池袋乙女ロード殺人事件 - 6/6

「ん……」
 痛む側頭部を押さえ、神成は身を起こした。自宅のパソコンデスクの前。光るモニターの端を見れば、今は二〇一六年。判にこそ追いついていないが、諏訪の享年はもうとうに追い越してしまった。
 いくら眠れないからといって、こんな深夜に私物のパソコンのデータ整理など始めるのではなかった。変な姿勢で寝てしまったので身体が痛い。
 刑事たるものどこでも休めるようにしておけというのが『先輩』の教えで、神成はしっかりとそれを守っているのだが、意図せず眠りに落ちてしまったときは話が別だ。
「これ、結局使わなかったな」
 ある音声ファイルの名を眺めて呟く。先程まで夢で追体験していた事件のもの。油断で死にかけた神成ではあったが、レコーダーだけはちゃっかり持ち込んでいたのだ。
 けれどこのデータを提出するまでもなく、あの件は不自然なまでに迅速に密やかに処理された。そのことを口に出すことすら許されないような空気だった。今思い出してみれば、あれはどこか二つのニュージェネのときの様子に似ている。
 もう法的証拠にはなりえないファイルを、つい開いてみる。突入の様子。衣擦れのノイズがひどい。この後首を絞められて暴れたから、雑音は更にひどくなった。記憶通りに音声は続いていく。
 神成はぼうと、暗い自室で薄明るいモニターを眺めて、イヤホンでそれを聴いている。やがて、判と神成が諏訪の名を叫んで。そう、確か諏訪とあの甘党の刑事は闇の中で揉み合っていた。
『――した』
『ようと――った――』
 はっとして、神成は椅子を鳴らし立ち上がった。勢いで外れてしまったイヤホンを慌てて付け直し、ボリュームを上げる。
『って――だな』
『――にと――を――』
「どういう……ことだ」
 両手をテーブルについて、神成は愕然とノートパソコンを見下ろした。不鮮明ながら、この声の主は明らかにツカヤと諏訪だ。八年前馬鹿みたいに繰り返し聴いたこのファイルに、こんな音声は絶対に入っていなかった。
 携帯電話を引っ掴むと、神成は『専門家』の番号に何度もかけた。出てくれるまでしつこく。結局、彼女が電話を取ってくれたのは六回目の三コール目。
『おい! あんた、今一体何時だと』
「二時」
 身も蓋もない事実で黙らせると、神成は口早に用件を告げる。どうせ彼女がこんな時間に寝ていたはずがないのだ。
「久野里さん。個人的に解析を依頼したいファイルがある、報酬は可能な限り弾む。送信していいか」
『よせ』
 久野里の返事は短かった。だるそうな口調で、説得しようとする神成を改めて遮る。
『私の家は分かるな。ネットワークを経由せず、ローカルな方法で持って来い。どうせ誰かに捕捉されたら困るファイルだろう?』
「……お気遣い感謝するよ。すぐ行く」
 神成は電話を切った。こんな夜分に電話した無礼も、若い娘の一人住まいに押し掛ける非礼も、気にかけている余裕がなかった。ただ一刻も早くこの不安の正体を知りたくて、ファイルをUSBフラッシュメモリに移すと、当時の手帳を探し出し、ろくに着替えもせずに家を飛び出した。

 久野里の家を訪れる。彼女は神成による説明を拒み、やってほしいことだけを簡潔に言えと、Tシャツにショートパンツ姿であぐらを組んだ。完全に部屋着。この段になってようやく、悪いことをしたと神成も自省した。
 彼も寝巻のTシャツに、とりあえずジーンズを穿いただけ。白衣とスーツでないというのが、いっそうこれがただの私情に過ぎないということを、自身に思い知らせてくる。
「後半に二人の男の会話が入っているんだが、ノイズがひどくて聞き取れない。高柳のときのように、音声をクリアにしてもらいたいんだ」
 なるべく感情を排してお願いすると、わかったと久野里も機械的に答え、立派なパソコンの本体部分にUSBメモリを挿した。ファイルはひとつしか入れてきていない。
 久野里はヘッドホンをして一度それをそのまま聞いた後、ソフトを立ち上げて操作し始めた。神成には何をしているか分からないが、焦れるほど作業に時間はかからなかった。面倒そうに手招きされたので寄っていき、投げるように渡されたヘッドホンをする。久野里が、この辺からでいいだろうと再生ボタンをクリックした。
『何故殺した』
 諏訪の声だった。低く脅しつけるような凶悪な声。刑事ではなく犯罪者寄りの。次いで甘党の刑事の声。こちらは落ち着いている。
『二人共脱会しようとしていた。教祖様はそれをお許しにならなかった』
「教祖……?」
 神成は知らず呟いていた。ツカヤが何らかの――しかも『教祖』などという単語が飛び出すような宗教に傾倒していたという噂は、全く聞いていない。
