最終話 Near Evergreen - 5/6

永遠の近くに君がいる

「海行きたいな。冬だから寒いかな」
「防寒すれば大丈夫ですよ。臨海公園とかどうですか? 確か巨大観覧車ができたとかって」
「じゃあ待ち合わせ、駅にしない? もっとデートっぽくなるかも」
「それ面白そうですね。楽しみだな」
 日取りは、部活も学校も休みの十二月二十三日に決めた。
 冬休みもすぐそこだけれど、クリスマスプレゼントを一日でも早く渡したい。柚葉――朔夜もそう呼ぶことにした――と相談して買った、締めつけずにあたたかい手袋。
 土・日と天気が優れずヒヤヒヤしたが、当日は冬晴れだった。
「皓汰またコート貸して!」
「いいけど。直前にバタバタするなら何で朝洗濯するの?」
 お前がしないからだろ! と怒鳴りかけて飲み込む。口論する時間すら惜しい。
 待ち合わせの十五分前、駅までは走っても八分。鍵かけといてと残して家を飛び出した。
 父と皓汰が、家事を全く手伝わない。今まで何も感じなかったのに、デートの準備を始めた頃からすごくイライラする。
 私、侑志のこと好きすぎて心狭くなってるのかな。
 考えたら頬が火照った。彼の待つ駅まで全力疾走。到着直前に木陰で止まって手鏡を見る。
 髪よし。カラーリップの発色よし。襟を直して、スカートの裾も確認。
 幹の後ろから駅の入り口をそっと窺う。
 背が高くてやたらに格好いい人がいた。侑志だ。
 いかにも仕立てのよさそうな、すらっとした紺のコート。マフラーもいつも学ランの上にざっくり引っかけているものとは別だ。ベージュと暗いブルーのやわらかそうな布を、整った形に巻いてある。下は細身の黒いジーンズ。目を伏せて見ているのはきっと、お祖父さんからもらった大切な腕時計。
 行き交う人や背後の建物がぼやけて見える。彼の姿だけが光を帯びて、映画みたいに鮮明だ。
 心臓がぎゅっと縮まった後、変な鼓動を刻み始めた。朔夜は引いたはずの汗をまた拭う。
 どうしよう。こんな安っぽい格好で隣を歩けない。『後輩の男の子』とならただ『先輩の女子』でよかったけど、『王子様みたいな彼氏』と、私なんか……。
 携帯が震えた。侑志からのメールだ。『着きました』、知っている。
 半泣きで見る受信箱に、覚えのないメールが入っていた。
 柚葉からだ。今朝六時。
 件名は『おじけづきそうになったら見る』。迷わず開けた。

