第四章 雪に紅 - 3/4

SIDE Rethe

 

 

曇天と深紅

 

 自分の天幕に戻ってからどれほどこうしていたのだろう。
 いつの間にか空は白んでいた。もう起きなければ。しかしレテは上体を起こしただけで、動きを止めてしまう。
 昨晩のアイクは、明らかにいつもの調子ではなかった。だとしたら、あの――抱擁は、子が母にすがるのと同じ意味だったのだろうか。それとも、ラグズ同士が親愛の情を込めてするのと同じ感覚だったのだろうか。
 わからない。わからないので考えていたら、朝になっていた。これだけ言うと自分がとてつもない馬鹿なのではないかと思えてくる。
 どうせ深い意味などないのだろうと、レテはようやく立ち上がり、大きく伸びをした。
 速くなった鼓動のことも、驚きのせいにして。

 

「おはよう、レテ」
「ああ、おはよう。ムワリム」
 ムワリムは朝から薪を切っていた。レテは失礼のないように、出かかったあくびを噛み殺す。
「熱心だな。疲れないか?」
「いや。これは、自分に科した鍛錬というやつだ。本当なら料理も作りたいのだが」
「すごいな。料理が出来るのか」
「ああ。掃除、洗濯、裁縫、料理……一通りのことは教わった。薪割りもそのひとつだ」
 ムワリムは遠慮がちに笑う。それが奴隷時代に培ったものだとしても、レテは感激を禁じえなかった。ムワリムの積んできた努力に敬意を表し、深く頷く。
「お前、いつでも嫁にいけるぞ」
「……お前なりの褒め言葉なのだと受け取っておこう」
 ムワリムは複雑そうな顔で斧を振り下ろした。レテは首を傾げる。キサに言ったら絶対に大喜びするはずなのに。
 斬り割られた木材が、白い雪の上に落ちる。ガリアでは発生しない方面の労働。確かに『嫁』という言葉は適当でないのかもしれない。
「そういえば妹の口癖が、『お嫁さんになりたい』だったな」
 正確には『ライくん(当時リィレはまだ民間人で、役職では呼ばなかった)の』がついていたのだが。
 レテの呟きに、ムワリムが上体だけで振り返った。
「あまり深く訊かない方がいいか?」
「うん? 別に、そんなことはないぞ。何故そう思う」
「……いつもなら、同胞の話をするとき、お前の声は弾んでいるだろう」
「そうか? 私は普段も今も同じ口調のつもりだが」
 記憶を引っくり返してみるが、やはり自分では違いが分からない。ムワリムは困ったように微笑んで、質問を変えた。 「レテにもそういう願望はあるのか?」
「そういう? ああ、嫁の話か。そうだな」
 レテは腕組みをする。いつかそんな話を上官にされたような気もする。遠い過去の話だ。レテの答えはずっと変わらない。
「昔から、そういうものには興味がなかったな。強さについての憧れの方が大きかった」
「お前らしいな」
 ムワリムは斧を置き、自分の手に息を吹きかける。デインの隣国で育ったとはいえ、やはりこの寒さは堪えるのだろうか。
「選択肢を与えられても、なお自分の道を貫く。私には羨ましい」
 レテがその言葉に何も反論しなかったのは。私もそう在りたいと願う、とムワリムが続けたからだった。
 むずがゆい気持ちで頭をかく。
「なら、ムワリムは何を貫きたい?」
「そうだな――とりあえずは、保留にしておこう」
 彼は落ち着いた声で答えて、作業に戻る。それを会話終了の合図ととって、レテは静かに立ち去った。
 

 

 半日後。クリミア解放軍はデイン王国軍との交戦を開始した。
「くそっ、何とかならんのかこの地面は!」
 レテは毒づきながら右脚で地面を踏みつけた……つもりが、足はずぶずぶと泥に沈んでいく。辺り一遍水浸し、ぬかるみは容赦なくクリミア軍の足並みを乱す。
「どこかの水門を閉じないことには、どうしようもないらしい」
 ムワリムが淡々と言った。トパックは魔法隊としてもっと前にいる。獣牙のラグズは化身が解けると無防備になるので、この状況下では前線に出してもらえなかった。
 レテはグレイル傭兵団と行動を共にして後の戦で、初めてアイクの傍を離れた。
 最初は監視が目的で、いずれ護衛が目的になり、気付けば、目的などなくともそれが当たり前になっていた。
 先駆け部隊から外されたとき、レテはそれをはっきりと自覚した。アイクの隣は、他のどこよりも戦いやすかったのだと。
「しかし、まずいな。もしこちらまで竜騎士がやって来たとき、応戦しようにも四足歩行になるのでは……化身はかえって不利になるかもしれん」
 ムワリムは前方を見つめている。今は天馬騎士団らがデイン兵を撃破してくれているが、討ちもらしがこちらに来ないとも限らない。
「さりとて徒手空拳で戦う訳にはいかんだろう」
 舌打ちするレテも、自分たちが現状お荷物であることぐらいは理解している。
 灰白の陰気な空を見上げた。あの紅の――竜騎士の少女は、今も戦っているのだろうか。
「ムワリム」
「どうした?」
「お前は、同胞に牙を向けられるか。私たち……獣牙という大きな括りではなく、共に暮らした、仲間に対し」
 レテの問いに、そうだなと、ムワリムは無意味な言葉を挟んだ後。
 坊ちゃんの為ならば、そうするだろうなと。感情のない声で一言きり、呟いた。
「モゥディには、デきない」
 レテの背後に控えていたモゥディが、力なく言う。振り返ると、ガリアの兄弟は案の定泣きそうな顔をしていた。
「モゥディは……仲間と戦うノはイやだ……」
「ああ。知っているよ。お前はとても優しいやつだから」
 だから訊かなかったんだとレテが言う前に。
「ジルもイま、トても苦しいのカ……?」
 モゥディはそう顔を覆った。レテには答えることが出来なかった。
 故郷に己の爪で斬り込んでいく痛みなど、想像で語るにはあまりに傲慢だろう。
 この遠い争いの終わりを、レテたちは棒立ちになったまま受け入れた。
 届かない、届かない、戦だった。
 

