第四章 雪に紅 - 2/4

SIDE Rethe

 

 

冷えた熱

 

 クリミア解放軍は、ついに国境線を離れ、本格的な進軍を開始した。
 狙うは王都ネヴァサ。この人数での襲撃は無謀であったが、叶わない夢ではない。どちらにせよ、デイン王アシュナードを倒さずにはこの戦は終わらない。
 今し方潰した拠点を見渡しながら、レテは眉をひそめた。
 散華のように鮮やかな赤い雪が見える。地面で流す血よりも遥かに禍々しく、そして忌々しいほどに美しかった。
「レテ様」
 振り返る。エリンシアが心細そうに立っていた。
「あの、近頃あまりお話できませんでしたから。少し、よろしいでしょうか?」
 レテは小さく頷いた。右手を上げ、羽織った外套の一辺でエリンシアを包む。
「ここはまずい。いつ敗残兵に襲撃されるか分からない。護衛のベグニオン兵のいるところに移りましょう」
 はい、と素直にエリンシアは答えた。というより、彼女が素直でなかったことなど一度もなかったのだが。 
「何か御用が?」
 レテは歩き出しながら尋ねた。エリンシアは、いいえと首を振る。
「ガリアからずっと私を助けてくださっている、レテ様方にお礼を申し上げたいと思うのは、私の余計な希望でしょうか」
「いいえ」
 今度はレテの方が首を振った。
「労いのお言葉、感謝します」
 エリンシアは曖昧に笑った後、下を向いた。雪景色に不似合いなオレンジの服の、裾をしきりに気にしている。
「……私、最初はただ、クリミアを救いたい、死にたくないと、そればかりでした」
 俯いたまま呟く王女の足取りに、危なげはない。
 レテは出逢った頃のエリンシアを思い出す。何かにつけて謝罪して、泣いていた頃の王女。否、王女であるという自覚もほとんどなかった、少女。
「カイネギス様に具体的な方法を教えていただいて、そこからはもうベグニオンに行くことしか頭になくて、でも着いた先でも実際に動いてくださったのはアイク様方で――それなのに、私は自国の将とベグニオンの勇士を貸し与えていただきました」
 エリンシアの横顔は真剣で、レテは相槌も打たずに聞き入った。
 豊かな緑の髪が風に流れる。冬の厳しさでも奪い去れない瑞々しさが広がる。
「はっきり言って、自信がないのです。本当に自分がここにいていいのか。自分のやっていることが、本当の望みなのかどうか。デイン王国を蹂躙して王都を降すなら、それはアシュナードがクリミアにしたことと同じではないかと……」
「貴女は断じてアシュナードなどではない」
 レテは断言した。しんと静まり返ったこの血生臭い雪の中で。
「貴女が一度でも略奪をしたか? 誰かの両親を目の前で惨殺したか? 我らラグズを屈服させようとしたか? 全て否だ。 誰かを救うためにこそ、貴女は両の脚で立ち上がったのではなかったのですか?」
 レテが肩を抱く手に力を込めると、エリンシアは、そうですねと言って、痛々しく微笑んだ。
「レテ様。私は自分に都合のよい答えが聞きたいがために、皆様とお話しているのかもしれません。けれどどんなに言い繕っても私は――皆様に、人を殺せと命令している侵略者なんです」
「違う!」
 ついにレテは声を荒げる。自責をやめようとしないエリンシアを許せないのは、己の正しさを信じていたい為なのだと全く自覚しながら。
「違いません」
 エリンシアは顔を上げて、違いませんと繰り返し、レテの瞳をじっと見た。泣き言をこぼす王女には、甚だ不釣合いな強い瞳だった。
「それを忘れてはいけない。何度も考えました。迷いました。その上でなお、私はクリミアを救いたいと願います。傲慢にも。非力にも。貴女はそれでも、私を助けてくれますか?」
 なんだ回りくどい、結局こういうことではないか――レテは苦笑して、ラグズ式の敬礼で返す。
「我が忠誠は我らが王に。我が力は今しばらく、貴女に」
「ありがとうございます」
 本当はただレテ様とお話したかっただけなのですよ、とエリンシアは最後に笑って打ち明けた。
 

 

