遠い家路

『ばいばい』
 微笑んでそう告げた酷薄な口唇を、フランネルはきっと生涯忘れられないだろう。
 ――右腕を庇にしながら、傾いた太陽を見上げる。
 フランネルのぼさぼさの尾は、揺れるでもなく揺れている。どうしてこんな所にいるのだろう、もしかして俺はまだ迷っているのかなと、ふらつく足取りで歩くでもなく歩いていく。
 穏やかな川辺で、彼らは束の間の休息をとっている。どことかへ向かう途中だとか言っていたがフランネルにはどうでもいい。
 水面が陽の光を浴びてきらきら輝いている。
 彼が身を寄せている暗夜王国軍は、白夜王国領への侵攻を開始した。
 フランネルにしてみれば縄張りを荒らす行為だ。みんなこれは間違っていないと言うけれど、フランネルも納得できる説明をしてくれる者は誰一人いなかった。
 気のいいはずの仲間たちが、その話をするときだけは別の生き物になったみたいで、何を言っているのか分からなくて。気味が悪くて、この頃は外れの方に独りでいることが多くなった。
「フランネルさん。あかんよ、勝手にどっか行ったら」
 やわらかな声に振り返る。モズメだった。ヒトの年齢からしてもきっとまだ子供に近い娘。帰るところがないという彼女は、帰り道の分からないフランネルに親近感を抱くのか、何かと気にかけてくるのだった。
 モズメは首を傾げて控えめに尋ねる。
「ちゃんと休んどる? これからもっと、激しい戦いになるって聞いたで」
「こんな明るいところで安心して休めるかよ。眩しくってしょうがねぇ」
 フランネルはふいと顔を背けて悪態をついた。モズメが苦笑するのが息遣いで分かった。
 せやねぇ、と言いながらフランネルの横に並ぶ。兵糧のパンを手渡して笑う。
「ほんなら、せめて食べなあかんよ。せやないと力が出ぇへんし」
「……ああ」
 小さく答えて、フランネルは味のしない固いパンをかじった。
 この頃は、フランネルに分かる言葉で話してくれるのは、彼女だけになっていた。モズメは田舎の出身だそうで、フランネルには馴染みのない口調で話すのだけれど、意味は説明されなくとも通じている。整いすぎて薄ら寒い言葉の羅列とは違う。血の通った、生の言霊が届いてくる。
「座っても構へん?」
「ん」
 モズメに促されて、フランネルも丸くて白い石たちの上に腰を下ろす。
 こうしていると、フランネルたちが誰かを殺してきたことも、これから殺しに行くことも嘘みたいだった。
 川上で起きた惨劇だって。
「フランネルさん、山下りてから、ずっと難しい顔しとるよ。やっぱり、ホントのとこで納得できてないんやね」
 モズメの小さな歯がパンを一欠け削り取る。フランネルは答えずに、パンをどんどん噛み千切り飲み込んでいく。
 何日も前、暗夜王国軍は白夜王国軍の待ち伏せを回避するため、ある山を通ることを決めた。
 妖狐の里があると言われている山。噂どおり、そこには狐たちが棲んでいた。
 ニシキと名乗る長はまだ若く、一見とても友好的だった。
 しかし彼は、外の世界で会うならばヒトのことも大好きだが、そちらから出向いてきたなら殺すしかないと無邪気に言った。
 ヒトはニシキの論理を受け入れられなかったようだったけれど、フランネルには解る。
 これは暗夜王国軍の失態。一片の疑いもなくヒトの側の過ち。
 ヒトの言い方を借りるならば、あの争いは全くの『正当防衛』であった。
 それでも暗夜軍の振るう刃に迷いはなく。正確無比に、冷酷無比に妖狐を屠る。
 満身創痍のニシキを守ろうと飛び出してきた、まだ毛も揃わぬような子狐たちにさえその切っ先を向ける。
『やめろ!!』
 フランネルは、魔道書を開いていた暗夜王子レオンの前に飛び出した。
 レオンは眉をひそめてフランネルを見据えた。台詞次第ではお前ごと貫くと言わんばかりに。
 フランネルは姿を変えながら低く呻る。
『やめろ。……まだ子供だ』
『立ち向かってくる者は誰であれ、相応の報いを受ける覚悟があると思って扱うけど?』
『俺だってお前たちにここで死ねとは言ってねぇ!! だからって、種族ごと滅ぼすような真似はやめろ!! それはもう、先に進みたいからって言い分じゃ通らねぇぞ!!』
 全身の毛を逆立たせて吠える。答えるレオンの声はただ重いばかりで。
『いつか暗夜王家を害する可能性があるのなら、僕は妖狐が種ごと滅び去っても構わない』
『てめェッ!!』
 かっとなって、レオンの細い首を噛み折ろうとした。それより、ジークフリートの先端が眼前に迫る方が速い。
