花衣を君に - 3/7

◇花の名前は薔薇◇

 大人の女性の香りというものをサクラは彼女に出会ってはじめて知ったような気がしていた。ヒノカとアクアは尊敬すべき愛すべき姉で、イコナは、ミコトは、憧れ続けた理想の母だった。けれど最も近しい彼女たちは、サクラにとっては家族であり、女性ではなかった。
 会話もなくすれ違う日々を繰り返すうち、見ているだけではなく知りたいと思うようになった。戦時中に考えるようなことではない。王女としての冷静な思考は、少女の素直な好奇心に打ち負けて薄れる。あるいはサクラが暗夜の王女であれば、香をまとい着飾り、王子の心を射止めることも王女の義務と教えられたかもしれないが、サクラの肉親は言外の駆け引きよりも武芸に秀でた者ばかりだった。
 花の香りがする、と気づいたのは射場から自室に戻る道すがらだった。戦巫女として認められたばかりのサクラは時間さえあれば星界でタクミの指南を受けている。星界の射場は設備は申し分ないのだが、シラサギ城の射場に慣れたタクミには思うところがあるようだった。サクラも同じだ。まだ母が存命だった頃、サクラがあの場で矢を射ることはなかったが、弓をかまえてまっすぐに立つミコトとタクミの姿は、的場の奥に咲く花の色とともに強く記憶に残っている。星の世界は美しいが白夜の桜は咲かなかった。
 この香は、白夜の花でないのなら、サクラの知らない異国の花だろうか。ミューズ公国を想起させる異界は、敷地のあちこちを清い水が走っている。整備された水路のへりにはどの国のものともつかないつつましやかな花が点々と咲いていた。白い花、黄色い花、どれも小ぶりで香りはさほど強くない。
 敷地の最奥に建つ居城に戻るには、葉のつかない黒い木々が乱れる林の近くを通ることになる。見つけた、と思いとっさに手のひらを握りこんだ。寒々しい枝の合間から可憐な薄紫色がのぞいている。
 黒い樹皮は禍々しく、手をのばすようにうねる幹は生き物のようだった。何度見ても不気味に感じてしまう自分が後ろめたかった。竜脈とリリスの力で暗夜王国の木々を再現したのがこの林なのだという。異国の姫に自らの土地を侮辱されればいい気はしないだろう。頭ではわかっているのに身が竦む。理解とは生易しいものではないのだと嗤われているようだった。
 林の奥に進もうとしたサクラを制するように少女が姿を見せた。人が音もなく目の前に現れたので悲鳴をあげるところだった。黒いバンダナからのぞく瞳がこちらをじっと見つめている。ベルカ、とそう王女には呼ばれていたはずだ。もうひとりの臣下は近くには見当たらなかった。無言で見つめ合う時間が続き、ベルカが先に口をひらいた。
「なにか用」
「と、通していただけますか」
 危惧したよりも敵意の見えない声音だった。落ち着いた声をかえっておそろしいとも感じた。
 質問には答えたはずだ。ベルカの返事を待ったが、彼女は唇を閉ざしたまま動かない。途方に暮れて目を伏せたとき、視界の隅でベルカが息を吐くように笑った。青白い笑みだった。「いいわ」と言ったベルカの気が変わらないうちに奥へと急ぐ。
 なんだか、あまり喜ばしくない理由で通された気がする。不満とも言えない、心もとない感情だった。とはいえ、雇い主に害をなす存在ではないと思われているなら、それがサクラの無力さゆえだとしてもこの先の関係に悪くは働かないはずだ。
 エリーゼの持つ本に挿絵があった天蓋の森という場所に似ていると思った。進めば進むほど暗い影の重なる林の奥、荒い曲線を描く枝に隠れるようにして彼女は立っていた。無色の世界で彼女のまとう香りだけが鮮やかに咲く。
 ゆったりとした長髪を背に流し、物憂げに空を見あげる王女に声をかける。こちらを振り返る女性の所作があまりに優雅で、警戒とは程遠かったので、浮かべた笑みはぎこちないものになってしまった。
「カミラさん……」
「まあ、どうしたの? 浮かない顔だわ」
 慌てて頬に触れる。今度は羞恥で顔が熱くなったような気がした。「なにか悩みでもあるのかしら」サクラよりよほど悩ましい声音でカミラが言う。
「あ、あの……」
「ええ。なんでも言ってちょうだい」
 カミラが微笑んで身体を揺らすたびに、赤い花弁が鼻先で舞う。小声で花の名前を呟いたのが聞こえたのか、カミラは自身の手首に視線を落とした。
