第五章 祖国へ - 1/3

SIDE:Ike

 

神殿

 

 ナーシルという男について、アイクは深く知っているわけではない。
 ベオクに紛れて生きるラグズ。旅人。ガリアと繋がりのある船長。一時は全員の命を任せたこともある相手。
 彼は敗戦の将・イナを逃がした。セネリオは、彼こそが密通者だと断言した。
 アイクは彼の身柄を拘束した。逃亡幇助、機密漏洩、窃盗。どの罪状も、自分で告げながら実感がなかった。
 ベオクとラグズの共存できる道を探す。
 彼がいつか言っていたことは、こんな意味だったのだろうか?
 解らぬままのアイクを置いて、事態は刻々と進んでいく。
 

 

「……ああ、レテ」
 呼びに行こうと思っていた相手を見つけて、アイクは大声で呼ばわったつもりだった。
 結局あまり声量は出なかったのに、鋭敏な聴覚でその声を捉えて、彼女はこちらにやってくる。
「どうした、アイク? 大丈夫か」
「ああ、平気だ。少し身内だけで調べたいことがあって……あんたにも、同行してほしいと思った」
「それは構わないが」
 大丈夫なのか、とレテは繰り返した。ああ平気だ、とアイクも馬鹿みたいに繰り返した。
「ベグニオンの援軍が来たこと、知ってるか?」
「ああ。先程上から見ていた」
「そうか。その援軍のことなんだがな」
 アイクもティアマトもエリンシアも、その援軍を喜んだ。
 しかし、参謀たるセネリオは喜ばなかった。
 もし彼らにデイン王を討たれたら、手柄はベグニオンのものとなり、クリミアはエリンシアをお飾りに置いた完全なる属国になるだろうと。名もない傭兵団の功績などもみ消され、はした金で追い払われるのがオチだろうと。
「それは、少し穿った考え方をしすぎではないのか?」
「俺もそう思った。そしたら、そういう甘い態度だから、内部に裏切り者を作り出す……と、怒鳴られた」
 アイクは肩をすくめたつもりが、これも上手くいかなかった。
 初めてだった。あんなに激昂したセネリオを見るのは。我々は戦争をしているのですよ、とセネリオは両手で勢いよく机を叩いた。拳を強く握り締め、どんな小さな不安要素も潰しておかないと、自らの命を以ってその甘さを思い知ることになりかねないと、震えていた。
「結局俺たちは目先のことばかりで、クリミア再興を一番現実的に考えてくれているのはセネリオなのかもしれない。いや、俺たちの頭がおめでたすぎるせいで、汚い部分はセネリオに押し付けてしまっているんじゃないかと思ったら、いたたまれなくなった」
 アイクは空を仰ぐ。もうそろそろ蒼い空が顔を出し始めている。
「だとしたら、私の頭も相当おめでたいんだろう」
 レテがぽつりと呟いた。アイクは視線をレテに転ずる。
 表情こそいつものものだったが、耳の角度が雄弁に彼女の心を表していた。
「ガリアは友軍であり、支援に徹しろと言われていたのに、いつの間にか最前線で戦うのが当然になっていた。私が将を倒してしまったこともある。これからは――」
「――これからも」
 アイクはその先を聞きたくなかった。だから、遮った。
 かつて自分に希望を灯した夜明け色の瞳を、見つめた。
「あんたは傍にいてくれ。国とか、軍とかは関係ない。俺のわがままだ」
 わがままなら通す道理はないと、一蹴されるかと思った。しかしレテはすんなりと、頷いてくれた。
「私もお前の隣が一番戦いやすい。これは私の、わがままだ」
 同じように返されると、朴念仁と呼ばれるアイクでも流石に照れくさい。余所を向いて鼻の頭をかく。
「では、改めて」
 レテが右手を差し出してくる。彼女の方から握手を求めてきたことに驚いた。
 否、そんなことより、目の前の手を放っておけはしない。
「ああ、よろしく頼む」
 二人は握手を交わした。あたたかくて、少しだけ苦かった。
「で、さしあたって何処へ行く?」
「ナーシルが、調べてみろと言った場所だ。少人数で目立たないように向かう」
