池袋乙女ロード殺人事件 - 5/6

 日本中に等しく夜が訪れる。ここ豊島区も例外ではない。特に、神成が調べ上げた区画の周辺は、ちらついた街灯ぐらいしか明かりがなかった。……のだが。
「四階……点いてるッスね」
 六階建てのビルの前、諏訪が固い声で言った。神成が改めて自分の手帳を、乏しい光の下で睨みつける。
「このビルに入っていた会社は、二年前に全て退去しています。その後、希グループ傘下の会社がビルごと買い取ったようですが、改修工事も何故か半年前に『無期延期』としたまま、現在も再開されていません」
「まぁ、誰かいるならどのみち職務質問だわなぁ」
 判は首の後ろをかいた。チリチリするのだ。あまりよくない予感。きっとそんな呑気な事態では済まない。
「ホルスターの蓋は外しとけ」
 判の言葉に、諏訪はもう済んでいるという素振りをした。そこにあるのはスミス&ウェッソンM37だろう。神成も緊張した様子で、同じくS&W社製、M360の改良品であるSAKURAの位置を確かめている。こちらは近年採用されたばかりの新型。新しいもの好きの諏訪は羨んでいたが、判は相棒をこの古めかしいニューナンブM60と決めている。いずれも日本警察のスタンダードである、装弾数五発の回転式拳銃。滅多なことでは持ち出せないが、今日は少しばかり無理をした。
「行くぞ」
 それでも嫌な感じは拭い去れず、判はせめて若者たちに何事もないよう、柄にもなく祈りながら先陣を切った。経験の浅い神成を挟むように、諏訪がしんがりを務めてくれている。足音を殺しながら階段をのぼる。
 もうすぐ問題の四階に着こうというところで、諏訪が無言で交代の手振りをした。判は素直に一番後ろに下がり、後方の警戒にあたる。本当なら先頭は上司である自分の役目だが、事実としてこの中で一番荒事に向いているのは諏訪だからだ。見栄を張って手間を増やしたら世話ない、という話である。
 廊下の電気は点いていなかった。先にある一室から漏れているのも恐らくは通っている電気ではなく、持ち込んだ照明だろう。光の向きが上ではなく横からだ。諏訪が後続を手で制し、銃を抜いて慎重にその部屋を覗き込む。
「なん……ッ!」
 諏訪の狼狽の声が無人の廊下に響く。何事かと判が視線で責めれば、彼は振り返り、途方に暮れたような顔で言った。
「……死んでます。重要参考人の男が、そこで」
「何だと?」
 判もつい声を出してしまった。二者間の怨恨ではなかった? ならばここを訪れた者の目的は、判たちの想定した『証拠隠滅』などではなく――。
「神成くん!」
 突如、諏訪の切迫した声が響く。不用意に中を覗き込んだ神成が、身体を強張らせた――誰かいる、、、、。床の擦れる音。判たちの伸ばした手は届かずに宙を切り、神成の背が明らかに彼の意思ではない動きで反る。
「……諏訪?」
 姿を現したのは、神成が買収しようとした『甘党の刑事』だった。何の冗談か黒いマント姿。金属製の太いワイヤーで神成を後ろから締め上げている。神成も新人とはいえ刑事の端くれ、とっさに両手で首をかばい絞殺を免れてはいたが、自身の手首に喉を圧迫され、苦しげに顔を歪めていた。
 部屋の中央にこちらを向いたサーチライトが置かれていて、夕に捜していた男の遺体――頭髪にやはり白い粉――と、刑事四人、という異様な空間をぼんやり照らし出していた。
「あんたッスか、彼の名刺落としたの。やられたね。……確かに、捜査済みの現場であんなもん見逃されてるわけがなかった」
 諏訪は憎々しげに笑った。神成の手首にはじわじわと血が滲み始めている。
 判は諏訪が奴の――ツカヤとかいう男の気を引いてくれているうちに神成を助けてやりたかったが、いかんせん彼の長身そのものが盾にされてしまっている。迂闊に動けない。
「お前なら解るだろう、意味が」
「自分をあんたらのオトモダチみたいに言うのやめてもらえまス? ちょっとすれ違ったぐらいで。こっちはあんたの顔も名前も忘れてたっつーのに」