「香水よ。白夜王国では珍しいのかしら」
「似たものを、母様につけていただいたことはあるのですけど……」
 白夜の王女として正装をする際は、礼節の一環で母や侍女が用意する香を身につけていた。木箱からのぞく薄色を落ちつかない気持ちで眺めたことを覚えている。暗夜の香が白夜のものとは少し違うようだと気づいたのはエリーゼと親しくなってからだった。元になる植物も異なるが、そもそも暗夜の香水は固形ではないらしい。
「興味があるのね。とってもかわいいわ」
 子どもの成長を喜ぶような慈愛をのぞかせてカミラが言う。頬がますます赤くなった。事実、カミラにとっては子どもなのだろう。年齢の話ではない。サクラはカミラにも、大切な姉である三人の女性にも似ていない。大人である彼女たちと違う自分はやはり幼いのだろうとサクラは思った。
「薔薇は、白夜では自生しないのよね?」
「はい。名前も、この前エリーゼさんに教えていただいて……」
「不思議なものね。毎日髪を梳くのと同じように慣れ親しんだ香りだから、暗夜と白夜でこうも違うだなんて驚いてしまうわ」
 小さくうなずいたサクラを映すカミラの瞳は常よりも凪いでいるように見えた。
 言語も服飾も思想も、関わるにつけ両国の差異に驚かされたものだが、見知った花の香りまで伝わらないとなると、すべてを理解しあうのはとてつもなく難しいことのように思われた。信じる神が違うというのは、サクラが思うよりずっと心に壁をつくるのだろう。美しい顔をした異国の王女がその優雅さほどにはサクラに気を許していないと知っていたけれど、こうして言葉を交わすことが許されるなら続いていく先の希望を信じられると思った。
「……そうねえ。ふふふ。いい機会だわ」
 なにが、と聞き返そうとしたサクラの唇をカミラの指がなぞる。紅をひくように動く指を止めることもできず、動揺からよろめいたサクラを支えるように、空いた手でカミラがサクラの手首を軽く掴んだ。
「詳しい人を紹介してあげる。私から連絡しておくから、なんでも聞いてちょうだい」
 熱に浮かされたような状態でこくこくとうなずく。満足げに微笑むカミラにいまさら必要ないとは言えなかった。厚意はありがたいのだが、なんとなく素直に受けとることを躊躇してしまうような妖しさがカミラの言葉にはある。
「ねえ、サクラ王女」
 驚いて、カミラの顔を見あげた。怪しいなどと思ってしまったことが恥ずかしかった。同じではない、けれど彼女がきょうだいに向けるものにとても近い穏やかな表情にゆっくりと肩の力が抜けていく。名前を呼ばれたことはまだ数えられるほどしかない。だからこそそれだけで嬉しいと思えた。
「気に入りの香りをあなたが見つけたら、今度はこんな暗い場所ではなくて私のお茶会にいらして。また話をしましょう」
 頬をなでる手のひらを素直に享受して微笑むと、サクラに注がれる眼差しがやわらかくゆるんだ。ほころぶ蕾のようだった。

 カミラが指定したのは城に複数ある薬剤室のうち、暗夜側で管理している部屋だった。先程は姿が見えなかったが、カミラの臣下のルーナは買い物が好きでお洒落にも詳しいと聞いている。深い面識のない彼女ときちんと話せるか不安でないと言ったら嘘になるが、教わる立場のサクラが及び腰ではいけない。揺らめく火のような鮮やかな赤髪を浮かべながら、意を決して扉を開けた。ルーナさん、と喉まででかかっていた名前が顔を見て立ち消える。
 扉に手をかけたまま固まるサクラを見て、同じように驚いていた相手が先に口をひらいた。
「入ったら」
「し……失礼します。レオンさん」
 声を発した喉のあたりが熱い。気のせいだとわかっていたのに喉元に手をあててしまった。なんでも質問して、カミラと話ができるくらい詳しくなるというつもりで部屋に来たのに、これではあまりに情けない。
 一度空気を入れ換えたのか強い香りは残っていなかったが、サクラにはあまり馴染みのない、おそらくは暗夜の花や果物の匂いがあちこちに浮かんでいるような気がした。たくさんの商品を扱う香水店はこんな香りがするのかもしれない。春の野原のようだ。
 博識で王族らしい品格のある人だと思っている。華やかな香りももちろん似合う。けれど、まさか先生がレオンだとは思わなかった。サクラを部屋に招き入れたきり、中央の机での作業に戻ったレオンは、白を基調とした薬剤室では一際目立つ暗色のローブを羽織っていた。遅れて、普段と印象が違うのは鎧姿ではないからだと気づく。