「分かった。付き合おう」
 その日の内、アイクたちはパルメニー神殿を訪れた。
 さすが神殿と銘打つだけあって、教会と違って大きい。礼拝堂一室という訳ではなさそうだ。
「俺たちは正面から入る。何事もないのが一番だが……レテたちは念の為、裏口を押さえてくれ」
「分かった」
 レテ・モゥディ・ムワリムの三名が鳥翼族を連れて離脱する。
 しばし門前に立ち尽くし、アイクは一度目を閉じると、決然と瞼を上げた。
「行くぞ」
 神殿でアイクを出迎えたのは、ここに所属しているという神官であった。所用でここを調べたいのだと頼むと、過剰に萎縮しながら承諾してくれた。
 そしてアイクたちが中に入った途端、扉に閂がかけられる。神官は両手を組んで震えていた。
「神よ……どうか、お許しを……」
「――こんなことだろうとは、思ったがな」
 呟きながら、背後にいるシノンを一瞬見遣る。神殿というのは、崩れた傭兵の根城になりやすい場所だと、シノンが(ヨファ越しに)教えてくれたのだ。
 祭壇の前には、明らかに神職ではない男が仁王立ちになっていた。
「何を嗅ぎつけてきたのかは知らんが、そんな少数で来たのが運の尽きというやつだ。女子供ばかりだからと容赦はしねぇ」
「安心しろ。俺たちは、貴様ごときに遅れはとらんし暇もしていない」
 アイクは両手を軽く開いたまま一歩踏み出す。
「痛い目を見る前に貴様らがこの神殿を出て行くのなら、止めはせんがな」
 レテたちにも、明らかに戦意を喪失した者には手を出すなと言ってある。だが、そうでない者には。
「言うじゃねぇか。なら、こういうのはどうだ?」
 男は手近にいた神官の首を掴み、自分の前に引き寄せた。同じように僧を盾にした男たちが、下卑た笑い顔で幾人も現れる。
「攻撃出来るもんならしてみな。その度に罪もない坊主たちが死んでいくがな!」
「……ざけるな」
 アイクは剣の柄に手をかける。鯉口を切る。軽い金属音が響く。
 戦意のない者には手を出すな。父も自分も繰り返し言ってきたことだ。だが、そうでない者には。
「情けなど、かけない」
 アイクの呟きに答えるように、賊の身体に変化が起こる。風が首筋を裂き、炎が髪を燃やし、雷が心臓を走り抜ける。額が貫かれ、眼孔が穿たれる。
 自由を取り戻した五名の僧たちが、恐慌状態でこちらに駆けてくる。
 魔道師と弓兵。この状況を想定し、相手の下策を看破したセネリオの敷いた布陣。間違っていなかった。何一つ。だから迷わずに疾っていける。
 たとえこの聖道を、血染めにしようとも。
 アイクは男たちが動揺から立ち直る間も与えず、走りながら剣を抜き放った。神殿の天井は刃渡りを気にするまでもないほど高い。
 跳躍。目指すは祭壇前の首領。賊の肩に片足で軽やかに着地すると、逆の足でアイクは思い切り僧の背中を蹴り飛ばした。そのまま身体を反転させ、刃を旋回させる。さすが大口を叩くだけあって首領の回避能力は高く、即死には至らなかった。しかし傷口からは、おびただしい量の血が溢れ出している。
「てめェ……ッ、何も感じねぇっていうのか!」
「感じているし、信じている。だから俺は、貴様を倒すことに専念出来る」
 アイクは振り返らずに、親指で背後を示した。
 グレイル傭兵団が誇る名軍師の選んだ、クリミア解放軍の遠距離系精鋭兵。彼らの実力をもってすれば、人質を傷つけずに敵を無力化することなど容易い。
 アイクは最早何も語ることなく踏み込んだ。刃が肉に食い込んだ。引き抜いた。それだけ。男の死を確認すると、剣を一振りし血を飛ばしてから鞘に収めた。
 アイクが蹴り飛ばした神官が、背中をさすりながら立ち上がる。
「あ、あの、ありがとうございま……」
「――礼はいい」
 アイクは皓々と光の差し込む天井を仰いだ。
「それより言伝を頼む。あんたたちの信じる女神に、神殿を穢してすまなかった、と」
 戦いは戦いと呼べるほどもなく、終わった。
 