『今日のあなたを否定するってことは
 あたしの意見も否定するってことだから
 侑志が文句ほざいたら
 あたしの分まで殴っていいです』

 続いている記号は一体、と数秒考えて、ああ殴っている顔文字かと頷く。
 朔夜は小さく笑って携帯を閉じ、木の陰を出る。剥き出しの素足も今は寒くない。胸を張って歩み寄り、彼に声をかける。
 待ち合わせ時間の五分前。
「おはよう。侑志」
「……ざっす」
 とびきりの笑顔で言ったつもりなのに、侑志の挨拶は普段より雑だった。まるで春先の入部前だ。あの頃はどうということもなかったのに、今は不機嫌な顔をされると近づくのを躊躇してしまう。
 侑志は腕時計に目を落とし低い声で言う。
「ちょっとそこのコンビニ行って来ていいすか。すぐ戻るんで」
「あ、うん」
 後ろ姿を見送ってから、朔夜は空気を何発か殴った。
 コンビニなんか先に行っとけ。挨拶もちゃんとしろ。後輩とか彼氏とかじゃなく人としての礼儀だろ!
「すみません。お待たせしました」
 背後から何かがふわりと首にかかる。驚いて振り返ると、侑志がいつものやわらかな笑みで立っている。
「海辺行くのにそんなにデコルテ開けてたら、風邪ひいちゃいますよ」
 デコルテ? 理解できない単語を流して、朔夜は首からさがった布を持ち上げる。赤いマフラー。模様の黒が淡くぼやけていて、同じ赤チェックでも柚葉にダメ出しされたシャツより大人っぽい。
「マフラー買いに行ってたの?」
「まさか。プレゼント用に持って来たんですよ。タグ付いたままだったから、切るものいるなーと思って、カッターを」
「コンビニって右利き用しかなくない?」
「タグに引っかけるぐらいなら、それでも全然」
 侑志の指が器用にマフラーを動かして、結び目が二つもある巻き方にする。速すぎてやり方が分からなかった。
「あ、それと――」
 胸元にコンビニの袋が押し付けられる。思わず受け取ったビニールの中には、カッターナイフと新品のタイツ。
 侑志が首を斜めに傾け、耳許で囁いてくる。
「これ、駅のトイレで穿いてきてください」
 頬がぶわっと熱くなった。
 出してる脚にわざわざ穿け? なんだか脱げって言われるよりえっちだ。
 改札をくぐり、侑志を待たせてトイレに入った。幸いと言うべきか人はいない。
 個室でパッケージを開け、ソックスを脱いで裸のつま先をタイツの中に入れる。薄い布地が素足を締めつけながら上がってくる。侑志に触れられている錯覚に肌がぞわぞわする。
 一分数えて気持ちを整え、侑志の前に戻った。
 露出ゼロ。柚葉の考えてくれたコーディネートとはだいぶ変わってしまっている。あたたかいし、これはこれでかわいいけれど釈然としない。
「どう、かな」
「超いいっす、朔夜さんせっかく脚長くて綺麗なんだからスカートも品のある履き方のが絶対似合うんですよ。ああでも透け感はこれぐらいがいいけど黒やっぱちょっと重いんでグレーかネイビーぐらいだともっとよさそうっすね!」
 侑志は目を輝かせて力説した。そう、と朔夜は愛想笑いで肩を落とす。
 制服の着こなしといい、文化祭のときといい、朔夜の着せ替えをする侑志は活き活きしている。変わっているとは思うが、あんまり嬉しそうだからできるだけ好きにさせてあげたい。
 侑志が不意に笑みを曇らせ、朔夜の襟元を正面から両手で直す。
「見て分かりましたよ。朔夜さんのセンスじゃないなって。じゃあ誰のっていうのも、大体」
 目を見ていられず、朔夜は侑志の肩に額を預けた。紺のコートの肌触りは予想以上にいい。
「侑志は格好いいね。映画スターみたい」
「言い過ぎですよ。このコートだって親父のだし。ダッフルで出ようとしたら、母親が『子供っぽい!』って怒って無理やり着せられちゃって」
「おばさんと侑志、そういうとこそっくり」
 朔夜は身体を離し右手を差し出す。侑志は頷いて左手を伸ばしてくる。
「でもそのコートは本当に似合ってます。すごくかわいいです」
「皓汰のだけどね!」
 やけっぱちな朔夜の声に、侑志は目を丸くして指先をふにふに動かした。
 悔しいけれど、やっぱり『すごくかわいい』。