「いつもの小うるさい彼女は?」
 突然声をかけられたので驚く。光を編んだような髪がさらりと揺れて、レオンがゆっくりとこちらを振り返った。
「あなたの臣下は?」
 飲みこみの悪いサクラにあわせて、レオンが言い方を改める。さらりと嫌味を言われた気がするのだが、臣下と言い直されてから文句を言うのも稚拙なので、素直に質問に答える。
「カザハナさんは、今日は見回りです。ツバキさんは部屋でお休み中のはずですが……」
「王族がふらふらひとりで行動するべきじゃないと思うけど」
 それはレオンさんも、と口にしようとして、自分とレオンは到底同じ立場ではないのだと思い知らされた。魔術を自在に操りグラビティ・マスターとまで呼ばれるレオンと、ようやく弓を扱えるようになったサクラとでは、戦闘能力が段違いだ。そもそもレオンのほうはひとりではないのかもしれない。彼には隠密を得意とする臣下がいたはずだ。サクラは忍びを従えることはあっても自身が訓練を受けたわけではないので、見えない誰かの存在を感じることはできなかった。
「すみません、不用心で……。でも、レオンさんといっしょならカザハナさんもツバキさんも安心だと思いますから。……も、もちろん私も」
 勇気を振りしぼってどうにか最後まで言いきると、はっきりと物を言うレオンには珍しく言葉を探すような間があった。
 敵であったころは彼の周囲を影のように這う魔道の気配がおそろしくて、刺すような視線からもただ逃げたいと思っていたのに、カムイのもとでともに戦うことになって、軍議の件でぶつかりもして、レオンの不器用な優しさを知ることができた。身内には甘い人だということも。サクラはレオンの身内ではないが、他国の王族ゆえ気をつかわれていると思うことは少なくなかった。もう彼がおそろしいなどと思うことはない。ただ、最近少しだけ困っているのは、以前よりずっと打ち解けたはずなのに、ふたりになると緊張してしまう。レオンの顔を見ると、サクラが人見知りという以上に言葉がでてこないことがあった。
「……ずいぶん信用されたものだね」
「す、すみません」
 しばらくして、呆れたようにそれだけ言ったレオンに反射で謝ってしまう。特に返事はない。レオンのそっけなさにも怯むことがなくなっていたサクラは、なんとなく黙ったままでいるのがもったいないように感じて自然とレオンに話しかけていた。
「また、兵法についても教えていただけますか」
「……ああ。別に、かまわないよ。今日のところは香料の話でいいんだよね?」
「は、はい!」
 端正な顔にようやく笑みが浮かぶ。レオンなりに場をなごませようとしたのだとわかった。目的を思いだしたところで、サクラのほうは気が引き締まる。第二王子の時間をもらい受けるのだから、せめて今だけでも優秀な生徒でいたい。
「白夜の王族はあまり香りものに興味がないのかと思ってたけど……リョウマ王子がたまにつけてるあれは練り香水? それとも香を焚いて服に香りをうつしてるの?」
「え、ええと……」
 さっそく言葉に詰まってしまう。言われてみれば、という程度の認識しかサクラにはなかった。レオンがリョウマの香水に気づいていたこともそうだが、白夜の香に対する造詣の深さもサクラを驚かせた。タクミとは近頃特に親しげにしているが、ふたりがこんな話をしているとも思えないので、ヒノカかアクア、あるいは物知りなオロチあたりに話を聞いたのだろうか。そこまで考えて胸のあたりが重くなったので、軽く首を振ってレオンに向き直る。今日は教えてもらうために来たのだから、知らないことを恥ずかしがっていてもしかたない。
「兄君の影響というわけではないんだね」
「はい。あの、私……ずっと気になっていて、今日カミラさんに……」
 カミラの名前を挙げたところでレオンが深いため息をつく。
「……まったく。カミラ姉さんもなにを考えてるんだか」
「す、すみません……」
「またあなたはすぐ謝る……。怒ってるわけじゃない」
 難しそうな顔で言われても説得力がないのだが、たしかに困っているだけで怒っているわけではないのかもしれないと思い直す。急だったこともあるだろう。
「だったら……どうしてまた?」