 

「深いのか?」
「かなり……」
 マーシャに問うと、歯切れの悪い返事が返ってきた。
 ジルはこの戦いで、実の父親と相対したという。アイクは切り結ぶ二人の間に割って入り、背中に重傷を負った。ジルの父は最終的に自害したそうだ。
 アイクは今、被害を免れた領主館で治療を受けている。
「ジルが途中で止めてくれたおかげで、一応、脊髄までは達していないみたいなんです。だから総出で癒せば、多分……」
 レテは黙る。憂慮したのでも絶望したのでもない。事実を確認するだけでいいと思ったからだ。
「肉親と相対するって、どんな気持ちなんでしょうね」
 マーシャがぽつりと呟いた。レテが口にしたのと同じような疑問。自分の腕で自分を抱いて、震えている。
「ベグニオンで、私の兄も、ラグズの密猟者に雇われていたじゃないですか。何も知らないとはいえ、兄さんが私たちに剣を向けてきたとき……ぞっとしました。あのときはただ、借金のカタに使われてただけだったからよかったけど……。身内を含めて、母国の全員が敵に回るなんてこと」
 蒼褪めた口唇は、最後まで言い切ることはなかった。代わりに別の疑問が紡がれる。
「あの子、何であんなに強くなれるの? 何度も隣で戦ったけど、わからない。どうして……」
 レテは答えるべき言葉を持たなかった。だから立ち去った。
 その答えを持つ者を、訪ねるために。
 滑りやすい坂を上る。一番高いところに、外套を肩に羽織ったジルが座っている。その蒼天のような布から、アイクの香りが漂っていた。
「レテ……」
 こちらから声をかける前に、ジルは気付いて振り向く。
 どんな前口上も空回りにしかなるまい。レテは直接斬り込んだ。
「そこに眠っているのは、お前の父親だそうだな。……どうして、そこまでしてこちら側に残る決意をしたんだ?」
 ジルは無言で、ダルレカの空を眺めた。レテもつられて空を見る。誰も、何も飛んでいない曇天。重い色の雲は、その奥に青空があることも忘れさせてしまいそうだ。
「『己が信ずるがままに進め』」
「え?」
「――レテ。運命というのは、不思議なものだな。もし、この軍を……アイク殿や傭兵団……そして何より、レテたちラグズを知らなければ、私は今もきっとデイン軍にいた。デイン王国軍人としての誇りに燃え、アシュナードのために喜んで命を捧げたことだろう。お前たちを倒すことを躊躇いはしなかったろう。ことによっては、こんな非人道的な作戦さえ、容認してしまったかもしれない」
 ジルは自分の両手を見下ろした。手袋を外され、ただ肌の色にしか見えないその手の平は、彼女には何色に見えているのだろう。
「でも、知ってしまった。手柄を得るため、トハから船を追ったときとは違う。私は初めて、自分で考え行動した。私にとって、より正しいと思える道を選ぶために。それが……実の父と相対するものだったとしても」
 レテに見えるのは、紅。こちらに向けられた、深い深い紅の瞳。
 炎より熱く、花より鮮やかで、石より硬い気高い色。
「もう、知らなかった頃には戻れない。だから、私はここにいる」
 レテは自分の、紫の目を細めた。ジルとアイクのを混ぜたような色の瞳を。
 マーシャ、そう難しく考えることはない。ジルはお前と同じ人の子だ。ただ、立場がお前とは少し違っただけ。
「ジル。私の手を取ってくれるか?」
 レテが右手を差し出すと、ジルはきょとんとした顔をした。
 無理もないだろう。ジルのラグズ嫌いと同じくらい、ベオク嫌いだったレテなのだから。
「友愛の気持ちを示すとき、互いの手を取り合うのがベオクの慣わしだと聞いた。私は、お前の強さ……お前の生き方に共感する」
「あ……うん」
 ジルも右手を恐る恐る出した。握ってくれたことを確認してから、引っ張り上げるようにジルを立たせる。彼女はレテより少しばかり背が高いのだと、今更気付く。
「アイクもここに来たのか?」
 きっと不器用な言葉を置いていったのだろう。ジルは複雑そうに視線を落とした。
「自分を、親の仇だと思って憎んでいいって。私にはその権利があるって」
 レテは否定も肯定もしない。アイクの愚を謗ることもしなかった。
 全ての答えはジルの胸にある。
「私、そんな権利いらないのに。私が父を手にかけようとするのを、自分の身体まで差し出して止めてくれたのに、どうして私があの人を憎める? 憎めと言うなら、何で『このまま仲間でいてくれればいい』なんて言える? わからない。どうしてあの人、あんなに優しくなれるんだろう」
 ジルは肩にかけた外套を握り締め、わからないよ、と泣いた。
 レテは、ああ私もわからない、と言ってジルを抱きしめた。
「お前も、アイクに負けないくらい優しいよ」
 私たちを選んでくれてありがとう。呟くと、ジルは慟哭しながらレテにすがりついてきた。
 レテは彼女の気が済むまで、そうしてジルの背を撫でてやっていた。