第二章 光が風に舞い遊び - 2/7

SIDE Rethe

 

 

幾度も呼ぶ

 

 ゲバル城をようやく出立し、一向は王宮を目指す。
 ガリア王都はここから南に位置する。直線距離でいえば大したことはないのだが、天然の要塞と呼ばれる山脈を踏破することはベオクにとって難しく、海岸線に沿って西に迂回するルートを取るしかない。
 差し当たって向かっているのはゲバル城の南西にあるタタナ砦だ。クリミアの侵攻に備え建設された砦だが、近年は国境警備兵の立ち寄り所、または近隣の漁村と中央を繋ぐ商業の拠点として利用されていた。
「レテ! その辺にいるんだろう、レテ!」
 少年の声が先程から響いている。レテは渋い顔で樹の幹に寄り掛かる。座っている枝が小さく鳴った。
 ベオクの足は遅い。ただでさえ体力で劣っているというのに、女子供や商人なぞをぞろぞろ引き連れているせいで、レテの思っていた以上に歩みは進まない。食事だ給水だといってその度止まっていたら、王都につくまでにどれ程の時間がかかるのかと正直うんざりする。全く、とんだ子守りを押し付けられたものだ。
 少年の呼び声が段々大きくなる。そのうち諦めるだろうと思っていたのだが案外しつこい。
 あのアイクという少年は、やたらと彼女の名を呼びたがる。無愛想な口唇が、レテ、と発する度にレテは不穏な気持ちになる。聞き慣れた二音が異物のように耳の中を転がっているのを感じる。
「レテ!」
 聞きたくない。レテは耳を塞いだが、発達した聴覚はその程度で音を遮断してはくれない。
 レテは大音量で舌打ちすると、少年の声を掻き消すように怒鳴った。
「そう大声を出さずとも聞こえている!」
 呼び声が止まった。少年は音の出所を探していたようだが、すぐに突き止めて樹の傍に立った。
「聞こえてるなら返事してくれたっていいだろう」
「何用だ」
 レテは少年の抗議を頭から無視した。少年は肩をすくめただけでその件を打ち捨てたらしく、レテの質問に答えた。
「飯だ」
「だから?」
 一言で伝わると思い込んでいるような口振りが癇に障った。だから、と少年は表情を変えずに続ける。
「用意が出来たから食おう」
「貴様らと同席する義務はない」
 レテは短く答えた。少年は呆れ顔でため息をつく。そんな顔をされるいわれはなかった。まるで私が駄々をこねているようじゃないか、群れることしか出来ぬ連中に限って社交性云々という言葉を持ち出す、と胸中で毒づきながらレテは少年を見下ろした。少年は動じない。
「せめてこれぐらいは食え」
 そう言って放り上げてきたのは果実だった。ガリアでしか採れないそれは、ライが手配して与えた食料の一部に相違なかった。
 レテは腕を伸ばし、手首を返した。掌が果実の表面を叩く。目を見開いている少年の横で固い音がして、鮮やかな塊が草の上で二度ほど跳ねた。
「施しは受けん。自分の食料ぐらいは自分で確保する」
 巣の中で待っているだけの貴様らと同じと思うな、餓鬼共。
 少年は不自然に開いていた瞼を普段の位置に戻し、黙ってレテを見上げていた。怒りは感じなかった。悲しみも感じなかった。けれど無感情というのでもなかった。静かでいて微かにさざめく蒼の瞳は、海を初めて見たときの落ち着かなさを思い出させた。
 少年はやがて腰を屈めて果実を拾った。
「食事が終わったら呼びに来る。すまんな。すぐに済ませるから」
 少し潰れてしまったそれを弄びながら、少年はきびすを返した。翻る外套の緋色は手の中にある果実の表皮によく似ている。
 少年は歯を当てて果肉をこそぎ取ると、肩越しに振り返って右手を振った。
「初めて食ったが美味いな、これ」
 だから何だというのか。レテは少年を見ることをやめ森の樹々に視線を移した。
 彼らと仲良くなろうとするモゥディを節操なしだとは思わないが、真似しようとも思わない。仕事だからといって割り切るにしても、ライのように八方美人にまでなる必要はないはずだ。
 ライの――ああ、そうだ、ライの部屋に花を受け取りに行かないといけないのだった。レテは右脚を引き寄せて、膝に額を押し付けた。戦争だ、などと言われてしまったが為に、すっかり忘れてしまっていた。
 自分でさえそうなのだ。師団長を務め、クリミア側との窓口にもなっているライならば尚更花のことなど構ってはおられぬだろう。自分の為にと摘まれた花を無頓着に枯らしてしまったら、やはり自分が殺したことになるのだろうか。それともこれはベオクのせいなのだろうか。
 風に答えなど期待できない。能天気な陽射が疎ましい。
 