『それをオレに聞かせて何になる、おい? こっちも教祖様のご意向が反映されやすいようにって、本庁に配属されてんだよ。所轄風情が足を引っ張るんじゃねぇ』
 これが、諏訪護なのか? と神成はざわつく胸を服の上から掻いた。声質そのものは本人に間違いないが、口調があまりにも違いすぎる。
『あの死体状況はあんたの趣味か? 乙女ロードのスガモプリズン跡で、ケツを突き出した戦犯を晒し上げ? 随分だな。おかげで仕事がややこしくなって、オレは志乃との約束もキャンセルだ』
『違う。あれは、警告のためにと、ある男から指示を……』
『知ったことかよ。よりによってスパークウォーズを使いやがって。オレが判安二と神成岳志に疑われでもしたらどう責任取る? 本庁の捜一で一番厄介な連中だぞ。鼻が利いてバカみてぇにしつこいクソ犬共』
 諏訪護、なんだな、と。神成はきつく目を閉じる。これが、神成が意識下で忌み嫌ったこの男の本性。
『そうだ、責任。死ねよ。全部引っ被って。最初からその予定だったろ? 判の読み通りなら、お前は今小口径を持ってる。それで、救いにすがれよ』
 神光の救いあれ。諏訪が呟く。何度も。神光の救いあれ。神光の救いあれ神光の救いあれ神光の救いあれ神光の救いあれ神光の救いあれ神光の救いあれ神光の救いあれ神光の救いあれ神光の救いあれ神光の――。
『あ、ああ……』
 諏訪が繰り返したフレーズに、あの強面の刑事の泣き声のようなものが混じって。諏訪の、薄ら寒い猫なで声が。
『そうだ、それでいい。あの世で口直しにパフェでも食いな』
『し、じんこ、お、の――』
『――救いあれ』
 喉を貫く銃声が三発。その先は聞かなくても知っている。
 神成はそっとヘッドホンを外し、畳の上に置いた。
「床だの壁だの殴るなよ。発狂もダメだ」
 久野里がご近所に配慮した台詞を言ってくる。神成は力なく、わかってると頷く。正直、当たり散らす気力すら残っていなかった。
「俺はどうして、八年も……この会話に気付かなかったんだ」
 自分が上手く付き合えなかっただけで、本当の本当はいい人だったんじゃないかと。そんな最後の希望を、この短い音声ファイルが全部打ち砕いた。結局神成も諏訪に騙され続けていたのだ。彼が死んだ後でさえも。
 久野里はどんな慰めの言葉も吐かなかった。ヘッドホンの端子を引き抜き、マスター音量を絞る。そして神成にも聞こえるように、別の音を流し始めた。何かがぎこちなく回転するような、異音。
「これは……?」
「こいつがその二人の会話に被さっていたノイズだ。現場で聞いた覚えは?」
「いや……ああ、ちょっと、待ってくれ」
 神成は額を押さえて記憶を辿った。とてもおぼろげだが、彼は確かにこの音を知っていた。
「あのとき。ついたての向こうで、こんな音がしていたような、気がする」
「ついたて? 気がする?」
 冷たい声で言いながら、久野里は神成を指差してくる。親指が軽く立てられていて、どうやら拳銃を模しているらしいと分かった。
「警察官だろうが自衛官だろうが、危険地帯に踏み入るときはまず『何も潜んでいないことを確認する』はずだろう。あんたたちはそれをしなかった。『ついたての向こうに何があるか、気にも留めなかった』。そして部屋全体を見回すこともなく、『暗闇でのやり取りが終わるのを、何もせず待っていた』」
「それは――確かに俺たちの落ち度だが、そんな前の失態を今更責められてもどうにも」
「責めてない。私は、おかしくはないかと言っているんだ」
 神成のこめかみを冷たい汗が伝う。久野里の謎かけのような物言いは今に始まったことではないけれど、『まさか自分たちが』と言い出す勇気がない。
 彼女は神成に突き付けていた指を引くと、自分のパソコンのフォルダから、また別の音声ファイルを開いた。同じような、だがもっと滑らかに回転する、機械音。久野里は視線を鋭くして、モニターの向こうのどこかを睨んだ。
「似ているだろう。どこで鳴っていたと思う?」
「そんなの、分かるわけ」
「西條拓巳のエスパー騒動は二度あり、いずれもテレビで生中継された。あんたは見てたか? それとも現場に?」
 何故ここでニュージェネなのかと、問うほど神成も愚かではなかった。久野里が、まだ可能性に逃げようとしている自分を追い詰めようとしているのは感じている。だからいっそ、最後まで現実を叩きつけてほしかった。頷いて、傷んだ畳の目を見つめながら、低い声で答える。
「いずれも、警視庁のテレビで見ていた。その場には居合わせていない」
「どう思った」
「みんな頭が、おかしいと」
「そう。みんな『頭をおかしくされていた』」
