだ。
 なのだが、一番肝心な人の姿が見当たらない。
「まったく、あの人は……!」
 一人佇む人影に、レテは走り寄っていく。耳を隠すための外套が取れぬよう、手で押さえながら。
「王女! 勝手に出歩かれては困ります」
 周囲に聞こえぬよう、だがベオクにはぎりぎり聞こえる声量で叱責する。
 え、あ、ごめんなさい、と王女はひどく狼狽した様子で謝罪した。
「あ、また……無闇に謝らぬよう言われたばかりですのに。私ったら」
「そのことは今は構いません。何故お一人でうろうろなさるのです、こちらが一体誰をお守りする為にここにいるとお思いなのですか」
「すみません。町を――見ていました」
 エリンシアは遠い目をして、人や、建物、水平線を見つめていた。
 存在を隠して離宮で暮らしていたため、限られた場所しか知らぬこと。人々の暮らしを生で見るのは初めてで、何もかもが目新しくてつい歩き回ってしまったことなどを語りながら。
「この国をいずれ統べようという者が、こんなことを言ったらまたレテ様に叱られてしまいそうですけれど――これが町、なんですね? 活気があって、みんな楽しそうで……」
「確かに賑やかですね」
 嫌味ではなく素直に答えただけなのに、エリンシアは一人で表情を曇らせた。
「まるで何も起きなかったようですね。すぐ近くで、大勢の人間が死んだなんて……嘘のよう」
 レテは何も答えなかった。ガリアからほとんど出たことのないレテにとっても、この活気は興味を惹くものであったし、それ以上に嫌悪感を起こさせるものだった。
 この国の王女が感じたことまで斟酌しようとするのは、明らかに分に合わぬ行いだ。
「レテ様は、お買い物はよろしいのですか?」
 エリンシアの無理に出したような明るい声と笑顔が痛々しい。レテは、ええ、短く答えた。
「私は身ひとつで構いません。他に正体を隠す外套さえあれば」
 食べ物はライが何とかしてくれているでしょう、抜け目ない奴ですから、と付け足すと、おどけたつもりはなかったのだが王女は愉快そうに笑った。
「それは素敵ですね。とても素敵」
 そこに皮肉の響きはなかった。純粋にそう感じているようだ。
 アイクといいこの女といい、やはりベオクはよく分からんと思いつつレテは頬をかいた。
「王女こそ、何かご入用では? お探しの品があれば、手配するなりお供するなりいたしますが」
「そうですね。私も身ひとつで――と申し上げたいところなのですけれど、ベオクはあと少し付け足すものがありますので」
 お付き合いいただけますかと言うので、もとよりそう申しておりますと返したら、いたく喜んでいた。
 やはりまだ、レテには彼女が理解出来そうにない。
 

 

 各々が支度を済ませて集合したちょうどその頃、デイン兵による街頭演説が行われていた。
 残党狩りの手がここまで伸びてきたのだ。
「まずいですね。早めにアイクたちと合流しましょう」
「は、はい……」
 はぐれないように掴んだ手を、エリンシアはぎゅっと握り返してきた。その、ラグズであり他人である自分をまるっきり信頼しきった体温に、レテは複雑な気持ちを抱く。
 アイクの匂いを辿っていく途上、二人は不穏な叫びを聞いた。
「は、半獣っ!」
 手の中でエリンシアが身を硬くするのが分かる。
「レテ様、今の……」
「――ええ。急ぎます」
 自分はここにいる。該当するのはライかモゥディしかない。
 エリンシアは連れて行くべきかどうか迷ったが、置いていくよりはずっと安全だと判断した。
「なんだって半獣がこんなとこをうろついていやがるんだ!」
「半獣ごときが、人間様の町に足を踏み入れるんじゃねえよ!」
 手の中で、エリンシアの体温が下がっていくのを感じた。
 この汚い言葉達を、レテはベオクのものとして切って捨ててしまえる。しかしエリンシアはこれを、自国の民の言葉として受け止めなければならない。父の治世から変わることなく、これから自分が治めようとしている者たちの本性として、無理やりにも知らされなければならないのだ。
 レテはエリンシアの手を強く握り返した。
「ティアマト!」
 ようやく見つけた仲間にエリンシアを託し、レテはモゥディと押し問答している少年のところへ歩み寄った。
「ライを助けないと!」
「コの騒ぎだ。スぐにデイン兵が来る」
「だからこそ、早く……」
 聞き分けのないガキは嫌いだ。少年の頬を音高く叩き、冷たく告げる。
「あいつなら上手くやる。放っておけ」
「ライは強い。モゥディたちより、ズっと。ダから……」
「だから放っておけって?」
 モゥディも加勢してくれたのだが、少年の目は尚更ぎらぎらと光っていた。
 蒼なのに、まるで燃え盛る炎のよう。爆ぜる。そのくせ深い。その色に一瞬、レテは時を失う。
「ライの奴、化身してないってことは、戦う意思がないってことだろ!? 一方的にやられるのを見てられるか!!」
 はっと我に返っても遅い。アイクはモゥディが止める声も聞かずに、飛び出していった。
 ばかめ、とレテは小さく呟く。何だってあの少年はベオクのくせに、ベオクもラグズも等しく扱おうとするのだろう。どうして諦めることを知らないのだろう。
 どうして――そんなにも、自分の信じたものが正しいと、真っ直ぐに胸を張っていられるのだろう?