「ムワリム? 何してるんだ」
 エリンシアを天幕まで送ってきた帰りのこと。
 しゃがみ込んで何かをしているムワリムの顔を、レテは覗き込んだ。レテが来たのには気付いていたのだろうが、こんなに接近されるとは思わなかったのか、ムワリムは目を背けた。
「その、雪を集めている。溶かして水として使うのだそうだ。近くの水源はまだデインの支配下にあるからな」
「そうか。では、手伝う」
 レテも隣で膝を曲げた。ムワリムが止める気配を無視し、両手で雪をすくう。いくらにもならない。
「せめてこれを使え」
 目の前に出てきたのは、ムワリムの手の平ほどもある三角形に、棒がついた物だった。
「これは?」
「スコップという」
 使い方は、ムワリムが実演してくれた。改めて差し出された物体、スコップを受け取り、レテもムワリムを真似てすくってみる。なるほど、便利だ。
 納得しているレテがおかしいのか、ムワリムは少しだけ口許を緩めた。
「今日はトパックと一緒じゃないんだな?」
 問う。レテのスコップより、ムワリムの両手の方が効率はよさそうだった。
「ああ。坊ちゃんにとっても、この軍の面子は気になる者が多いようだからな。彼らと交流したがっていらっしゃる。しばらく、ベオクと接する機会もなかったから……ここでの経験が、坊ちゃんがいつかベオク社会に戻られる足がかりになれば、と思っている」
「戻る、って。お前は、一体どうするつもりだ?」
 レテが険のある声で尋ねると、ムワリムは呆れたように首を振った。
「いつまでも私がお傍にいる訳にもいくまい。ベオクはベオクの群れの中で生きるが幸せというものだ」
 レテは少し黙った後、忌憚ない意見を述べた。
「正直に言うと、お前をひっぱたきたい。トパックの意思の是非も問いたい。だがそこまで口を出すほど、私はお前のこともトパックのことも知らない。だから殴るのは保留にしておく」
「恩情を賜り、ありがたいな」
 ムワリムは少し笑った。いつから雪集めをしているのか、両手は真っ赤だ。
「今日、初めてモゥディと話した」
「どうだった?」
「あんなに無垢なラグズがいるのかと、驚いた」
「それは、私も少なからず思っている」
 レテは肩をすくめる。ムワリムは作業を止めぬまま、曇天を仰いだ。
「あんな気性のまま育つことが出来るなんて、ガリアは鷹揚な国柄なのだな」
「鷹揚――まぁ、そうかもしれないな。だが、モゥディは特例とも言える。全体的に見れば、我らの兄弟は血の気が多い」
 土のところまで堀り進まないように留意しながら、レテは答える。根深なようなので杞憂かもしれない。ムワリムが視線をレテに移す。
「兄弟?」
「ガリアでは獣牙の同胞を、親しみを込めてそう呼ぶ。そうだな、ムワリムも私と兄弟のようなものだ」
 ムワリムは何故か急に立ち上がった。
「もう、充分な量だろう。協力感謝する。また今度話そう」
「……ムワリム? 怒ったのか」
 手を突き出されたので、レテは渋々スコップを返した。いや、と言いながらムワリムは、無愛想に甕を担いでいってしまった。
 私の自惚れでなければ、もしかして照れているのだろうか、と思いながらレテは、左右に揺れる緑の尾を見ていた。

 