 どこからつながった問いなのだろうと一瞬迷ってしまったが、おそらく聞かれているのは動機だろう。武士道を仰ぐ白夜の王女でありながら、さっき嘘でも兄様の影響ですと言っておけばよかったとサクラは後悔した。レオンの前で、あなたのお姉様に憧れたのです、とは言えない。それではたぶん、意味がない。
「……おそろしくて」
「……戦が?」
「いえ。……透魔王国の空気が」
 レオンが不思議そうな顔をする。共感を得られると思って口にしたわけではないが、このままではいくらなんでも説明不足だ。年上の女性への憧憬とは別に、新天地への強い違和感もけっしてレオンを誤魔化すための嘘などではなかった。
「……水の匂いともまた違う気がするんです。もっと無形で……もっとよそよそしいような」
 生き物の気配が欠落しているのだ、と話しながら気づいた。透魔王国はハイドラの軍勢により滅び、今では不可視の兵が潜むばかりだった。透魔兵は動きも殺しもするが、きっともう人ではない。兄弟の刃先がかすめるたびにほんの一瞬姿を現す彼らのことを思いだしてふるえそうになった。泣き言を言っている場合ではないのに。サクラはもう彼らに鏃を向ける立場なのだ。
「慣れ親しんだ香りに包まれたいってことなら、白夜の香のほうが適してると思うけど」
 冷静なレオンの助言を受けて我に返る。そばにいるのはレオンだ。敵と相対してもいないのに不安になってもしかたない。
「そ、そうですよね……」
「……自然由来の香水なら少しはあなたの意に添うのかな。あなたの好みがわからないから、試してみて」
 レオンに導かれて部屋の奥へと進む。常ならば薬草や器具が置かれる平机の上に、つるりとした小ぶりの瓶が数えきれないほど並んでいた。色とりどりの香水すべてに紙片が貼りつけられている。サクラには読めなかったが、おそらく香水の名前や原料が書かれているのだろうと思う。レオンの字だろうか。
「……薔薇、ですか?」
 かろうじて綴りから見当がついたのが薔薇だった。エリーゼのおかげだ。同じ薔薇でも、カミラの香水とは香りが違う。
「そう。……少しきついかな。サクラ王女には」
 華やかで品のある香りだとサクラは改めて思ったが、レオンのお気には召さなかったらしい。慣れて匂いがわからなくなる前に、もう一度大輪の花の香りをゆっくりと吸いこむ。好きな香りと似合う香りは違う。そんな当たり前のことに今気づいて、なんとなく途方に暮れたような気持ちになった。香水そのものではなく、赤い花の似合う王女に憧れていたのだ。
 香水を手にしたまま動かないサクラに、レオンが別の瓶を差しだす。若菜色の香水の原料はシトラスというらしい。
「どう?」
「春の朝のような……すっきりした、素敵な香りです」
 薔薇とは異なり中性的な香りだが、重い感情を洗い流すような爽やかさと清廉さを感じた。名前だけでは判別がつかなかったが、花ではなく果物や植物の類なのだろう。蜜柑の匂いになんとなく近いような気がする。
「詩的だね。エリーゼにも見習ってほしいよ」
 敵に向けるような嘲笑ではなく、穏やかな笑みを浮かべてレオンが言う。彼を喜ばせる感想だったと思っていいのだろうか。それとも大切な妹の名前だから、自然と穏やかな表情になったのだろうか。この部屋に来てから、レオンとふたりになってから、不思議なことばかり考えている。目の前には両の指でも足りないほどの香水が並んでいるけれど、どんな香であってもこの感情の答えにはならないような気がした。

 

 

「綺麗な瓶ね。誰かからの贈り物?」
 青い畳に敷かれた四つ折りの風呂敷の上、和室には似つかわしくない硬質さで鎮座する瓶を眺めてアクアが言う。返事に窮してうろうろと視線をさまよわせるサクラにも部屋の主は慣れたもので、特にサクラを急かすことはせず返事を待っている。
 華やかに香るのみならず使用者の心を癒やすはずの香水が、目下のサクラの悩みの種だった。
 レオンに勧められるがままに香りを試して都度感想を伝えた数日後、サクラは中庭に呼びだされていた。黒い鎧をきっちりと身につけたレオンから手触りのいい白色の小箱を渡される。なにも考えず受けとってしまったサクラにも非はあるが、少なからず困惑する。レオンからの説明がないのだ。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます。あの……こちらは?」
