うすむらさき

 背中が痛い。味わったことない不快な固さに、レオン少年は目を覚ました。
 寝そべっていたのは石の床だった。ちゃんとベッドで就寝したはずなのに、ここはどこなのだろう。
 慎重に身を起こす。暗くてかび臭い部屋。高い場所にある小さな格子窓から、わずかに射し込む月光に、立てかけられた槍の穂先が寂しく照っている。
 どうやら武器庫らしいと、ようやくそれだけ判断した。
「閉じ込められたみたいね」
 ひどく落ち着いた声に、レオンははっと振り向く。
 闇に目を凝らしてみると、壁際の木箱の上に、十を少し過ぎた程度の少女が腰かけて、悠然と微笑んでいた。
 レオンはかすれた声で、年上のその少女の名を呼ぶ。
「……カミラ王女」
「相変わらず他人行儀に呼ぶのね。『レオン』」
 呼び捨てにされ、思わず目を逸らす。
 レオンはこの少女が苦手だ。異母姉にあたるカミラという王女。互いの母の派閥は仲が悪く、口を利いてはいけないのだと感じて、レオンはいつも遠巻きに彼女を見ているだけだった。母のことを抜きにしても、他の貴族や使用人の少女たちと比べて、彼女はあまりに異質だったから。レオンは彼女に、ある種の恐ろしさを感じていた。
 それを知ってか知らずか、カミラは大袈裟にため息をついてみせる。
「どうやら、寝ている間に連れて来られたみたいだわ。私が目を覚ましたのは、あなたが放り込まれてきたからよ。それに乗じて脱出しようとしたのだけれど、また捕まって両手を縛られちゃった。ねぇ刃物ならその辺に腐るほどあるんでしょう、見たところあなたはどこも拘束されていないみたいだし。縄を切ってくれない?」
 突き出された彼女の両手には、縄が執拗なほど巻きつけられていた。
 光が乏しいのでよくは見えないが、あのか細い手首には結構な苦痛だろう。
 ――だからどうだっていうんだ。ぼくには関係ない。
 思いながらも、レオンはがさごそと周囲を漁り始めた。
 武器庫だというレオンの判断が間違っていないなら、どこかにナイフのようなものがあるはずだ。まだ筋力のないレオンには、無造作に置いてある長剣を扱うことは難しかったが、短剣ならば何とか手に負えるかもしれない。
 やっと見つけたのは儀礼用らしき、刃渡り五寸ほどの装飾剣だった。息を呑んで抜いてみる。用途からして刃は潰されていると思っていたのに、切れ味は鋭そうだ。
「ねぇ、丁度いいのは見つかった?」
 少女が焦れたような声をかけてくる。いい加減手首がつらいのかもしれない。
 柄を持つレオンの手は震えていた。
 今なら、殺せる。
 ふと物騒なことが頭をよぎる。両手を封じられた無防備な少女の胸にこの刃を突き立てれば、暗夜王国の王位継承権を持つ者が一人減る。
「レオン?」
 少女が小首を傾げる。薄紫の長い髪が静かに流れる。
 まるで邪気のないその仕種に、レオンは胸に抱いた黒い感情の方をこそ殺した。
「ちょっと、待って。今、縄を切るから」
 一度短剣を鞘にしまって、少女に近づく。木箱に座る彼女の目の前まで行って、その身体を見下ろす。眠たげな目がレオンを見上げる。
 頬は触れてしまいたくなるほど滑らかだった。髪は指で梳いてしまいたくなるほど艶やかだった。薄紅の口唇も、細い肩も、少し乱れた寝巻きの襟元から覗く鎖骨も、幼いレオンにはどうしたいのか分からなくなるほど魅惑的で、理解出来ない罪悪感から逃れるために、彼女の前に両膝をついた。
「う、動かないでよ。間違えて、皮膚を切らないように」
 声が裏返っているのが情けなかった。
「お願いね」
 吐息が上からかかるので顔が熱くなった。少女からは、普段否応なく嗅がされている鼻を衝くような甘ったるい香りではなく、淡くやわらかい匂いがした。頭がくらくらして、レオンは自分でもよく手元が狂わずに目的を完遂したものだと思った。
「ありがとう。助かったわ」
 縄が床に落ちると、少女は自由になった手で、レオンの頭を一撫でして立ち上がった。