 久野里の口調は、恐ろしいほど静かだった。無感情なのではない。彼女の憎悪はついに凍りつくように硬く冷えて。
「あんたが聞いた音と、この音の一致率は――」
 細い指がマウスを操作して、二つの波長を重ね合わせて。弾き出された数値は、87.3%。それが近似と呼べるレベルなのか神成には分からないが。久野里の声はもう何かを抑えつけることをやめ、いつもの斬るように事実を述べる科学者のものになる。
「西條拓巳はギガロマニアックスだったと、香月華から聞いている。だとすれば奴の逆転劇は、委員会の洗脳装置を破壊することで、自らを祭り上げた連中の妄想をも破砕したものと見るべきだ。そして一年前に同じような音を聞かされ、刑事として不自然な行動を取ったあんたと『先輩』も、その装置のプロトタイプを使われた可能性が高い」
「なあ、それはつまり」
 神成は、彼女の台詞を遮った。不機嫌になると思ったのに久野里は無表情で続きを待っている。急かされるように疑問を口にした。
「ついたての向こうには、もう一人、いた?」
「天成神光会の信者がな。状況から考えれば」
「だから。……頼むよ。その結論は俺に出させてくれ」
 神成は片手で目元を覆った。指で押さえつける両のこめかみは、あのときのようにじくじくと痛んでいた。
 諏訪護だ。奴が何らかの始末をつける為に前もって誰かを手配したとしか、考えられない。そう、だって、彼はあのとき、神成が調べた地図を――わざわざ携帯電話のカメラで、撮影していたのだから。
 神成は自分の太腿を強く殴りつけた。
「あいつ、どこまで他人を虚仮にして……!」
「他人を、ね」
 自分の前髪の先をいじりながら、久野里はどこか含みのある声で呟いた。なんだよと問うても彼女は答えない。さらりと話題を逸らす。
「隠れていたそいつを捜そうというのならやめておけ。意味がない」
「何故」
「結論は自分で出すんじゃなかったのか? あんたにもこの会話が聞こえるようになったってのは、つまり『そういうこと』なんだよ」
 久野里はソフトを終了させて、乱暴にUSBメモリを引っこ抜くと、神成に放った。
「もう用は済んだろう。反省会なら自分の家でやれ」
「そうする。ありがとう、久野里さん」
 本気で言っているのに、言葉には少しも感情が乗らなかった。ごまかすように早口で続ける。
「報酬、どうすればいい」
「貸しにしておく。何かあれば私の為に働け」
 久野里は言い捨てて背を向ける。金より怖いなとようやく軽口を叩いて、神成は当時の自分より若い女性の家を後にした。
 けれど走り出した車は五分と経たず停めてしまう。あのときの手帳をめくった。一生懸命書き留めた馬鹿馬鹿しい『事実』の羅列。こんなもの何の役にも立たなかったのに。助手席に叩きつけて、神成はステアリングに額を押し付けた。
 自分が慕った、自分が喪った、三人の刑事の顔が順に浮かんで。消えずに、胸を深く抉る。知らず息が乱れていた。瞬きを忘れた目が乾いていた。
 やがて神成は、静かに瞼を下ろす。六十秒、きっかり心の中で数えて。目を開ける。携帯電話を取り出して、リダイヤルボタンを押す。今度はすぐに彼女が出る。
『やかましいな何度も! 忘れ物でも!?』
「報酬だ」
『あ?』
 訝し気な久野里に宣言すべきことを、彼は既に用意していた。
 視線はフロントガラスの向こうの夜闇に。睨めつける目つきは鋭くも炎を宿さず。
「ニュージェネが終わっても、先輩の『弔い合戦』は、まだ終わってない」
 神成岳志は警察官だ。私人としての心を持ちながら、彼はその権利を行使する限りにおいて、公平な人間でなければならない。だから、私怨は義憤に。憎悪の泥は正義の光に。きっとコンバートして、抱えていく。
「決めた。俺は、君の言う『委員会』を、この目の届く限り決して逃さない。たとえ全てを潰せなくとも。この手の届く限り、必ず捕らえ尽くす」
 久野里は盛大に嘆息し、何事か早口で言い捨てた。
『“If you had a million years to do it in, you couldn’t arrest even half the Fuckers in the world. ”』
「は?」
『何でもない。あんたの決意表明なんかで腹が膨れるかよ。もっとマシな報酬を用意しろ』
 そして水を差すようなことを言った後、久野里澪は、小さく笑った、気がした。
『だが、反三〇〇人委員会の先輩として、その姿勢は評価してやってもいい』
「ありがとうございます、『先輩』」
 生きている人間を素直にそう呼ぶのは、どうやらひどく久しぶりで。神成もこの夜、初めて笑った。