第三章 命の貴賤 - 1/3

SIDE Rethe

 

 

【ニンゲン】

 

 ともあれ、レテたちはベグニオン領に足を踏み入れた。
 王都に辿り着き、王宮である大神殿でそれぞれ自分の部屋をあてがわれるに至った訳だが、レテはその内装に辟易していた。
 クリミアの文化を優美と表現するならば、ベグニオンは華美である。質実剛健の国に育った身には、その豪奢さはさながら視覚の暴力であった。レテはたまらず部屋を出る。廊下のつくりも派手には相違ないが、己が部屋と比べれば、まだしも我慢できた。
 我慢ならなかったのは、こちらを恐る恐る窺っている少女の方だ。
「私に何か用か?」
 声をかけると、柱の影からデイン兵の少女が現れた。アイクが成り行きで保護した竜騎士だ。紅の髪を高く結い上げている。
 少女からは、デイン人が当然のように向けてくる敵意が感じられなかった。
「し、質問があるのだがかまわないか?」
 声が上擦っている。手は反対の手を撫でたり握ったり忙しない。レテはそれを斟酌してやるほど親ベオクではない。内容によるな、とだけ短く答える。
 少女は何かを言いかけては口唇を閉じ、閉じたと思ったらまた空気を吸い込み、レテがそろそろ痺れを切らしかけた頃、ようやく質問とやらを口にした。 
「その……何故、半じゅ――いやラグズ――は、戦闘に武器を使わないのか?」
 レテはその無知さに呆れた。少女個人にではなく、デインという群体そのものに対して呆れた。
 しかし知ろうと歩み寄ってくるだけ、この少女はデイン的思考よりもアイク寄りなのかもしれない。そう思うと、無視するのも狭量だ。
「ラグズには、生来、戦う術は体に備わっている。武器とは、力を持たないお前たちベオクが、私達の爪や牙に対抗して作り出したもの。我々は使う必要などない。それだけか?」
 レテが言い放つと、少女は顔を上げ、まだある、と小さな声で次の質問を投げかけた。
「お前たちは、どうして私たち……その、人間を憎むのだろうか?」
 これはレテにしてみれば、愚問を通り越して滑稽ですらあった。滑稽すぎて業腹だ。理性で感情を押し殺す。
「寧ろこちらの質問だ。何故、ベオクはラグズを憎むのだ?」
 人間をわざわざベオクと言い換えて、レテは問うた。少女は明らかに狼狽していた。それは、と言ったきり黙っている。
 レテは手近にあった柱に寄りかかった。少女の口をついて出る返答は、きっと自身すら言い伏せられないものであろう。
「それは、半じゅ……ラグズが敵だからだ」
 出来の悪い問答だ。『敵』に向けて、何故自分たちを憎むのかと問う。
 憎いから、敵になる。敵だから憎い、というのは、順序が逆だろう。
「だとすれば、こちらも敵だからベオクを憎むのだとしか答えようがないな」
 憎しみには憎しみが返る。敵と見なされれば、自然相手は自分にとっての敵となる。少女の論理では、ラグズとベオクは永遠に平行線だ。
「……もう行くぞ。これ以上、時間を無駄にしたくない」
 やはりアイクのようにはいかない。自分を敵と呼ぶ人物に向けて、休戦を申し込むほどレテはお人よしではない。少女もまた、そうなのだろう。幼い頃から刷り込まれてきた理屈は、たとえ歪んでいても容易くは折れない。
 隔たりは、広がるばかりだ。

 