 

 食事を終えた一向は歩みを再開した。ガリア王国内の他の地方に比べ、クリミア王国との国境に程近いここは道が整備されている。通商拠点であるという点と、クリミアからの客人を迎え入れる機会が増えた為だ。
 先日話しかけてきたティアマトという女性もここを通ったことがあるのだろう。なつかしい、などと感慨深げに口にしている。観光旅行ではないというのに。聞こうとしている訳ではないが、ティアマトの思い出話が耳に入ってくる。
 ガリア王国は以前クリミア王国から交換武官を募ったことがある。彼女は昔、それに志願してガリア王宮に駐留したことがあるらしい。ベオクの言う『昔』がどの程度を指すのかは分からないが、レテの記憶では確か十数年前だったはずだ。
 そう、確か。あの制度が廃止されたのは、あの事件がきっかけだったような――。
「アイク!」
 モゥディの声でレテは我に返った。潮騒が近くに聞こえている。すぐ後ろでは青い髪の少年が話している。
 ああ本当に、余裕綽々で結構なことだ。誰のせいでこんな遅々とした行軍になっていると思っているのか。
「ベオクというのは軟弱な生き物だ。この程度の距離、我らだけなら三日もあれば十分だというのに」
 思わず口にすると、モゥディが諌めるように名を呼んできた。本当のことじゃないか、と抗議するが、モゥディは退かない。
「レテがソんな態度だと、王の恥にナる。モゥディも恥ずかしいぞ」
 正直に言って、モゥディの口から王の御名や恥などという言葉が出てくるとは予想だにしなかった。動揺のあまり横暴な台詞が口をついてしまう。
「ぶ、部下のくせに、上官に口答えするな!」
「悪いコとは悪い。レテはイい戦士だが、ベオクのコとにナると頭が固スぎる」
 更に正論で返されて、引っ込みがつかなくなってしまった。なんだと、と詰め寄るがモゥディは全く動じない。おい、と少年が困惑したような顔で割って入った。
「二人とも、ちょっと落ち着けよ」
「誰のせいで――」
 レテは怒鳴りかけ、動きを止めた。厳密に言えば神経を別の方に向けたのだ。橙の耳が細かく揺らす。
「どうした?」
 少年が訝しげに問うて来る。モゥディが険しい顔で告げる。
「コのニおい、鉄のニおい……。大勢のベオクの武器と鎧のニおいだ!!」
「本当か!?」
「こんな時に嘘などつくか!!」
 レテは思わず大声を出してしまったが、『本当か』『嘘だろ』などという台詞に意味などなく、ほとんど悲鳴の一部なのだと思い直した。我ながら相当気が立っているらしい。舌打ちしている間にモゥディが答える。
「南にアる古城。あの中に、沢山のベオクがイる。みんな鉄の道具、持ってイる」
 吐き気がするような臭い。硬質のものが擦れ合う音。間違いない。大量の武器と鎧だ。クリミア王女を追って入ってきたデイン兵共だろう。ガリアの森にこのような汚れを持ち込むとは、断じて許しがたい。
 自分の隊単独であれば、レテは躊躇なく敵部隊の殲滅に向かっただろう。しかし非戦闘員も多いこの傭兵団を、独断で危険に遭わせる訳にはいかない。
「これから、どうしたい?」
 副長に仲間を集めさせた少年に問うと、なにがだ、と真顔で返された。今何の話をしていると思っているんだ貴様はバカか、と言いたくなったがそんな暇もないので説明してやる。
「目の前のデイン兵たちを相手にするなら、南の古城を落とせばいい。もし逃げるなら、抜け道を……」
「俺は戦う」
 皆まで言わせず少年は言い切った。レテの驚きを察したか、少年は少しだけ口調を緩め、だが力強さは損なわぬまま続けた。
「逃げることが有効な場合もあるだろう。だが、今は負ける気がしない」