「わーすごい、海、海!」
「朔夜さん、海逃げないんで落ち着いてください」
 遠くに光る海を目がけてスニーカーで駆け出した。侑志もおしゃれな革靴でついてくる。電車に乗っていただけだから体力なら有り余っている。
 観覧車を右手に見送って、真冬の潮風を正面から受けて、石畳を二人してばたばた駆け抜けて。絵に描いたようなバカップルも、海との距離が近づくにつれだんだん鎮まった。
 芝を踏む感触。大きく広がる突き抜けた青空。雲が細い筋を長く描いて、白球を追いかけている錯覚に襲われる。
 このときは、ずっとは続かない。
 当然の事実が急に胸を貫く。
「どうしたんですか。いきなり止まって」
 侑志は隣に並ぶと大袈裟に眉を下げた。朔夜は黙って彼の顔を見つめていた。
 乾いた指が戸惑いがちに朔夜の目許を擦る。風が目に入っちゃいましたかね、と呟いた台詞は、きっと彼自身信じていない。
 手を繋ぎ、並んで橋を渡る。世界的に有名な夢の国を横目に見ながら、岸の縁まで奥深く歩いていく。
「普通はデートって言ったらあっちに行くのかな。ランド」
「朔夜さん、ああいうキャラもの興味あるんですか?」
「ううん、あんまりよく知らない」
「じゃあ行ったってそんなに面白くないんじゃないですか? 定番だからって絶対行かなきゃいけないってことないでしょ」
 でも柚葉チャンとならきっと行ったでしょ、と言いかけてやめた。彼は坂野のことを持ち出さないのに、朔夜ばかり根に持つのは不公平だ。
 風の音が強く鋭くなっていく。人影はまばら。遊び回る子供の声もしない。
 あんなにはしゃいで目指した海が、今はただ寒々しい。
 繋いだ右手に力を込めると、侑志の指が手の甲を優しく撫でた。
「侑志は、未来って考えたことある?」
 尋ねる朔夜に、侑志が視線を向ける。朔夜は海を見つめていた。寄せて返すを太古の昔から重ね続ける海を。
「俺と朔夜さん二人の未来、ですか?」
「ていうか、それ以前の。自分がどうなりたいかの、未来」
 首許が、膝が、あたたかい。侑志の気遣いのおかげで、身を切るような風にも耐えられる。
 私はこんな少しの未来すら見えずに、君に頼って今を立ってる。
 君はちゃんと、一人で夢を見ているの?
 見ていく強さを持っているの?
 しばらく潮騒ばかり響いた。侑志が息を吸う音は、波にも風にも紛れずはっきり聞こえた。
「教師に、なりたいです。中学の」
 朔夜は彼に顔を向けた。今度は侑志が海を見ていた。
「なんで中学?」
「中学には、朔夜さんがいないから」
 春の日に呼び止めた横顔は何も見ていなかったのに、冬の日に見上げた横顔は確かに光を映していた。
「俺、中学の頃は親と仲が悪かったんです。悪かったっていうか、一方的に嫌ってたっていうか。部活のことがあってから、家も学校も苦しくて、全部大嫌いで、なりたいものも行きたい場所もなかった」
 同じだ。朔夜は父のことが好きだったけれど、それだけ。
 母が嫌いで、家が嫌いで、中学校は大嫌いで、何を目指したらいいのか分からず『高葉ヶ丘高校』にがむしゃらにしがみついた。たどり着いた今はその先を見失っている。
 朔夜は彼に肩を寄せる。彼も朔夜にぬくもりを返す。
「でも先生が勧めてくれた高葉ヶ丘で、朔夜さんに会えた。好きなものを思い出す勇気も、追いかけたいと思える背中も、どうしても守りたい居場所も、全部あなたがくれたから。俺は、あの日の俺と同じぐらい苦しい誰かを、その人にとってのあなたに繋いであげたい」
 眩しい未来を語っていながら、口許に笑みを浮かべていながら、侑志は静かに涙を伝わせていた。朔夜は触れかけた指を途中で止める。
 君を守りたい。
 そう思うのは、かわいいからだけじゃなかった。
 君が優しいから。
 泣き虫なのに最後には必ず自分で立ち上がるから。
 その強さに、誰より私が魅せられて、救われてきたからだ。
「私、進路の希望調査票もまだ出せてない。君みたいになりたいものも、やりたいことも決められてない」
 左手を伸ばす。利き手で触れたい。
 誰より大切な人の頬に。誰より大好きな君の心に。
 侑志がこちらを見る。朔夜も真っ向から彼の瞳を見た。
「だけど、侑志の夢が叶うところを見たいよ。私は、君の」
 君と出逢った日が永遠になるんだと思っていた。
 違うんだね。
 春の日の綺麗な横顔も、夏の日の激しいまなざしも、秋の日の頼りない足取りも、冬の日の冷たい肌も、何度もめぐり繰り返す。
 だから。
「君の人生を支え続けたい。次の夏が終わった後も、ずっと」
 ――君自身が、私の永遠なんだ。
 本気の本気で大真面目に言ったのに、あろうことか侑志は笑い出した。なんだよ、と朔夜が手をほどいて背中を引っぱたくと、だって、と侑志は涙を拭う。
「それ、進路っていうよりプロポーズみたいで」
「なに、プロポーズだったらヤなわけ?」
「嫌じゃないよ」
 侑志の口調が変わる。他人と違う色の髪を陽に透かして、潮風を受け入れるように穏やかに微笑んだ。
「俺は朔夜さんの望む限りそばにいる。あなたがあなただけの未来を見つめるときも、隣でずっと支え続けるよ。あなたが俺にそうしてくれるように」
 朔夜は頷いて侑志の手に触れた。
 左手。同じ不自由と喜びを知る手。
「ねえ、肩抱いてくれる?」
「いいの?」
 ぎこちなく関節を伸ばした指をなぞる。
 朔夜より大きな、別の痛みとぬくもりを持つ手。彼の泣き癖が移った顔を笑顔に描き換えて頷いた。
「侑志なら、いいよ」
 世界一大切だった左肩を、世界一大切になった左手に委ねて、朔夜はじっと水平線を眺めていた。
 果ては遠く見えない。水はきっと寒く深い。
 それでも凍えることはないのだ。
 隣にこの人が立っている限り、永遠に。