 ふらりと逆の壁際に歩いていく。レオンはその場に座ったまま、間抜けに彼女の姿を目で追った。
「ねぇレオン、あなたはこんなことをした一味に心当たりはある?」
「……ぼくとカミラ王女を同時に閉じ込めて、得をするひとなんて一人しかいない」
 レオンはどうにか刃物を鞘に戻して、とりあえず腰紐に帯びた。心許ないが何もないよりはましだろう。
 ゆっくり立ち上がる。
「ぼくがいなければぼくの母の一派は大騒ぎする。そのときあなたの母君の一派が同じように大騒ぎしていたら、まずおたがいに罪をなすりつけてつぶし合いになるだろう」
「じゃあ、犯人は私たちの両方が邪魔な人ということ?」
「そうだよ。たとえばエカテリーナ派とかね」
 レオンは嘲笑を含みながら言った。
 がたんと大きな物音がする。少女が自分の身体に合わない巨大な戦斧を手にしたのだ。
 暗闇に慣れてきたレオンの目は、少女の冷たい瞳をはっきり捉えてしまった。
「その理屈ならエリーゼもここにいるはずよ」
「え、エリーゼ王女の母親は身分も低いし、さほどこわくないんだ。目ざわりなのはやっぱり、男児のぼくと第二王位継承者のカミラ王女で……」
 捕らわれてしまった、と言う方が正しいのか。その瞳の前で、マークス王子一派の策略に違いないという結論を、レオンはついに口にすることが出来なかった。
 レオンがその言葉を完全に飲み込んでから、少女はふっと視線を逸らした。
「どのみち、ここから出ないと大変なことになるみたいね。出ても大変かもしれないけど」
 自らの身の丈ほどもある斧を引きずり、少女は出入り口まで歩いていった。何をするのかと思えば、斧を振り上げ躊躇なく扉に叩きつける。すさまじい音が武器庫内に響いた。
 少女は涼しい声で呟く。
「ダメみたい」
「あたりまえだろ、そのドアは鉄でできてるんだぞ!」
 レオンは痛む耳を押さえて座り込んだ。
 どうかしている。あの細腕で、あんなに大きな斧をあんなに強く振り下ろすなんて。
 少女は無駄と分かった道具を迷いなく捨て、レオンを振り返る。
「あなた確か、魔道の先生についていなかったかしら。私とは別の師だけれど」
「そうだけど。魔法でこわせって言うんなら、今は魔道書を持ってないからムリだよ」
 レオンは口唇を尖らせてよそを向いた。けれど、そう、と吐き出された少女の息が、いかにも落胆したと言いたげで。ぎりと歯噛みして、先ほど短剣を見つけたのとは別の箱を漁り始めた。
 ここは武器庫だ。ならば物理武器だけでなく、魔道武器も保管されていなければおかしい。もっとも高位の魔道書は厳重な管理下にあるはずで、ここには汎用性重視の下位魔道書しかないだろうが。それでも、ドアの向こうの錠を壊すことぐらいは出来るかもしれない。
「あった!」
 箱の奥、無造作に突っ込んであったサンダーの魔道書を引っ掴む。
 それにしてもこの武器庫は管理がなっていない。後でこちらの息のかかった将軍越しに、責任者を追及させよう。
「それで脱出出来る?」
「わからない。集中したいから、だまっててよ」
 少女が近づいて来ようとするので、レオンはぶっきらぼうに言い放った。
 実際、魔法を発動させることぐらい造作もなかったけれど、師のいない場所で、しかも実際の物体を破壊することは初めてだった。嫌な汗がにじむ。冷え切った庫内に格子越し通る風で、肌が寒い。レオンは小刻みに揺れる指先で書を開いた。
 集中しろ。自分を注視している少女のことは忘れろ。ここから出ることだけ考えろ。
 胸の内で言い聞かせながら、呪文を唱える。
「っ、あ……!」
 途端、魔道書が激しく動き、ばさばさと関係ない頁がめくれていく。レオンの指先から迸るはずだった電撃が、紙の上で眩しく弾けている。その一条がレオンの細い金髪をわずかに焦がす。嫌な臭いがした。
 レオンは慌てて呪文の続きを口走り、何とか力の制御を試みるが、魔道書は暴れ狂い、もう持っていることすらも困難だった。
「だめだ……やだ……っ」