 

 裏口から外に出ると、レテが立っていた。
 彼女の姿を認めた途端、アイクの膝は機能を忘れ、かくりと折れ曲がる。
「アイク!」
 抱き留められてしまった。自分はこの少女の前で、一体どれだけの醜態をさらせば気が済むのだろう。
 導かれるままに座り込んだ。レテが隣に腰を下ろしてくれる。それだけで、この混乱し果てた思考の中に涼やかな水が走り抜けていくのを感じる。
 神殿内で新しく判明した事実は、確かにアイクにとって重大なことだったはずだ。だが点を線で結ぶ度、確信は強固に。心は鬱血し。生きている実感が湧かなくなる。
 自分はクリミアの未来を担う総指揮官なのだと、流石のアイクも承知していることが悲劇だった。
 実感などなくとも、また次の戦場に赴かねばならない。事情や真実など斟酌される余地もない。自分は誰より声を張り上げて、先頭で剣を振るわなければならない。自信たっぷりに胸を張り、堂々と。
「肩、借りてもいいか」
「ああ。お前には少し狭いかもしれんがな」
 レテの肩はとてもあたたかかった。
 どうしてこの少女の前にいると脆さをさらけ出してしまうのだろう。締め付けられた心臓が少しだけ緩むような気が、してしまうのだろう。
「俺は、あんたに弱っているところばかり見せている気がするな」
「そうか? 団長殿の勇姿を一番近くで見ているのも、また私だと思うがな」
 レテは笑って腕を回し、アイクの身体を支えてくれた。
「私の親友が言っていたよ。弱さを隠さずに済む相手を持つことは、闇雲な力を求めるよりも得がたい強さだと。私がお前にとってそういう存在であれるなら、それはとても光栄なことだ」
「……あんたは?」
 アイクは顔を動かして、レテの目を見た。
 幾度となくアイクを導き、夜明けまで連れてきた朝の色。
「あんたにも、いるのか。この軍で、弱さを見せられる相手は」
「――さぁな」
 レテは曖昧に笑った。やはりまだベオクに心は許せないということだろうか。モゥディは部下であるし、あるいは、ムワリムなら?
 アイクの心中の疑問に答えることなく、レテはゆっくりと目を閉じる。
「鍛錬をする相手なら。アイク、お前だけだな」
 アイクは黙って下を向いた。この感情を、どう表現したらいいのか分からなかったからだ。
 分からないながら、その言葉のぬくもりを胸の奥で何度も確かめた。
「ああ、いい風だ。もう春だな」
 レテの呟く声が心地よかった。
 

 