「……そうか」
 レテは大きくため息をついた。卑怯なベオクならどうせ逃げることを選択するだろうと思っていたのに。
 ――少しばかり見くびっていたようだ。
「だったらモゥディたちも戦うゾ」
 モゥディがいかにも頼もしげに拳を握った。ああ、と頷く少年の無愛想は変わらないのだが、心なし印象が違うような気がするのは光の加減か。
 陣形を組み直し、いざ交戦かと思われたが、少年の妹――ミストと呼ばれていた――が、自分も戦うと言って聞かなかった。礼を言いに来たヨファという少年もだ。わたしは杖が使える、ぼくは弓が使える、と言い張っている。手を焼いている兄たちの声を聞きながら、レテは一人目を伏せた。
『お前が軍隊なんかで働ける訳ないだろう!』
『どうしてそんなことがお姉ちゃんに分かるのよ!』
「いいかげんにしろ!」
「わからずや!」
 自分の声が、妹の声が、ベオクのきょうだいの声が入り混じって誰の言葉か分からなくなる。どこのきょうだいも同じような言い争いをするものだ、と思う。
 どうして妹があの時、軍隊に入るなどと言い出したのかレテは今もって分からない。妹は痛いことも汚いことも嫌いだったし、戦いなどには本当に毛程の興味も示さなかったのに。意地を張ってみても、きっとすぐに折れるものだと高をくくっていた。
 しかし妹はあの言い争いで家を飛び出したきり、もう何年も帰って来ない。最後にこう叫んだまま、ずっと。
『レテばっかりじゃズルいじゃない!!』
「もう、やなんだもん。お兄ちゃんたちのこと心配しながら待ってるだけなんて……それなら、一緒にいる方がいい!」
 妹が――少年の妹が、言った。レテは思わず顔を上げた。
『ねぇレテ、いつまでそんな仕事続けるの?』
 顔を合わせる度に妹は言っていた。取り返しのつかないことになる前に辞めた方がいいよ。その度レテは、誰かが皆を守らなければならないんだ、お前だって兵隊がいなくなったら困るだろう、と言い聞かせていた。だけど心配なのよ、と妹はむくれていた。
 あの日叫んだ言葉の意味が、もし。
 ――自分ばかり安穏な場所にいることに耐えられない、という意味なのだとしたら。
「お前も、そうなのか? ヨファ」
「うん。絶対、いっしょに行く!」
 もう一組のきょうだいもそう言った。レテは胸中でかぶりを振る。
 違う。あの子は違う。どうせ、私ばかりライと一緒にいるのはズルいと言ったんだ。リィレはずっと私が守ってきた。あの子の嫌いな争いは私が全部引き受けてきた。それでよかったんだ。あの子は私の生きている世界を思い違えて羨んだだけだ。
 どうせ、昔のように私の真似をしたかっただけなんだ。
「どうする? 新団長」
 兄たちの嘆息する音で現在に引き戻される。
 そうだ、今は個人的な感傷に浸っている場合ではない。レテは口許に苦々しさを滲ませた。
 少年も苦渋の決断といった表情をしていた。
「わかった。二人とも連れて行こう。側にいた方が、守りやすいって利点もあるしな」
 妹たちは手に手を取って喜んでいる。レテは眉をひそめて少年に歩み寄った。
「話はまとまったか」
「ああ。待たせてすまなかった」
 少年が振り向く。蒼い瞳がレテを映す。
「……レテ? どうした。あんた、顔色悪くないか」
「うるさい。私は前線で地理を教える。モゥディは後方で行商団の警護をさせる。子守りは貴様らで何とかしろ。異論はないな?」
 レテは言い捨てて少年を追い抜いた。ああ、と少年が低い声で呟く。
 潮風が鼻を衝く。何故そう何度も名を呼ぶのだろう、と思った。
 そして何故そんなにも心配そうな目をするのだろう、と。
 