「香水。この前聞いたあなたの好みを反映させたつもりだけど、試してあわなかったら処分してほしい」
 贈り物を、それも彼がサクラのために時間を割いて選んだ品を、粗雑に扱うことなど考えられないのに、レオンがためらいのない声で「処分してほしい」などと言うものだから心臓が冷える。せめてその部分だけでも訂正しておきたかったのに、その日は互いのそばにツバキとゼロが控えていたため会話はそれ以上続かなかった。
 肝心の、レオンの気持ちを確かめる機会を逃したまま、美しい香水瓶はサクラの手元で量を減らすことなく香りを閉ざしている。
「気に入らなかったの?」
 経緯の説明は終えたが、あのときのレオンと同じで大切なことを伝えられていない。一度助け舟をだしたほうがいいと判断したのだろう。アクアが落ちついた声で問う。その出自と隙のない美貌が災いして冷たいと噂されることもあった姉が、その実優しく聡明なことをサクラはよく知っているし、今ならはっきりと言葉にもできる。
「いえ。私は……、すごく嬉しかったんだと、思います」
 驚いたのも本当だが、あれから毎日寝る前に眺めてしまう贈り物を疎ましく思っているはずはない。サクラは、むやみにそれを誇示するようなことはないが、物を贈られることに慣れている。サクラに限らず姫と呼ばれるような女性は、打算の絡んだ装飾品などは見飽きるほど見ており目も肥えていた。レオンの場合は、きっと打算ではない。媚びでも当然ないだろう。彼がサクラにかしずく必要などない。ならば純粋な善意、というところまで考えていつも思考が止まってしまうのだった。レオンがそこまでする心当たりがサクラにはない。
「深く考える必要はないわ。レオンは暗夜王国の王子としてあなたともっと親しくなりたいのよ」
「アクア姉様……」
「ふふっ……あなたがあんなに萎縮していたのが嘘のようね。嬉しいわ」
 まだまともに話せもしなかったころの話をされてしまうと恥ずかしい。レオンと気負いなく会話ができるようになるまでには紆余曲折あり、アクアに泣きついたことも一度や二度ではないため、こうして時折当時のことをからかわれる。ヒノカにも相応に心配をかけたので、はやいうちにレオンが悪かったわけではないと話して誤解を解きたいのだが、どうにも未だサクラが無理をしているように見えるらしく、レオンが関わるとヒノカは少し過保護だ。
「カムイとも話していたのよ。私たちはもっと互いの文化を理解する必要があるって」
 穏やかな表情で紡がれるアクアの言葉が今ならよくわかるとサクラは思った。無知であるというのはおそろしい。他国の王子を慈悲のない指揮官だと思っていたのも、強い花の香りに惑わされるのもすべて無知ゆえだ。つまり、レオンも同じことを考えたのではないだろうか。
「私もレオンさんに白夜王国のことを……私の大切な国の人たちのことを知っていただきたいです」
 まずは知ってもらうだけでいい。いつか好きになってほしいとも思うけれど、それはとても難しいことだとわかっている。気安く会話をしようと戦場をともにしようと、両国の溝がそう簡単に埋まることはない。
「香水のお返しを用意したらご迷惑でしょうか……」
「サクラが選ぶ品なら心配いらないわ。誕生日の贈り物、いつもサクラのものが一番喜ばれていたじゃない」
 あれはサクラの目利きというより兄の態度の問題だ。返答に困って誤魔化すような笑みを浮かべてしまう。リョウマは日頃からサクラを甘やかす機会を伺っているようなところがあり、前の年の誕生日に贈った扇子もことのほか喜ばれた。ほかのきょうだいも思うところがあったようで、サクラからすると大袈裟に思えるほどの言葉を三人からも受けとっている。
 サクラは白夜王国の代表としてレオンに物を贈るわけではないが、気持ちの問題とは別に、外交的な意味合いを感じる者もいるだろう。なんにせよ下手な品は選べない。
「練り香水を贈るのはどうかしら。暗夜のものほど香りは強くないけど、私は好きだわ」
「わ、私も同じことを考えていました! ただ、香料のことはあまり詳しくなくて……」
「あら、そうなの? 困ったわね……私もよ」
「ヒノカ姉様は」
「どうかしら……」