 このままでは死んでしまう。レオンの理性も本能もそう警鐘を鳴らしているのに、身体が硬直して動けない。
 こんな所で意味もなく、誰にも知られず消えていくのか。嫌だ、そんなのは嫌だ。
「レオン!」
 ――気付けば、横に跳んでいた。腰の辺りに何かが巻きついている。少女の細い腕だった。飛びつかれたのだと理解したとき、投げ出された魔道書から雷光が発せられるのが見えた。
 雷の白い脚が周囲の棚をなぎ倒していく。木の破片と乱雑に積まれていた武器が降ってくる。
 あそこに立ってままでいたら即死だったろう。
「レオン! レオン、大丈夫?」
 頭上から、少女の声がする。目を向けると、少女が必死の顔でレオンを見下ろしている。レオンを背で庇うように覆い被さっている。
 レオンの知る限り、少女は式典で見かけるときも、廊下ですれ違うときも、いつもどこか他人事のように周囲を眺めていた。権力争いに明け暮れる者たちの中で、彼女だけは理を超えた存在のように厳かで、気高く見えた。こんな風に感情を露わにするのを、レオンは一度も見たことがない。
 そうしてるとホントにただの女の子みたいだ、とぼんやり思った。幻想が壊れたのに不思議と悪い気はしなかった。
「ごめんなさいレオン、私が変なことを頼まなければ……」
「いいよ、別に。ぼくが、まだ魔法が下手だってだけだし」
 レオンは少女を押しのけて起き上がった。
「そっちは怪我はないの、カミラ王女」
「私は……平気」
 カミラは呻くように呟いた。
 やはりどこか痛いのではないかとレオンが眉をひそめると、少女の小さな手が不意に頬に触れる。
「ね、レオン。あなたはやっぱり、私をお姉ちゃんだとは認めたくないの?」
 払いのけたい。そう思うのに、火照る頬はその冷たい指を心地いいと感じている。
「ぼくとあなたは、他人だよ。他のきょうだいたちだって。たまたま父上が同じだっただけの、他人だよ。こうやって利用し合ったり、邪魔がったりするぐらいにはね」
 レオンの言葉に、少女はうっすらと微笑んだ。黙ってレオンの前髪をかき分け、額に軽く口付けを落とす。
 誰かの口唇がこんなにもやわらかいとレオンが知ったのは、このときが初めてだった。
「レオン。ここから出られたら、あなたに会わせたい人がいるの」
 少女がゆったりとした口調で言う。のぼせ上がった心が急激に冷える。レオンは震えながら頭を振った。
「ち、父上なら、会わない。ぼくはまだ、会っちゃいけないって言われてるから……」
 言いつけられているのも本当だが、自身でも会いたくないと願っている。今のような醜態をさらせば、きっと失望され不要と告げられるから。
 少女はレオンから手を離し、小さく首を横に振った。
「違うわ。もっとあなたが、怯えなくて済むような人」
「お、おびえてなんてない!」
 レオンは勢いよく立ち上がった。声は引っくり返っているし、もしかしてさっき触れられた前髪だって乱れているかもしれないけれど、構っていられなかった。ぎゅっと強く目を閉じて叫ぶ。
「こわくない! だれにだって会ってやるから、その気があるならそんなとこ座ってないで手伝ってよ!」
「手伝う?」
 何故か楽しげに言って、少女も腰を上げる気配がした。
 恐る恐る目を開けると、彼女は微笑んだまま後ろで手を組んでいた。
「手伝えそう? どうすればいい?」
「……さっき、ぼくとは『違う師』だって言ったよね。ってことは、あなたも魔道の勉強はしているんでしょ」
 レオンは尊大に見えるように腕組みをする。少女は少し眉を下げた。
「あまり得意じゃないわ」
「でも、素養はあるんでしょ」
 レオンは、今は鎮まっている魔道書をもう一度持ち上げた。魔力はまだ残っている。使える。
「二人がかりで、制御する」
「どういうこと?」
「ぼくは術式はちゃんと覚えてるんだ。魔法のかたちを取れなかったのは、練習用の本よりこの本のが魔力が強かったから。だけど、二人分の魔力で抑えれば……」
「きちんとした魔法のかたちになるかもしれない、ということね」