 マークスもレオンも同じような冷たい瞳でフランネルを見ていた。一人抗ったところで勝てはしないだろう。しかし妖狐の絶滅こそがヒトの出した答えなら、フランネルも妖狐の側で果てようかと考えた。
 そこへニシキが何か言いたげに息を吸うので、思わず振り向く。もう化けている力さえも残っていないようなのに、妖狐の長は薄く微笑んで。
『キミが……殺して……』
 そう呟いた。最期の光で、懸命にフランネルを稲穂色の瞳に映す。
『ボクらに、ヒトの理を受け入れることは、出来ないから……。キミの牙で、ボクらの……獣の血の理に、してほしい』
 だから、ころして。赤く染まった口唇でニシキは笑った。
 フランネルが啼きながら突き出した爪を胸に抱き、争いを始める前に口にしたのと同じ言葉を繰り返す。
『次があるなら、仲良くしようね』
 ばいばい。それきり、ニシキの魂は現世を捨てた。両腕は力をなくし、閉じた目は二度と開かない。一方的に別れを告げた口唇は両端を上げたままで。
『――これで、妖狐一族の命は俺たちの預かりだ』
 フランネルは化身を解き、空になったニシキの身体を横たえた。
 子狐たちへ。隠れ潜んでいる老人や女の妖狐へ。これまで行動を共にしてきた者たちへ、宣言する。
『妖狐がヒトを襲うこと、ヒトが妖狐を襲うこと。これからはどちらも、俺たちガルーへの攻撃行動として扱う』
 立ち上がり、そこにいる全ての種族を睥睨した。同胞と呼べるものは誰もいない。
『引き裂かれたくなければ、今すぐに全ての牙をしまえ』
 誰も納得などしていなかった。これ以上争う無益をやっと理解したから、双方引き下がっただけ。
 フランネルだって何一つ納得できていないのだ。
「……フランネルさん。あたいな」
 モズメの声ではっと我に返る。横を向くと、モズメは妖狐の里の辺りから流れてきた川を眺めている。
 手に持ったパンは、彼女自身の言葉に反してほとんど減っていなかった。
「狐さんの山下りてから、ずっと考えてたんよ……。あたいのいた村を襲った怪物にも、なんや、あたいには分からんような『大義』てあったんかなぁて」
「そんなもんあるわけねぇだろ!」
 フランネルは思わずモズメの腕を掴んでいた。モズメは目を丸くして身を引いた。
「いきなり大きな声出さんといて。ビックリするわ」
「お前がバカなこと言うから……!」
 フランネルは片手に力を込める。モズメの腕は折れそうに細かった。しかし痛いとは一言も言わない。
「もし化け物どもに、タイギとか理由とかあったら、お前はそれで仲間たちを殺されたこと許せるのかよ?」
 それに甘えて放さなかった。もしこの指を開いたら、モズメまでフランネルの理解できない側に行ってしまいそうで。モズメはフランネルを拒まない。声はあくまで落ち着いている。
「無理やと、思うわ。あたいかて、仇討たなって武器持った……せやから余計、あの子狐さんたちの気持ち考えると、どないしたらええか分からんようになる。あの子らから見たら、あたいも充分わけのわからん怪物やって……」
「やめろよ」
 フランネルはモズメの腕を握ったまま、もう片方の腕を小さな背に回した。
 モズメは震えていた。きっとフランネルも震えていた。
「お前が怪物なら、俺も怪物だ。俺は、あいつらの長を殺した」
「せやけどそれは、本人に頼まれて――」
「ちがう!」
 フランネルは目を閉じて長い髪を振った。妖狐の艶やかな毛とは似ても似つかぬぼさぼさの髪を。
「俺なら止められたのに」
 暗夜の王族が妖狐の里の傍を通ると言ったとき、もっと強く止めればよかったのだ。通り過ぎるだけなら見逃してくれるのではないか、自分ならそうするだろうから、などと軽く考えすぎていた。気性が荒いのは人狼の方だけれど、容赦のなさなら妖狐の方が上なのに。
 獣の血を持つ自分が、もっとそれを理解して、ヒトに伝えておくべきだったのに。
「俺が、妖狐に近づくのは絶対にダメだって、ちゃんと言わなきゃいけなかった。あいつら、暗夜と白夜の争いには全然関係なかったのに。おれがっ、ちゃんとわかって、ダメだって言ってたら、あいつら誰も死ななかったのに……!!」
「……フランネルさん? 泣いとるん?」
「ないてねぇよ……!!」
 見え透いた嘘をついて、両腕をいっぱい使ってモズメの身体にしがみつく。
 見知らぬ空の下で、安心できるのはもう彼女の匂いだけだった。孤独の匂い。嘘のない言葉。虚飾と建前で塗り固められたヒトの群れの中で、ほんのわずか息の吸える場所。
 モズメだけが、フランネルの信じられるただ一つの真実だった。
「フランネルさん。あのな」