 顔を見合わせた状態で沈黙が落ちる。これではレオンに「白夜の王族はあまり香りものに興味がないのかと思ってた」と言われてしまうのも無理はない。ヒノカが姫としての礼儀作法は必要最低限に留めて武術に入れこんだ理由を知っているサクラはそれ以上なにも言えなかった。母を失ってから憑かれたように祓串を振り続けたサクラも同じようなものだ。
「リョウマに相談するのはどう?」
「リョウマ兄様ですか?」
「あの人妹を着飾らせるのが好きだから、本人に知識があるかはともかく、詳しい人を紹介してもらえるかもしれないわ」
 そう言うアクアは珍しく顔をしかめていた。照れているのかもしれない。リョウマにとっての妹には当然アクアも含まれる。アクアは着飾ることより構われることが苦手らしく、王子ではなく兄としてのリョウマとの距離感に悩んでいるようだった。こんなことを言うと本人には怒られてしまうかもしれないが、アクアの機微がサクラにはとても微笑ましいもののように思われてつい口元がゆるんでしまう。
 レオンが言っていたリョウマの香についても興味があるので、今回は兄の力を借りようと決めた。三日くらい寝なくとも大したことはないとオボロにこぼすほど多忙なリョウマに私事で声をかけるのは気が引けるが許されるだろうか。
「リョウマはあれでさみしがりやなのよ。あなたに頼られれば喜ぶわ」
 心の内を読んだようなアクアの言葉にどきりとした。
「そ、そうでしょうか……」
 なおも遠慮の抜けないサクラに対してアクアが言う。
「私もよ」
「アクア姉様も……ですか?」
「ええ。きょうだいなんだもの。不思議はないわ」
 血がつながっているというそれだけではないのだ。きょうだいでいるために必要なことは。うなずいて微笑んだ。思いきって部屋を訪れてよかった。話してみて、聞いてみてよかった。アクアも同じように感じていたと知って胸のあたりがあたたかくなる。心地のいい熱だった。

 

 

 香水を見せレオンの名前を挙げた瞬間にリョウマが難しい顔をしたので、サクラは話し終える前から断られるものと思いこんでいた。
「俺が同行しよう」
 リョウマの答えは簡潔だった。取り違えようのない返答だったというのに、サクラはしばしリョウマの顔を見つめたまま固まってしまった。
「迷惑だろうか」
「い、いえ! ありがとうございます……リョウマ兄様」
 兄の見立てなら間違いはないだろう。ほっと胸をなでおろす。白夜にいたころのように城に商人を呼ぶことはできないので、後日異界へと赴くことになった。
 あまり大所帯になっても身動きがとれないので、カザハナとツバキは城に残り、サイゾウとカゲロウが護衛につくことに決まった。リリスの力を借りて訪れた異界の地を兄と連れだって歩く。こうしてリョウマと過ごすのはいつぶりだろうか。臣下ふたりは気を利かせて姿を見せないので、兄妹水入らずと言ってもよかった。
 こっそりと城下を訪れ民と話をするような奔放さが許されていた末姫のサクラとは違い、リョウマは戦が始まる前から自由な時間というものがほとんどなかった。わずかな空き時間は鍛錬へとあて、女王の補佐と第一王子としての責務に追われるリョウマはサクラには遠い存在だった。
 白夜王国に近似した文化形態を持つこの星界は、景観も白夜の城下町を彷彿とさせた。美味しそうな匂いがする、と思い左を向くと着物の少女が団子屋の呼びこみをしている。「帰りに寄るか?」とリョウマが笑うので、サクラは赤い顔のまま首を振る。今日は食べ物目当てで訪れたわけではないのだ。
「兄様。今日はありがとうございます」
 まるで普通の兄妹のように通りを歩きながら、背の高い兄を見あげて言う。甲冑を外したリョウマの顔は変わらず凛々しく、軽装であろうと王子としての風格は失われない。
「なに、気にするな。妹の頼みだ。彼の国の第二王子への返礼とあらば俺も無関係ではない」
 ようやく表情のやわらいだサクラを見て、リョウマがそっと目を細める。公務の最中にはけっして見ることのできない顔だ。それだけでもリョウマとこの町に来てよかったと思える。
「今度はきょうだい全員で白夜の城下町を見て回りたいものだな」
「……リョウマ兄様は、私とふたりでは退屈ですか?」
「いや、そんなことはない。俺はただ……。……サクラ、あまりからかわないでくれ」
 ゆるむ頬を隠すために俯いたことはリョウマにはすぐ見抜かれてしまった。顔をあげて、今度はリョウマの目を見て言う。