「アイクは来ていないのか?」
 夕刻、レテは配膳をしていたミストに尋ねた。
 いつもなら真っ先にやってくるアイクが、今日に限って見当たらないのだ。
「うん、なんか忙しくて手が離せないんだって。ご飯はセネリオが持っていったよ。将軍って大変だよね」
 深く聞くことは出来ぬまま、レテは列を追い出された。盆を持って、ぽつねんと立ち尽くす。
 ミストはさして気にしていないようだったが、食事や挨拶について生真面目なこだわりを持っている――例えば食事はみんなで食べる、というような――彼が、自らその場に出るのを拒んだということが、レテには引っかかった。
 ムワリムたちと食べようと思っていたのだが……。レテは盆を握り締め、きびすを返した。
「アイク。私だ。入るぞ」
 天幕に向けて呼びかけても返事はなかった。再度声をかけてから、レテは入り口を押し開く。
 アイクは中で食事をとっていた。
 普段のアイクは、涼しい顔をして豪快に、見ていて気持ちいいほど爽快に食べる。今レテの目の前にいるアイクは違う。一口一口、押し込むように口に運んでいる。まるで食事という重責を果たそうとしているかのように。
「……アイク!」
 強く名を呼ぶと、ようやくアイクは顔を上げた。
 レテの心を幾度もざわめかせた蒼の瞳は、暗い色に染まっている。
「レテか……」
 その声はレテを歓迎してもいなかったし、拒絶してもいなかった。
 無関心。レテは何故だか頭に血が上って、アイクの隣にどかりと腰を下ろした。ようやくアイクが生気のある反応をする。
「おい?」
 少し目を丸くした表情。歳相応に幼い顔。そうだ、それが見たかった。
 レテは一口目にかぶりついた。
「食事は皆でとるものなのだろう? ならば私がここで食べたところで、何の問題もあるまい」
「まぁ――そうか」
 アイクは呟いて、大儀そうに匙を動かした。レテはアイクの盆を覗き込む。
「食欲がないのか?」
「腹は減ってる。味が分からん」
 だからといって苦にしている風でもなかった。
 レテは、本当に味がしないのかどうかスープの味をみた。アイクが自信なさげに問いかけてくる。
「味、するか?」
「する。塩胡椒と野菜の味だ」
 もう一口、と思って匙にスープをすくう。横からアイクが手を掴み、レテの匙からすっとスープを吸い上げる。
 レテはアイクの口唇の動きに見入った。
「少し甘い」
 彼は呟いて口許を片手の親指で拭う。ただそれだけの動作が、今夜は何故だか艶めかしく見えた。
 艶めかしい? レテは自分の感想を、頭の中でかき消そうとする。この粗野な男から何でそんなものを感じなければいけないのか。アイクだぞ。だって、アイク。
 別の自分が囁く。
 ――アイク。それの、何がおかしい?
「……私のを、食べるか?」
 変に上擦った声で提案する。アイクは首を横に振った。
「いや。あと少しだから、流し込む」
 アイクは皿を両手で持って口許まで持ち上げた。そのままぐいと飲み干す。いつものアイクの食べ方だ。
 レテは安堵すると同時に、心配になった。下手に天幕まで押しかけたせいで、アイクは『いつもの自分』を演じざるをえなくなったのではないかと。意識的にしろ、無意識にしろ。
「そういえば、レテ、上手くなったな。匙を使うの」
 アイクは夕飯のトレーを脇に除けた。そうだな、とレテはまたスープを飲む。モゥディがやろうとしていたので、負けたくなくて必死に練習したのだ。今ではナイフはもとより、スプーンもフォークも自在に使える。
「当然の評価を捻じ曲げてまで、否定論に固執するのは愚か者のやること――か」
 アイクは、いつかレテの言った台詞を、噛み締めるように呟いた。それは単に、レテがベオクに順応してきたことについてだけではなさそうだった。
 しかし、訊けない。これもベオクの影響だろうか、レテは何もかもをあけすけに問いただすことが出来なくなってしまった。黙って夕食を胃に押し込む。確かにものを食べている気にはならなかった。
「私はもう行く。お前の分も片付けてくるから」
 立ち上がろうとしたとき、急に左手に重みを感じた。
 アイクだった。アイクが、すがるようにレテの腕を掴んでいた。
「その――」
 自分でもその行動に戸惑っている様子で、アイクは視線を泳がせた。
「あと少しだけ。ここにいてくれないか」
 レテが思わず頷くと、強い力で引っ張られた。バランスを崩してアイクの胸に倒れ込む。もう片方の手がレテの背中に回り、ぐっと引き寄せられた。
「あ……」
 レテは吐息を漏らした。これはつまり、アイクに抱きしめられているのか。平素ならば突き飛ばして罵倒するところだったが、今に限ってはそんな気になれなかった。
 この身体を抱く少年が、あまりにも心細そうに見えたから。
「あと少しだけ」
 アイクはそう言って腕に力を入れる。
 あたたかかった。細身に見えてもやはり男だな、と鍛え抜かれた身体に触れて思った。
 ためらいがちに、レテは白い腕を少年の背中に回した。目を閉じる。
 泣いてもいいと言ってやれたら、いくらか気が楽だったろうに。