 諏訪の銃口は真っ直ぐに男を向いていた。まさか神成ごと撃つ気ではあるまいが、彼の射撃成績を考えれば、流れ弾が神成に当たる可能性は充分にあった。ツカヤは低い声でもう一度諏訪を呼ぶ。
「諏訪。全ては神――」
「黙れ」
 諏訪が短く言い切った瞬間、判は妙な寒気に襲われた。諏訪の声が、あまりに冷えていたから。人殺しを追う刑事ではなく、まるで人殺しそのもののように。
「それ以上余計な口を利くな。殺すぞ」
 ように、ではなくそれは最早脅迫。警察官による警告ではなく。まして、民間人でないとはいえ人質がいるのに。恐ろしいというより訝しい。
 巌のように構えていたツカヤさえ、やや鼻白んだ様子を見せた。ずっと酸素を求めて口唇を開閉させていた神成が、その隙に思い切り頭を後方に振り上げる。頭蓋が男の顎に直撃。ワイヤーが緩んだところで右手を引き抜き、後方に大振りして相手の腹に肘を叩き込んだ。ツカヤがくぐもった悲鳴を上げ、身体をわずかに曲げる。神成は重ねてツカヤの足の甲を踏みつけ、相手の体勢を崩させたのち、完全にワイヤーの拘束から逃れた。
「神成、こっちだ!」 
 判は腕を振って誘導する。喉を押さえて咳き込みながら、神成はふらふらとこちらに転がってきた。ツカヤも顔をしかめて腹を押さえている。諏訪はようやく厳しさを、普段現場で見せているレベルまで落とした。
「殺人、および殺人未遂の現行犯。あとは法があんたを裁く」
「裁いたのは俺だ」
 ツカヤは痛みで口唇を歪めたのか、それとも笑ったのか。床に転がったままにされている、男の死体を指さす。
「始末した。二人共」
 判は眉をひそめてその台詞を聞いていた。奴はさっきから『諏訪にのみ』弁明を試み、そのくせ『明言を避けている』。そしてどうやら『諏訪も自白を拒んでいる』。何か隠している――ああ、この、そこのついたての向こうから聞こえる、ファンのような音は一体何だろう。換気扇? まさか。とにかくひどく耳障りで――頭が痛くなってくる。上手くものが考えられない。
 とにかく、神成という制約がなくなったので、諏訪は男に飛びかかっていった。逮捕術の成績は優秀な諏訪だ、体格で劣るからといって、手負いの相手に不覚など取らない。そのはずだった。ワイヤーを持ったままの、無防備な男の左手首に手錠がかかり。刹那、判は諏訪に向かって叫ぶ。
「諏訪! ダメだ!」
 遅かった。相手も殺人犯とはいえ中年の刑事だ。刑事にとっての本願である『その瞬間』に生じる、わずかな弛み。まだ年若い諏訪が直せずにいるそれを、見逃してはくれるほど甘くはなかった。自分の左手首から繋がる金属の輪の片割れで、逆に諏訪の右手をロックする。あれでは銃が撃てない。
「なにを……ッ!」
 瞠目する諏訪に、男はとにかく歪に笑った。
「共に裁かれ、共に救われようじゃないか。神光の――」
「オレに男と心中する趣味はねぇよ!」
 普段の飄々とした様子を捨てて諏訪が遮る。ツカヤは闇の奥へ諏訪を引きずっていこうとする。向こうは窓側で。ここは、四階。
「諏訪さん!」
 銃で男を撃とうとした判とは逆に、神成は悲鳴のように叫び飛び出していく。諏訪の身体を後ろから羽交い絞めにし、踏み留まらせようとする。仮にも成人男性二人がかりだというのに、黒いマントの男はそれでも諏訪を少しずつ影に染めようとしていく。
「神成。お前の選んでくるスイーツは、いつも旨かった、なぁ。ありがとう」
 微笑むツカヤ。場違いな懐かしむような声に、神成は震える声で返す。
「そんなのこれからも何時間だって並びますよ! 差し入れますよ! だからっ、もうやめてください! こんな自棄起こさないで、ちゃんと正しく償ってくださ――」
「神成」
 男は、静かに、重く、まだ少年のような青年の願いを断ち切った。
「これが俺の『正しさ』だ」
「神成! 諏訪をそいつからなるべく引き離せ!!」