「す、すみません。私、嬉しくて……。私もリョウマ兄様と同じです。シラサギ城の桜も、射場も、道場も……懐かしくて、恋しいです。私たちが帰るのは、これまでもこれからもあの城ですから」
 春になれば門前に桜花が咲き乱れる美しい城が、サクラの、きょうだいの帰るべき場所だ。この異界の町並みも美しく華やかではあるけれど、サクラが心を砕くべき民はここにはいない。荒れ果てた広間の復興は進んでいるだろうか。城に残ったユキムラは元気にしているだろうか。心配事は尽きないけれど、今は成すべき使命がある。
「……なるほど。余計な心配だったか」
「リョウマ兄様?」
「ああ、すまん。こちらの話だ」
 少し嬉しそうなのはなぜだろうと首をかしげたサクラにリョウマが問う。
「サクラ。レオン王子から贈られた香水はつけないのか?」
 彼にしてはずいぶんと突拍子もない発言だった。同時にずっと悩んでいたことでもあるのでつい言葉に詰まってしまう。アクアは香水の量が減っていないことには触れなかった。わざとなのかそうではないのかサクラにはわからないが、こういった場面ではリョウマのほうが遠慮がない。
「ここだな。少し待っていてくれ」
 再び声をかけられてリョウマのほうを向く。いつの間にか目的の店に辿りついていたらしい。店員と二言三言話して戻ってきたリョウマの後ろに続いて店内へ足を踏み入れると奥から別の人間が姿を見せた。彼女がサクラたちの担当のようだ。人であふれる売り場から二階の個室へと案内されしばらく待つと、平たい木箱を抱えて女性が戻ってきた。彼女が蓋を開けたところで思わずサクラの口からは吐息がもれる。
「こんなに種類があるんですね……!」
「はい。ほかにもございますが、殿方に贈られるものでしたら、今お持ちしました練り香水をお勧めしております」
 所狭しと並ぶ小箱はすべて異なる香りだという。レオンが用意した香水もかなりの数だったが、容器が異なるためか新鮮な驚きを感じた。香水と違って蓋を開けてもそれほど強くは香らない。
「自由に試してもかまわないだろうか」
「もちろん。なにかございましたらそちらの鈴でお呼びください」
 あっさりと部屋を辞した女性に驚くサクラの耳元でリョウマが言う。
「二階に通される客のほとんどは香水が目的ではない」そこまで言われて納得する。耳を澄ませど隣室の声が届かない。おそらくはこちらの会話も同様だろう。
「さて。俺たちは正しく練り香水を選ぶとしよう」
「ふふっ。お願いします、リョウマ兄様」
 サイゾウとカゲロウは屋根裏だろうか。隠し扉や忍びの隠密について、好奇心だけで目を輝かせていられた幼い頃を思いだして少しだけ胸がつまった。
「落ちついた香りが多いですね」
 手近なものをいくつか試しながらリョウマに声をかける。前回試した香水は花や柑橘類の香りが多かった。
「ああ。やはり華やかな香りが似合うのは女性だろうな」
「私にも、似合いますか?」
「もちろんだ。レオン王子の香水が気に入らないのなら俺が新しいものを贈ろう」
「えっ。ち、違います……! 気に入らなかったわけではなくて……」
「だが、まだ試していないのだろう?」
 痛いところを突かれて言葉が続かない。蓋を開けて香りを楽しむことはしたが、まだ肌にはつけていない。髪を梳くのと同じように、とカミラが言っていたように、そこまで気負う必要はないと頭ではわかっている。けれどなんとなく勇気がでない。
「試して、私には似合わない香りだったら……」
「好みも個性もある。気にすることはない」
「……でも、レオンさんが選んでくださった香りなんです」
 膝の上でぎゅっと手のひらを握りこむ。呆れられただろうか。行動する前から失敗したときのことを憂えてもしかたがない。
「……優しいな。サクラは」
 やわらかな声でリョウマが言う。そのままそっと頭をなでられた。
「俺も、父上から贈られた兜を初めてつけたときはずいぶんと緊張した」
「ほ……本当ですか?」
「ああ。それほどの思い入れなら、心の準備ができてからでもいいだろう。返礼の品も、しっかりと選ばなくてはいけないな」
「……はい!」
 安堵から小さく息をついたサクラにリョウマが小箱のひとつを差しだす。練り香水自体にはほとんど色がついていない。流水を固めたような涼やかな白だ。そっと鼻を近づけると、青い葉の重なる森林に迷いこんだかのような錯覚を覚えた。