 

 

 
 タタナ砦に向かうのに、アイクたちは正規のルートをとらなかった。北の海岸を通り、裏門からの制圧を目指す。正々堂々とは言えないが卑怯と言う程の作戦でもないだろう。
 寧ろ、正面突破するなどと気の触れたようなことを言われずに済んで、レテは内心安堵した。モゥディと二人なら難なく出来ようが、大量のお荷物を背負って同じことをするのは無謀だ。
 しかしこの分なら自分たちが手出しをせずとも何とかなるかもしれない、とレテは空を見上げた。
 王の目的はクリミアへの援助であり、デインとの戦ではない。なるべくならニンゲンの血を浴びたくないという私情もあることだし、傭兵団が自力で何とかしてくれるのが一番ありがたいのだ。
 だが現実というものはそうそう都合よく運ばないらしい。微かな羽音を耳にし、レテは舌打ちしてアイクに走り寄った。
「丑寅の方角。何か飛来している」
「飛竜騎士団かもしれません」
 呟いたのは参謀の少年だった。レテの言葉を聞きながら存在を無視している。いい度胸だ、とは思うが、ここで何か言うとまた揉めそうなのでレテは黙っている。
 恐らく騎士団ではない。単騎――しかも膜で風を切る飛竜のような音ではなく、もっと密度の低いものに風をまとわせているような、鳥に似た音だ。
(天馬騎士……?)
 レテは眉をひそめる。雲に紛れて白いものが接近するのを捉えた。
 現在テリウス大陸で天馬を足にしているのはベグニオン帝国ぐらいであろう。クリミアはベグニオンの属国、滅亡は完全な他人事ではないとはいえ、第三国のガリア領内に使者を送るのはあまりにも不自然だ。
 どうする、攻撃するか? しかしベグニオンがクリミアに同情的だった場合、ここで心証を損ねるのは得策ではない。
 迷っているうちに、傭兵団の剣士がアイクの背を踏み台に跳躍した。太陽を割る。光がうねる。同じ年頃の少女達が、天空で鋭き花を咲かす。
 勝負は一瞬だった。天馬騎士の槍が剣の支点を崩し、体重のない剣士の身体は容易く弄ばれた。
「ワユ!」
 それが剣士の名前なのだろう、アイクは叫んで少女を抱き留めた。天馬の主は必死な顔で声を張り上げる。
「アイクさん! 私です、覚えてますか!?」
 聞けばどうもアイクに恩があるらしく、傭兵団に入る為に本国の騎士団を辞めてきたという。打算尽くのベグニオン人が本当にそんな理由でやって来るとは、レテには到底思われないのだが、アイクは信じたようだった。渋った挙句にマーシャと名乗った少女の入団を許可した。
 申し訳のように、構わないかと訊いてきたのが癪に障って、知ったことかと返して黙った。ふっと傍にやってきた天馬に呟く。
「ベグニオンはやはり日和見をするつもりか。それにしても堂々と間者を送ってきたものだな」
 それを聞いた騎手の少女は、困惑したように眉を寄せた。
「私はアイクさんにお世話になったから、個人的にご恩返しに来たんです。ベグニオンとは関係ありません」
「個人的だと? 神使の犬が笑わせてくれる」
「……あなたは、私がベグニオン人だから憎らしいんですね」
 少女は深いため息をついて首を横に振った。露草色の瞳を伏せて悲しそうに(レテには本当に悲しんでいるとは思えない)言う。
「しょうがないですね。ベグニオンの驕りは、多くのラグズを虐げてきましたし……」
「偽善だな」
 レテは少女の言葉を遮った。彼女がそうするのと同じように、レテもまた彼女の顔を見ない。