 連日の寝不足は、セネリオにばっちり見抜かれていた。
 しかし彼は大きく動揺する訳でもなく、過剰な心配をするでもなく、眠れないときの対処法を教えてくれた。
 そのうちの一つが、寝る前の激しい運動は控えること。身体が興奮して眠る妨げになるのだそうだ。
 アイクが、せめて素振りぐらいしないと逆に寝られない、とぼやくと、ええそう言うと思っていましたと呆れたように言われた。素振り止まりですよ、と念を押され、今まさにその素振りの最中である。
 だが、気配を感じ、剣先を下げる。レテか、と問おうとして、全くの別人だったのでその台詞をすんでのところで飲み込んだ。
「アイク様、少々よろしいですか?」
 現れたのはエリンシアだ。二人の少女は見目こそ大きく異なるものの、ときどき纏う空気が重なる。
 ただこの感覚に同調してくれたのは、フォルカとモゥディ二人だけだったが。
「どうかしたのか?」
 アイクは剣を納める。エリンシアは小さく駆けてきて、アイクとの間に一人分の余白を残してすっと止まった。
「兵たちが、明日の朝にはオルリベス大橋が見えると教えてくれました。橋を渡れば……そこは、もうクリミアだと」
 近いようでいて、まだ遠い祖国の方を見やりながら、エリンシアは呟いた。生まれ持った白い頬は、明かりに照らされているせいか少し赤らんで見える。
 アイクもエリンシアと同じ方に目を向ける。
「クリミアがすぐそこってとこまで戻ってきた実感は、正直ないな。それより、クリミア、ガリア、ベグニオン、デイン……大陸の上で、国と国がこんな風につながっているんだってことに結構、驚いているところだ」
「私も……!」
 エリンシアは勢い込んで話そうとして、言葉が喉に詰まってしまったらしい。咳き込みそうになっている彼女の背を、アイクは手を伸ばして撫でてやった。意図せず抱き寄せるようなかたちになってしまったが、エリンシアは、すみませんと言っただけで気にしている様子はない。
「離宮での生活しか知らない私にとっては、全てが、その……そう」
 探しあぐねていた言葉を見つけると、彼女は透き通った琥珀のような瞳で、アイクを見上げた。
「全て大きい」
「そうだな」
 アイクは頷きながら、エリンシアの背にあった手を外した。
 クリミアを離れた時が春だった。それが雪も解け出し、日を追うごとに気候もよくなってきている。
 エリンシアは何かを求めるように、示すように、クリミアに続く虚空に右手を伸ばす。
「たったの一年だというのに、ここまでの道のりは遠く、険しくて……もう何年もの時が経ったような気がします。私の生まれ育った国、いとおしい祖国クリミア。こんなにも、遠く感じるなんて……」
 アイクは左手を持ち上げて、エリンシアの手に重ねる。
「絶対に帰ろう。俺にとっても、クリミアこそが故郷だ」
「はい、アイク様。必ず」
 微笑むエリンシアの顔には、出逢った頃のような弱さも不安もない。それがアイクたちによって拭われたのであれば、とても光栄なことだった。
「……なんだ。いい雰囲気じゃないか。声かけにくいぜ」
 ぼやくような、からかうような口調が脇から割り込む。
 アイクは手を下ろし振り向いた。よぉ、と気安く片手を挙げる仕種は、間違いなく。
「ライ!」
「ライ様! お久しぶりです」
 エリンシアは両手を合わせて喜んだ。ライはくすぐったそうに一瞬笑ってから、大仰に礼をした。
「エリンシア姫、よくぞ戻られました!」
「皆様のお力添えあってこそ、ですわ」
 エリンシアは律儀に、ドレスの裾を少し持ち上げて礼を返す。
 ライが身体を起こしたのに合わせて、アイクは問うた。
「ついにガリア参戦か?」
「応とも。話が早くなってきたね、将軍」
 ライが肩をすくめる。将軍はやめろという抗議を無視して、彼は大袈裟に両手を広げる。
「クリミア軍の活躍を知って、お偉方の意見がやっと一致した。ガリアは、クリミア王女の王都奪還を全面的に支援する。これは決定事項だ!」
「ほ、本当ですか!?」
 今度は光の具合ではなくはっきりと、エリンシアの頬に朱が差した。
 ただし、と言い置いて、ライは内緒話でもするように人差し指を自分の口唇に当てる。
「ガリア軍は支援に徹します。核となって動くのは、あくまでも貴女を旗印にしたクリミア軍でなければなりません」
「……気を遣ってくださったのですね。手柄がクリミアのものとなるように」
 エリンシアが首を傾けて苦笑した。ライは目を丸くしている。世間知らずだったエリンシアが、言わずとも察したことに驚いているようだった。
 アイクは口元を押さえて斜め下を向く。それに気づいたエリンシアが、もう、と拗ねた声を出す。
「アイク様! どうせセネリオ様の受け売りです、だからってそんな風に笑わなくったって」
「成程。あの神経質そうな参謀が」
 ライもにやついて一緒に怒られた。
 それから、柄にもなく咳払いをして、エリンシアは穏やかな調子に戻る。
「カイネギス様は、いつもクリミアのことを考えてくださっているのですね。どうしたら、そのご恩に報いられるのでしょう?」
 ライも姿勢を正し、ガリアの軍人として誠実な笑みを浮かべた。
「国を取り戻しましょう。そして、ガリアと改めて友好を築いて下さい。それが我が王の恩に対する、最高の礼となるでしょう」
「はい!」
 エリンシアは快活に頷いた。
 