「どうだ?」
「……とてもいい香りです」
「レオン王子にも似合うだろう」
 兄のお墨付きとあらばサクラも不安はない。箱を手にしたままもう一度息を吸う。心地のいい香りだ。リョウマにはこのようにレオンが見えているのだ、と思い至ってサクラはそっと瞼をふるわせた。悲しくはないのに目の奥が熱かった。

 

 

 探していた人物を視界に捉えて心臓が跳ねた。マークスの部屋にいるはずだと先程すれ違ったエルフィに聞いたので、午前は諦めて午後にするべきだろうかと思っていた。
「……レオンさん!」
 回廊の少し先を歩いていたレオンがこちらを振り返る。今日の護衛はオーディンひとりのようだ。「ここはおまかせをー、サクラ様」と言い残してツバキがそばを離れる。オーディンを連れて、ツバキはそのまま回廊の奥へと消えてしまった。一部始終を怪訝そうな顔で見守っていたレオンだが、サクラの視線に気づいて駆け寄ってくる。
「なに」
 呼吸を整えてからレオンが言う。サクラが抱え持つ風呂敷には気づいているはずだが、レオンからの言及はない。
「お……お渡ししたいものがあって」
 結び目をほどいて木箱を取りだすと、レオンが瞳をまたたかせた。彼の反応を見る限り、あの香水は特に返礼を想定したものではなかったらしい。渡す寸前になって急に不安になる。
「香水のお返しです。……受け取っていただけますか?」
「……かまわないけど、突然どうしたの?」
 かまわないという言葉通り受けとってはもらえたが、嬉しいという表情ではない。レオンも人のことは言えないくらい唐突だったと思うのだが、暗夜には女性から男性に物を贈る習慣がないのかもしれない。
「あ、あのっ……とても嬉しかったので、その御礼にと思って……。白夜の練り香水です。レオンさんの好みにあえばいいのですけど……」
「……そう」
 手元の木箱を眺めるレオンの眼差しはやはり喜んでいるようには見えなかった。レオンは練り香水のことを知っているだけで興味があるという言い方はしていなかった。余計なことだったのかもしれない。
「……マークス兄さんにも渡した?」
 沈んだ気持ちでいたところに、予想だにしない言葉をかけられて固まった。マークスはもちろん、ほかのきょうだいの話はしていなかったように思うのだが、ともかく質問に対する答えは決まっている。
「い、いえ。レオンさんだけです。ほかのどなたにもお渡ししてません」
「そう、なんだ」
 どこか幼く聞こえる声音でレオンが呟く。胸のあたりがむずむずする。言葉にしたらきっと怒らせてしまうだろうと思う。思うのだけれどとても、かわいい。
 ふっと表情をやわらげたレオンが今度はからかうような声で言う。
「好みかどうかより似合うかどうかのほうが心配だけどね。冷血なグラビティ・マスターでもつけられるような香り?」
「もう……! い、いじわるしないでください! 優しいレオンさんらしい爽やかな香りです」
「僕らしい香り、ね。わかりました。ありがたく受けとるよ」
 なぜか途中で敬語をはさんだレオンがやっと笑った。容姿の整ったレオンが怒りや侮蔑をあらわにすると迫力があって身が竦むほどおそろしい。反面、笑顔は長い睫毛がきらきらと輝いてとても美しいのだとサクラは知った。
「使い方はわかる?」
 主語のないレオンの問いに首をかしげる。しばらくして、レオンから贈られた香水のことだろうと思い至った。香水にも正しい作法があり、身体のどの部位につけるだとか、量を間違えるとかえって下品だとか、たまたま温泉で鉢合わせたルーナが詳しく説明してくれた。そばで聞いていたカザハナは、髪に使う香油にはこだわりがあるようなのに、終始退屈そうだった。
「は、はい! 耳の後ろや手首につけるのがいいと教えていただきました。つけすぎないようにとも言われて……。ええと、それから……」
「わかった。もう大丈夫」
 冷たい声だった。わざとそういう声をだしているのだと思った。気に障るようなことをサクラが言ったのだろう。謝りたいのに覚えがない。やっと笑顔が見られたと思っていたのに、優しい気配は余韻も残さず遠ざかってしまう。
「そういうことなら、いいんだ」
 いい、だなんて少しも思っていなさそうな声でレオンが言う。役目を終えた風呂敷を握る手に力をこめても適切な言葉は浮かばなかった。