 判はいい加減我慢ならずに怒鳴っていた。ずっと耳元で羽虫が飛んでいるような、謎の音が余計に不愉快で。
 撃鉄を起こす。諏訪が激しく首を振って、自ら神成を突き飛ばした。後ろに体重をかけていた神成は、受け身も取れずどっと尻餅をついてしまう。諏訪の姿が暗がりに紛れる。
「諏訪!」
「諏訪さんっ!」
 揉み合う音だけが聞こえていた。明かりは二人共持ってきていたはずだったのに、判も神成もただ何が起こっているのか想像するばかりで、その目で確かめようとはしなかった。
 やがて乾いた銃声が三発響いて。光っている床まで、赤い染みが広がってくる。ここはカーペット敷きなのに、お構いなしに繊維の色を毒々しく変えていく。からんと、もう誰の手首も繋いでいない金属がその上に無遠慮に投げ落とされる。足を軽く引きずりながら戻ってきたのは、諏訪の方だった。
「撃った、のか?」
 判の間抜けな問いに、諏訪は力なく、いいえ、と答えた。
「22口径を自ら喉の奥に三発――犯人、死亡、しました」
 なんで、と神成がワイヤーの痕の残る手で顔を覆う。判にも分からない。疲れ切った表情の諏訪は何も語らない。
 判安二が人生で担当した事件の中で、これは二番目に理解出来ないものだった。一番目は、まだ起こっていない。

 

 神成岳志は、夜の病院の冷たい壁に、身を寄りかからせていた。傍の長椅子には、諏訪護がこちらに背を向けて座っている。
 神成の両手首には包帯。先刻殺されかけたときについたもの。けれど自分は幸い大した怪我ではなくて、犯人と取っ組み合った諏訪の方が、あちらこちら打ったり切ったりした痕があり、また手錠をかけたまま暴れたせいか、彼の右手首にもやはり包帯が巻かれていた。
 二人を病院まで送り届けた後、すぐに池袋署へ向かった判安二から、まだ連絡はない。青年たちもまた、会話を交わさない。
「……神成くんって」
 やがて、耐えかねたように、そのくせ独り言のように、諏訪が呟く。
「『スパークウォーズ』、観たことないって言ってたッスよね」
「はい」
 どうでもよかったが、一応先輩の言うことを無視するわけにいかなかった。神成は、青白く光る壁の続く先を、ぼんやりと見ている。
「それが、何か?」
「ダーススパイダー、って、キャラはね。悪役なのに、絶大な人気を誇ってるんスよ。何でだと思いまス?」
 だからどうでもいいよ、と神成は思った。何だかあのビルを出てからこっち――ずっと頭が痛いのだ。つまらないことに脳を使いたくない。
 神成が今度こそ黙っていると、諏訪は一人で語り出した。
「彼は元々、正義の騎士だったんス。でも、悲しい事情が……あまりにもつらい事情があって、ダークサイドに堕ちてしまった」
「情状酌量の話なら、裁判の段階でしょう。僕らの手出し出来る範囲じゃない」
 こんな言い方をしなくてもいいことは分かっているのに、神成の口から出る言葉は止まらない。
「事情があろうがなかろうが、その人間が引き起こした事実の重さは変わらない。罪は罪として裁かれるべきだ」
 手首の傷が疼く。限定品のケーキを手渡したときの、あの刑事だった男の、子供のように輝いた目がちらついて、頭痛が増す。
「神成くんさぁ」
 諏訪はかすれた笑い声を上げて、呪うように吐き捨てた。
「いつかその教科書通りの考えに、殺されるッスよ。そんな『事情』に直面させられたとき、キミみたいな人間が、キレイな理想通りになんて動けっこないんスから」
「諏訪さんこそ。『事情』があれば許される悪なんて信じてるなら、警察向いてないですよ」
 神成も冷たく返して、それで終わり。神成岳志が今まで担当した事件の中で、これは二番目に理不尽なものだった。
 一番目は、七年後。

 そのとき、神成は己が間違っていなかったことを確信した。そして同時に、諏訪の言うことも正しかったと、吐き気のするほど思い知った。罪なき実行犯と潔白の殺人鬼。もう判も諏訪も喪って、それでも戦い続けた青年が捕えた、二人の少年の手首を見ながら。