 

「ナーシルがデインの間者ぁ!?」
 ライの素っ頓狂な声が、朝のクリミア軍に響き渡った。オルリべス大橋を目前にした行軍中のことだ。
「いやいや、まさか! ないってそれは!! だってあいつは」
 ライは何かを言いかけて、途中で不自然に台詞を切った。しかし、それを聞き流すアイクとセネリオではない。
「だってあいつは?」
「何だというんです?」
 二人に同時に睨まれて、ライはぐうと呻いた。やがて観念したようにため息をつき、力なく頭を振った。
「……あいつは、ガリアの用意した伝言役だ。王のたっての頼みでそうなった」
「いけませんね、師団長。そんなに簡単に口を割るなんて」
 セネリオは腕組みをして、斜にライを見上げた。
「そのうえ送り込んだ虫にも二枚舌を使われるなど、人選にも問題があります」
「だってラグズのあいつが、デインにつく理由がないだろう?」
「よく分かりました。あなたの首の上についているものは、やはり飾りなのですね」
「……セネリオ。それは言いすぎだ」
 セネリオを軽くたしなめ、アイクはライに視線をやる。
「デインには、イナという竜鱗族の将がいたぞ」
「マジか? 初耳なんだが」
「戦ってイレースが倒した。でも捕まえようとしたところをナーシルに邪魔されて、あいつが裏切り者だということになった」
「えー……ちょっと待ってくれよ」
 ライは頭を抱えて、もしかしたらアレか、だとしたら仕方ないのかな、いや、でも、と何やらブツブツ呟いている。
 アイクはライの背中を強く叩いた。
「お悩みのところ悪いが、もう橋に着くぞ」
「ああ、うん、そうだな。ナーシルの件はクリミアに戻ってからで――」
 ライはぱっと顔を上げ、またも言いかけた何かを途中でやめた。
「総員止まれ!!」
 鋭い声に、全軍が反射のように行進を止める。セネリオがライに食ってかかる。
「指揮官はアイクです! あなたに命令する権利など……!!」
「ああくそっ、ベオクには聞こえないのかこの音はッ!!」
 いきなりの号令で全軍の足を止めさせたライは、彼らしからぬ余裕のなさで頭をかきむしった。
 わけが分からずにいると、化身したレテが走り寄ってきて、アイクのそばで人型に戻る。
「デイン兵の足音の響き方が妙だ。何というか、やけに」
「――軽い」
 我に返ったらしいライが、目を眇めて橋を見つめる。
「あの橋の規模から察するに、デイン兵の移動にはもっと鈍く重い音がするはずなんだ。均一な造りなら一定の規則をもって響く。こんなに音の高低にバラつきがあるのは明らかに異常だ」
 アイクは上空を見上げた。目が合うと、ジルとマーシャは頷いて高度を上げる。
「敵影確認。直進すれば済むような場所を、敢えて迂回しています」
「土嚢も積んでますね。わざと通路を狭くして、狙ったルートに誘い込むようにしてる感じです」
 二人の報告を険しい顔で聞いていたセネリオが、ぽつりと呟いた。
「落とし穴……」
「落とし穴?」
 アイクは優秀なる参謀の導き出した推論に、我が耳を疑った。
「子供のいたずらじゃないんだから」
「――例えばアイク、貴方が」
 セネリオは地面を睨みながら、自分の右手を顎に当てた。
「目の前の敵に、とどめを刺そうとしたとします。そのとき踏み込んだ足が窪みにはまったら?」
 アイクは思わず息を呑んだ。
 バランスを崩した自分は、間違いなくとどめを刺される側に回る。