 カミラは、魔道書を持つレオンの手に自分の手を添えた。決然と告げる。
「構わないわ。あなたが術式を起動させて。そのとき私の魔力を全部乗せる」
 レオンは何度か無音で口唇を開閉して、迷った挙句に、結局浮かんだ気持ちを音にすることにした。
「ありがと」

 二人は魔術の発動に成功したものの、錠だけを壊すつもりが扉が大破したので大騒ぎになった。
「すごいわ。あなた天才ね」
 カミラは上機嫌でレオンの手を引き、駆けつけた警備兵の隙間を器用に縫っていく。
「どこへ行くの!」
「さっき言ったじゃない、出たら会わせたい人がいるって」
「こんな夜中に会ってくれる人なんていないよ!」
 レオンは訴えたが、カミラの力が強いのと大声を出すと見つかるかもという懸念で、自発的に黙った。
 蝋燭灯る王城の廊下には、他に誰もいなかった――前方の角から勢いよく曲がってきた、一人を除いては。
「カミラ! レオンもいるのか?」
「マークスお兄様! よかった」
 十代半ばの少年。暗夜王国第一王位継承者、王太子マークス。正妻の産んだ一番目の男児。つけいる隙のない絶対強者。
「何があった」
「寝ている間にさらわれたみたい。一緒に武器庫に閉じ込められていたの」
「何てことだ……」
 カミラと話して、いかにも心を痛めたように額を押さえる彼を見て、レオンは胸の内の黒いものがふつふつと煮え立つのを感じた。今まで間近で見ることすらも避けてきた、年嵩の少年を睨み上げる。
「なに、言ってるんだ」
「レオン?」
「気安く呼ぶな!」
 レオンは腕を振って怒鳴った。ふと腰に帯びた短剣の存在を思い出した。
「ぼくらがこんな目にあったのは、全部マークス王子派のせいに決まってるのに! ぼくらがまとめて片付けば、あんたはさぞ都合がいいんだろうね!」
「レオン!」
 鋭い声で呼びながらレオンの頬を叩いたのは、少年ではなかった。少女の方だった。あのとき優しく触れてくれた指で、同じ頬を払った。
「そんな口の利き方をしてはダメ。謝りなさい」
 レオンは思わず座り込んで、少女を見上げた。意地でも泣くまいと思っていたのも忘れて、目尻に涙が浮かぶ。
 そうか、どうせぼくの味方なんかいなかったんだ。利用されただけだ。早くあそこから出たかったから。ぼくは、やっぱりぼくだけで何とかしなきゃいけなかったんだ。ぼくは……。
「叩くのはやりすぎだ。カミラ」
 すっと背筋を伸ばしたまま、少年がレオンの脇に膝をついた。
 大人ほどではないが、少女よりは太い指がレオンの頬に伸びる。そのまま顔を包んだ手の平は、豆だらけで乾いていた。
「痛むか」
 言葉は短い。けれど覗き込んでくる瞳には本気の心配が宿っていて、一層レオンを惨めにさせる。
「いたくなんかないよ!」
「そうか。お前は男だものな」
 苦笑して頭を撫でるのも癇に障った。払い除けた拍子に後ろへ転がってしまうと、あらあらと少女がレオンを抱き起こした。
「ごめんなさいね。強くやりすぎたみたい」
「……なんなの、もう」
 レオンは小さく鼻をすすった。
「半分しか血がつながってないくせに、なれなれしいんだよ。ふたりとも」
「そうだろうか」
 少年がレオンの腰から短剣を抜き取る。あっと思ったときにはもう遅かった。少年は何の躊躇いもなく自らの左腕を浅く斬りつけた。上質な布地が裂けわずかに血がにじむ。
 少年は、眉間にしわを寄せているくせに微笑んでいた。
「この赤い血の中には半分も、お前や、カミラや、エリーゼと同じものが流れている。この暗夜王国に、どれだけ私たちと無関係の血を持った人間が暮らしていると思う。それを考えれば、半分というのは充分に身内と呼べる濃さではないのか?」
「レオン。こういう人なの。だから私はこの人を、『お兄様』と呼ぶの」
 少女がレオンの肩にそっと手を載せた。藤色の髪が緩く落ちかかる。やわらかく波打つ細い髪。
 レオンはこの頃から自分の審美眼に自信があった。彼女は間違いなく美しい。