「ベグニオンがラグズを虐げたのではない、ベグニオンの『ベオクが』虐げたのだ。多くの、ではなく『全ての』ラグズをな。貴様らは未だに自らの驕りに気付かない。いや、なお傲慢になっている。差別を過去のこととし、我らを憐れみの対象として見る程に」
「それは……!」
 少女はようやくレテに顔を向けた。怒りの為か頬が紅潮している。
 レテは紫の瞳で物言わず視線を返す。少女はたじろいだように視線を泳がせ、逸らした。
「ごめんなさい、私の言葉が足りなかったのは謝ります。でも神使様は違います。先代の神使様はもう一度ラグズとベオクの対等な関係をつくり直す為に、奴隷解放令を制定なさいました。今上の神使様も、違反者への処分を厳しく行って……」
「おめでたい奴め。それで現実にラグズ奴隷がいなくなったとでも思っているのか? 問題が裏面化しただけだ。暗部に押しやられたラグズの環境はより劣悪になっている!」
 冷静に指摘するつもりだったのに、語尾が荒くなってしまった。レテは苦々しく思いながら口唇を閉じる。
 ベグニオン人の少女のこの、卑屈でありながら驕慢な態度が苛ついて仕方ないのだ。
「……それでも」
 ややあって、少女は呟いた。レテは顔を上げる。少女はきっと前を見据えながら、確かな声で続ける。
「意味がないとは思いません。100をいきなり0には出来ない。けど、そのままにしておくよりは10でも、20でも、救われる人のいる道の方がいい」
「その10や20の苦役をも、80や90のラグズが引き受けなければならないとしてもか? それでは貴様らの掲げる身分制の焼き直しではないか。運の良い者が富み、そうでない者はより深い貧困の淵に追いやられる。やがて同族間での闘争が起こる筈だ。帝国議会はそうして国内のラグズを相討ちにさせるつもりか!」
 レテは再び激しい声を出す。アイクが訝るような表情でこちらを見ている。レテは舌を鳴らして顔を背けた。
 あの少年には聞かれたくない、と思った。あの曇りない眼で真っ直ぐな理想を言われるのは、この少女の理屈を聞いているよりずっと不愉快だろう。
 ――不愉快? 否。その耐え難さはもっと別の何か。
 こちらに来ようとするアイクに、レテは手振りで拒否の意を示した。アイクが眉をひそめて立ち止まり、何か言葉を発しようとしたとき、少女が突然顔を上げた。
「それでも私は、完璧な方法を探して立ち止まってるより、不完全でも動いてる方がずっと前に進んでるって思います!!」
 アイクもレテも驚いて少女を見た。少女は目に溜まった涙をこぼさないようにする為か、挑むような目つきでレテを見つめていた。
 レテは短く息を吸い、細く長く吐き出した。
「そうだな」
 アイクを追い払い、少女の傍らに立つ。
「積年の問題を一挙に解決する手立てなどない。ベグニオンのやり方に諸手を挙げて賛成はしかねるが……お前の言うことにも一理ある。私が言いすぎた」
「いえ。私もムキになっちゃって、ごめんなさい」
 少女は微苦笑して首を傾げた。その様子はいかにも少女らしいもので、ベグニオンはこんな年端もいかぬ子供を兵士として使っているのだなと、自分が軍人となった歳を棚に上げレテは思った。
「言い忘れてました。私、マーシャといいます。あなたは?」
「レテだ。ガリアの戦士レテ」
 細かい肩書きを省略して答える。レテさん、と呟いてマーシャは手綱を握る。
「砦が見えてきましたね」
「ああ。……頃合だな」
 アイクに駆け寄りその旨を伝える。マーシャが高く飛び立つ。鮮烈な白が蒼穹に拡がる。頭上から黒の兵力を告げる。
「よし。一気に制圧するぞ!」
 団長の声が白浜に響いた。
 