「例えば、落ちた先が針の山だったら? もっと単純に、この高度から渓流に一直線の経路だったら? これは、子供のいたずらと呼べますか?」
「いや。それはもう殺意を持った――策だ」
 アイクはもう一度、空を仰ぐ。
「マーシャ! ジル! あんたたちは上から俺たちを誘導してくれ」
「はい!」
「了解!」
「天馬騎士団は、場合に応じて援護を頼む」
 視線を本来の高さに戻す。隣にいるべき彼女に向けて告げる。
「レテ。あんたの耳が頼りだ。先陣を切――」
「ちょちょちょ、ちょっと待って!?」
 指示を遮ったのはやはりライだった。気勢を削がれたアイクは頭をかく。
「何だ、さっきから」
「いや何だっていうかさ、何で今オレごく自然にスルーされたの?」
「だってレテはまだ俺たちが借りていることになっているが、お前はガリアの軍属だろ」
「あー、そゆこと」
 ライは、アイクの見知った気安い顔で肩をすくめた。
「お気遣いどうも。でも多少の手違いはあったが、オレは元々こっちで手伝う予定だった。迷惑じゃなければ任務を完遂させてくれないか、団長殿?」
「そうか。なら、改めてよろしく頼む」
「痛み入る」
 ライは小さく笑ってすぐ、真顔になる。
「参謀殿。あんたから見て、アイクの判断は上策か?」
「……保留です」
 セネリオは露骨に眉をひそめていた。
「あなたは、こっちに来るときこの橋を渡ったはずでは? その際デイン軍の動きに何も気付かなかったんですか」
「生憎、オレが渡ってきたのは向こうの――地図を頼む。そう、この辺りの吊橋だ。民間人が勝手に作った橋らしくて、幅は人が二人並んで歩くのも難しそうだった。身を縮めてすれ違えるかどうかってとこだな。あくまで昨日の昼頃までの話だが、デイン軍もノーマークだった」
「強度は?」
「化身してないオレでギリギリだ。重装歩兵なんかは無理だろうな」
「風は」
「下から吹き上げる風は結構キツかった。横風は……今日の気候ならそれほど強くないだろう。渡る気か?」
 まっすぐなライの視線にセネリオは答えず、ただアイクを向いた。
「ボーレ、ワユ、キルロイ、シノン、それと鳥翼族三名を貸してください」
「セネリオ。お前、何をする気なんだ?」
 アイクが困惑して問うと、セネリオの視線は後続部隊に移る。
「王女を別ルートで離脱させます。アイクに異存さえなければ、そちらの指揮は僕が採りますから」
「そんなこと!」
 許せる訳がない、と言おうとしていたアイクの二の腕を、ライが引いた。
 アイクの顔を見ることもなく、淡々と言う。
「オレの脚で半日あまりだ。ベオクの脚でその橋を渡り、大橋の方まで戻ってくるなら夜になる。暗闇じゃ鳥翼の目なんぞアテにならないぞ」
「そんなことはあなたに言われなくとも解っています」
 ぴしゃりと言い放ち、セネリオはじっとアイクを見た。僕を信頼しているのなら、頷いてくださいと、その目が言う。
 アイクは首を振らずにきっぱり言い切った。
「無事に戻れ。セネリオ」
「……はい。ありがとうございます」
 珍しく、かすかに笑みを浮かべてセネリオは礼をした。
 別働隊が去っていくのを見送って、アイクは余分なものを出し切るように長く息を吐く。新鮮な空気を肺に送り込み、顔を上げる。
「ライ。レテ。かなり手荒な歓迎にはなるだろうが、今からクリミアへ招待する。いいか?」
「上等!」
「望むところだ」
 そしてクリミア解放軍本隊は、オルリベス大橋の攻略を開始した。