「やめろ! そいつに手出しするな!!」
「何だ、お前? 人間のくせに半獣を助けようってのか?」
 レテはちらりとエリンシアを振り返る。
 見えますか、姫。この馬鹿も、貴女の愛するクリミアの民です。そして貴女を悲しませる、人々の弱さを受け入れる男が、我らがガリアの民です。貴女が何を感じるかは私の知ったことではない。ただ、目を背けずに見ておきなさい。
 だが、レテが思っている以上にこの少年は愚かで、トハの民は腐り切っていた。傍観を決め込むこと自体失態だったのだ。
「おい、クリミアの王族って、ガリアの半獣とつるんでたよな」
「もしかして、こいつらがデインの捜している軍の残党ってやつじゃないのか?」
「おーいっ! デインの兵隊さんよぉ! こっちに、あやしい奴らが紛れ込んでいるぞー!」
 どこか楽しそうに、まるではやし立てるように声を上げる男。レテはライに言われた言葉を思い出す。
『ベオクを奸計に駆り立てるものは、弱さだ。オレ達はそれを受け入れなければならない。彼らは本質的に弱いものなのだと知っていれば、向けられた善意を疑わずに済む。唐突な悪意に動じずに済む』
 ぎりと口唇を噛む。血の味がする。不快なのはそんなことではなく。
 受け入れなければならない? これでも? お前はなお、この醜悪なイキモノを許容しようと言うのか?
「お前たち、正気か? この国の王は、デインに殺されたんだぞ? そのデインに、お前たちは協力するのか……!?」
 アイクの正論にも、耳を貸そうとするものはいない。
「王は、ガリアの半獣共と同盟を結んだりするから死ぬことになったんだ!」
「そうだよ! どうせ手を組むなら、半獣よりデインのほうがはるかにマシだね」
「そーだ、そーだ! 少なくとも同じ人間だからなぁ!!」
 闘気を纏わせながら、レテは背後の姫君に胸中で問う。
 これでも。貴女は、これらを救おうと思えますか。貴女を売ろうとする下衆共を、守ろうと思えますか。貴女は、貴女は我が同胞を巻き込んででも、戻りたいと思えますか。
 ――なお、『姫君』たろうと、思えますか?
 私は、
「落ち着け、ばか」
 化身しそうになっていたレテは、ライの声で我に返った。ライが片手で腹を押さえながら、もう片方の手でアイクの外套を絞り上げている。アイクが、馬鹿はお前だと悪態をついていた。
 双方真剣なのに、そのやり取りは場違いに平和に感じられ、レテの頭も冷えていく。
「……つまり。俺たちはデインの追撃をかわし、この町の自警団の奴等とは戦わず、全速力で港に行って、ナーシルって男に会って、みんなで船に乗れって?」
「そう! よくできました」
 どうやら結論が出たらしい。レテは安堵して、もうひとつの気がかりであるエリンシアの元に向かおうと踵を返す。
「レテ」
 呼ばれた。深い声で、ライはレテを呼んだ。振り向く。吸い寄せられるように、人ごみをかき分け彼へと進んでいく。
 手にはいつか巻いてやった『証』。ラグズをラグズと定義づける、大事な証の布。その深緑を自分に託そうとしてくれていることに気付いて、いつだったか問われたことの意味も忘れて、無我夢中で手を伸ばし――。
(あ)
 ――風が吹いた。
 思い出も想いも全てさらっていくような無情な風が、二人の間を吹き抜ける。何もかもが幻のようにかき消えて、レテの指先には何も、残らない。
 レテはゆっくりと手を引っ込める。ライは慈愛に満ちた微笑みを浮かべて彼女に言った。行け、と。
 それは感傷の終わりを告げる声であり、別離の宣言でもあった。
「ティアマト、セネリオ! みんなを集めてくれ。ここを脱出する!!」
 少年の叫び。ライは姿を消す。
 行かないでほしいとは言えなかった。そんなに弱くはなれなかった。けれど、何もなかったことに出来るほど、強くもなかった。
 レテは立ち尽くしたまま、掴めなかったはずの物を握るように右手を抱いていた。