 

 

 
 傭兵団は砦の奇襲に成功した。この場合ただちに潰されずに済んだという意味で、制圧には至っていない。時が経てば不利になるのは目に見えていたが、進んで手を貸す気にもなれずレテは黙って傍観している。
 しばらくしてアイクがついに声をかけてきた。
「すまん。少しばかり手伝ってもらってもいいか。情けない話がどうも劣勢でな」
 劣勢だと認める素直さは認めるが、少しばかりとわざわざつける自意識の高さが多少癇に障る。
 レテは組んでいた腕を解き、首を回した。
「よかろう。貴様らのお遊戯を眺めるのにも飽いていた」
 地面を蹴る。空中で心地よい微熱に包まれて身体のかたちを変える。
 アイクに合図をして駆け出した。デインの指揮官が物見から身を乗り出す。
「待ちかねたぞ、半獣! さぁ来い。この手で駆逐してくれる!」
 聞きたくない呼び名に、じり、と頭のどこかが焼き切れるのを感じた。怒りに身を任せた自覚はないが、傭兵団のことがすっかり意識から抜け落ちてしまった。レテは槍の茂みを駆け抜けて城壁に飛びつく。
 王都と国境の間に位置するこの砦は、厳密に言えば守る為に造られたのではない。戦となったときには、引きつけるだけ引きつけて捨ててしまえと命じられている。ベオクには攻めにくく守りにくい、獣牙族にも守りにくく――しかし攻めやすい、箱。
 獣牙の脚力あればこそ駆け上がることの出来る、ランダムな突起を備え付けた城壁。矢を射るには広すぎ、獣牙が侵入するにはちょうどよい狭間。
 これは『砦』などではない。建物を拠点とするベオクの性質を利用した、巨大な『鼠捕り』なのだ。
 物見台に辿り着いたレテは一瞬で指揮官を仕留めた。頭を潰せば崩れるだろうという考えもないではなかったが、大方はあの単語を口にしたのがこの個体だったという理由だった。それだけで万死に値する罪だった。
 悲鳴も上げずに死んでいったことが少しもの足らず、縁まで引きずっていって投げ落とした。あまり愉快な気持ちにはならなかった。
 号令と共に傭兵団が突撃してくる。あとは連中に任せればいい。これ以上お膳立てする義理もない。
 周囲を片付けてレテは化身を解いた。空は澄んでいる。どれ程高く飛沫を上げようとも天には届かない。
 流れる血を吸い尽くし紅に染まるのはいつの世も足下の大地と海なのだ。
「……レテ」
 やがてアイクが辿り着いて彼女の名を呼んだ。抜き身の剣の先から粘度の高い液体が滴っていた。戦人とも思えぬ華奢な身体が浅く上下していた。
 瞳は定まらぬ焦点を必死に結ぼうとしているかのようにぶれていた。
「少しのつもりだったのだがな。弱すぎて加減がつかめなかった」
 レテが嘘でも本当でもない釈明をすると少年は、助かったありがとうと熱のない声で答えた。
 そうだそれが貴様らの現実だ、とレテは口の中で呟いた。
 大層な理想を並べても、親しげな振りをしてみても、及びもつかぬ力の前に容易く態度を翻す。畏怖。嫌悪。嫉妬。裏返しの軽蔑。
 それ見たことか貴様らは10を救って全てを救った気でいるのだ。――実際には1も2も救われていないことに、いつまでも気付かぬままで!
 レテは渦巻く感情をアイクにぶつけはしなかった。
 この無力で浅はかな少年に叫んだところでどうなる訳でもないと、ただ空を仰いだ。
 風の運ぶ、えずくような悪臭にも天は顔色一つ変えない。