 モズメの腕も、フランネルの身体に回る。いつも着けている白い花の髪飾りが香る。小さな手が、丸まった背を優しく叩く。
「逃げよか。あたいも一緒やったら、何とかガルーの山にたどり着けるかも分からへんし」
「は……!?」
 フランネルは、ばっと身体を起こした。悲しげに微笑むモズメの真意は読めない。
 最後の『本当』が揺らいだ気がして、フランネルは必死で首を横に振る。
「できる、かよ、そんな……!」
「せやね。どないなっても大切やもんね、あの人らのことも」
 静かに言われて、ようやくモズメなりの冗談だと理解した。同時に限りなく本気であったことも。
 フランネルは、迷って故郷に戻れずにいたところを、彼らに保護してもらった。
 モズメは、故郷を滅ぼされ途方に暮れていたのを、彼らに助けてもらったという。
 救われたはぐれ子は、どんなことになっても、彼らから勝手に離れられない。
 彼らの方から、もういいと言ってもらえない限り。
 フランネルもモズメも、自分から立ち去れはしない。どこにも逃げられはしないのだ。
 彼らに縛り付けている自覚など一切なくても。
 モズメの右腕が伸びてくる。硬い指先が頬に触れる。乙女らしくはなかったのだろう。可憐などではなかったのだろう。けれどフランネルは、痛みと力を知ったその指先を美しいと思った。涙を湛えた両の瞳も。
「そんでもこの戦いが終わったら、もうヒトと深う関わるのやめような。あんたもあたいも田舎者で、お国とか政とか、難しいことはようわからへん。山の中で、山の神様に失礼のないように、毎日に感謝して生きてこ。な?」
 フランネルも、右手をモズメの頬に添えた。あたたかい。そばかすだらけの、子供のような顔。
「お前も、来るよな?」
「当たり前やんか。結婚しよ言うたのそっちやで」
 モズメはくすぐったそうに笑った。その拍子に、涙が一粒零れ落ちる。
 フランネルはそれ以上モズメの顔が濡れぬように、両の目尻から塩辛い水を吸い上げる。
「何にもねぇぞ。俺の故郷は」
「ないのやったら作ったらええよ」
「日の光もほとんどねぇぞ」
「くどいなぁ。あたいとやないと嫌やって駄々こねたん誰?」
「だ、駄々なんてこねてねーよ!」
「はいはい」
 モズメはフランネルの頭を抱えて、髪をわさわさと撫でた。そうされるとフランネルは尻尾を下げて大人しくなってしまう。
 大丈夫や、と耳許でモズメが囁く。
「暗い山でもええから、一緒に静かに暮らそ。あたいももう、あない好きやったはずのお天道様まで、眩しゅうて眩しゅうてつらいのや」
「モズ、メ」
 雨が続けば、お天道様が恋しいわと嘆いていたモズメ。生き物や農作物にどれだけ日光が必要か力説していたはずなのに、彼女すら太陽を厭うようになってしまった。
 暗き夜の闇は強すぎて、何もかも呑み込んでしまう。いずれ白き夜の太陽も光を奪われるだろう。
 けれどお前自身だけはどうか、太陽まででなくていい、月ぐらいには輝いていてくれないか。
 心の中で呟いて、フランネルは目を閉じた。懐かしい匂いのするモズメの髪に、鼻先を埋める。
「俺も、お前がいればあったかいぜ。お前がいれば、ちゃんと明るくて幸せになれる」
「ふふ、ありがとうね。あたいも、もうお日さんはフランネルさんだけで充分や」
「……おう」
 太陽に例えられたのは初めてだ。月の狼(マーナガルム)と呼ばれる自分が。
 急に気恥ずかしくなって、フランネルはモズメからそっと離れた。
 彼女がいつまでも大事に持っているパンを、早く食えよと指し示す。ほんなら手伝ってと半分渡されて苦い顔をする。
「俺に飯なんか分けてたら倒れちまうだろ、お前ただでさえ小せぇんだから!」
「もう食べたかて大きなるような歳でもないし」
「それでも食うの! 固くて食えねぇなら俺が噛んで口移しすんぞ、それこそ子供だぞ!」
「堪忍、ちゃんと食べます」
 モズメは小さな口で急いでパンを平らげた。フランネルは頬についていた食べかすを舌で取ってやった。モズメがひゃあと裏返った声を上げた。
 こらえきれなくなって笑い合う。こんな笑顔が無理やりでない日がいつ来るだろう。
 さしあたり二人は死なないために、また誰かの光を奪いに行く。
 日はもう沈みかけていた。一面同じ色になっていた。
 温もりを求めて火の傍へ戻る。原初の色の中を歩く。
 この地獄を永遠に往くのだと、口にせずとも互いに思うことは同じはず。
 月を捕える狼。然らば天地は血塗られて、太陽は赤に堕ちるだろう。
 家路は遠く、終焉は近い。
 黄昏の向こう側、忘れられた故郷でただ、消え失せるために生を繋ぐ日に、焦がれる。