 美しい薄紫の、半分は自分と同じ血で出来ている。その赤色を抜き取ってしまえば、きっと彼女はもう彼女ではなくなる。だから心惹きつける少女を認める為に、レオンはこう言うしかなかった。
「わかった。この国には、うそつきばっかりだけど……二人がぼくの半分を裏切らないなら、ぼくも二人を裏切らないから」
 よろしく、『兄さん』、『姉さん』。
 呟いた瞬間、二人はそっくりな表情を浮かべた。蕾のほころぶような微笑。
 やっぱりきょうだいなんだ、ぼくもきっと同じ顔をしているんだと、レオンは苦笑した。安堵したはずなのにひどく胸が痛んだ。
「ねぇお兄様、今度レオンも北の城塞に連れて行きましょう。もう少し大きくなったらエリーゼも」
「それはいいな」
 カミラとマークスは盛り上がっていたが、レオンがその『北の城塞』というフレーズを聞いたのは初めてだ。
「そこに何があるの」
 問いかけると、カミラはやはり笑って答えた。
「そこにもいるのよ。あなたのきょうだいが」
 笑っていたけれど、違う。その上気した頬は、レオンに見せた慈愛の笑顔とは違った。レオンは冷や水を浴びせられたような気分でカミラを見ていた。
 なんだ。ぼくは全然いちばんには遠いのか。別に期待なんかしてなかったけど。『姉さん』は、そのきょうだいのことがぼくより『兄さん』より『エリーゼ』より、きっとずっと好きなんだ。
「そうなんだ。会ってみたいな」
 本当は会いたくなどない。けれどそれでカミラが喜ぶのなら、嬉しいふりぐらい簡単だ。
「その人は、ぼくにとってどんな人かな?」
 姉さんにとって、その人はどんな人かな。
 その人にとって、姉さんは。
 あなたは。カミラという、少女は。

 

 背中が痛い。自室の椅子で兵法書を読んでいるうちに、眠ってしまったようだった。
 グラビティ・マスターと呼ばれる若き魔術師は、寝ぼけ眼で懐中時計を取り出した。もうすぐ約束の時間だった。
 暇を見て北の城塞に出かけるようになってもう何年にもなるが、未だにレオンはそれが楽しみなのか苦痛なのか分からずにいた。
「レオン!」
 カミラが勢いよくドアを開けてくる。いつもならノックをするのに、あのきょうだいに会いに行くときだけは、はしゃいで忘れてしまうのだった。
「もう時間よ、いつまでも来ないから迎えに来ちゃった」
「ごめん。ちょっと居眠りしてた」
 ついでに昔の夢も見ていた。まだカミラに色香というほどのものもなかった頃の。
「大丈夫? 疲れてるなら、今日は残る?」
 気遣わしげに顔を覗き込んでくるカミラ。レオンは苦笑して首を横に振る。
 それでも絶対に『今日は行くのをやめましょう』とは言ってくれない、その分かりきった事実に今更落胆した。
「それなら、さぁ。行きましょう」
 カミラが差し出してきた手に、レオンは自らの手を重ねる。
「カミラ姉さんは……僕の、姉さんだよね?」
 無様に震えた声で尋ねても、カミラは不思議そうな顔をするだけだった。
「ええ、勿論。今までも、これからも、ずっと私はあなたのお姉ちゃんよ」
「そう」
 安心したのに、ありがとうだけはどうしても口から出なくて。
 カミラは何か誤解したのか、強くレオンの手を引いて笑う。
「大丈夫。私もマークスお兄様もエリーゼも、何があってもあなたのきょうだいよ。だから行きましょ」
「……うん」
 レオンはゆっくりと立ち上がる。
 そんなにも会いたくて僕を急かすくせに、あの人のことだけは、ずっと『きょうだい』だって保証はしないんだねと。本当に言いたいことは笑みの奥に隠したままで。
「好きだよ。カミラ姉さん」
「ええ私もよ、レオン」
 カミラは軽く答えて、レオンを引っ張りながら歩き出す。
 レオンは黙って、目の前で波打つ、赤色を取り去れない薄紫を見つめていた。一房をこっそり手にして、口づける。甘く香って、やわらかな髪はするりと逃げていく。
 ――それでいいよ。腕の中に来てなんて贅沢、死んでも言わないから。
 あなたはせめて、僕の『姉さん』でいて。
 世界で一番美しい、僕の姉さん。