「あ、レテさん。どうですかベグニオンは」
 散策を続けるレテに呼びかけてきたのは、マーシャだった。当然だが、いつもの天馬はつれていない。
「醜悪だな」
 包み隠さず意見を述べると、マーシャは、そうですよねぇと疲れたように笑った。レテは片眉を上げる。
「私は撤回しない。だが、お前にはこの発言に怒る権利がある」
「権利……ですか。でも私は、レテさんが間違ってるとは思いません」
 マーシャは視線を、中庭の花壇に転じた。色とりどりの花たちが、不自然なほど整然と並んでいる。
「古い風習に囚われて、考えてるのは私欲のことばっかり。神使様や天馬騎士団はそうだとは言いませんけど、国全体で見たら、ここは充分醜いと思いますよ」
 マーシャの横顔には、言葉とは裏腹な淡い微笑が浮かんでいた。
 どんな国でも故国は故国だ。捨て切れないものもあるのだろう。
「ラグズ奴隷解放令」
 マーシャは突然にそう呟いた。レテの方を向いて、肩をすくめる。
「二種平等権所有法とも言うんですけどね。つまりラグズとベオクは両方、同じ権利を擁してるってことなんです。どう思います?」
「少なくとも、ベグニオンにおいてそれは適用されているとは思えない」
 レテは腕組みをして答えた。先程、通りがかりに『半獣』という呟きを何度も耳にした。中央でこれなのだ。地方に行けば、きっと公然とラグズ奴隷が使われているのだろう。
 マーシャは頷いて、左の腕を抱いた。
「本当はそうしたいんですけどね。私、今のベグニオンを、レテさんに自慢することは出来ません。胸を張れるような国じゃないです、ここは」
 レテは黙ってマーシャを見つめていたが、やがて重々しく口を開いた。
「お前に何の責任もないとは言えない。だがお前に出来ることの限界も承知している。お前がお前の世界の中で、この国は変わるべきだと思ってくれているなら、今はそれでいい」
 気休めかもしれない。詭弁かもしれない。だがこれが、今のレテの本音だった。
 マーシャはいつものように明るく、ありがとうございますと笑った。
「私、用事があるのでこれで失礼しますね」
「ああ」
 立ち去りかけたマーシャは急に振り向いて、そういえばアイクさんが捜してましたよ、と言っていった。
 レテは一瞬首を傾げたが、すぐに合点がいった。そういえば、陸にあがったら手合わせをする約束をしていたのだった。もうやるつもりか、性急な奴だ――そう思いながら、口許は綻んでいた。

 

 結論から言うと、アイクは強かった。このところ雑兵とばかり戦ってきたので、士官クラスの人物と相対するのは久しぶりだったのだ。
 最終的にはレテが勝ち星を挙げた。しかし、アイクの剣は一秒毎に進化しているかのように精度を増していったので、このまま続ければ一本ぐらいとられても不思議はなかった。
 激しい運動で上気した身体に、夕暮れ時の風が気持ちいい。
「ああ――スッキリした」
 負けたはずのアイクは、芝生に寝転がるなりそう言った。レテは化身をといて彼に近寄っていったが、本当に満足そうな顔をしている。
「悔しくないのか?」
「悔しい。でも、頭がハッキリしてきた」
 アイクは腹筋を使って起き上がると、胡坐をかいた。
「今日は柄にもなく色々と考えすぎた。身体を思いっきり動かしたら、やっとそのモヤみたいのが取れた」
 レテは黙る。確かに、今朝突きつけられた現実は、今までの少年の世界を覆すものだったに違いない。
 権力の前に膝をつくこと。ひとである限り、誰もが一度は経験することだ。その理想がどんなに高邁なものであっても、理不尽は変わらず存在する。
 けれど。
「俺たちはエリンシア姫を守る。それでいいんだよな」
 背中を向けたまま、少年はしっかりとした口調で言った。
 言葉自体は、今までと何も変わらない。ただその内容が深みを帯びたものになったのは、レテにも分かる。
 レテは回り込んでいって、アイクの正面で屈んだ。
「では、私たちはお前たちを守る。それでいいんだな」
 アイクは一瞬面喰ったような表情になってから、よろしく頼む、と右手を差し出してきた。レテはその手を握る。
 王女を守ろう。この誓いだけは違えない。たとえこの世界がどうしようもなく醜悪であったとしても。
 アイクを立たせると、レテは乱れたリボンを軽く直した。アイクはその様子を、何か珍しいものかのように見つめてきている。
「それって、あんたが買ったのか?」
 レテは目を丸くしてアイクを向いた。あまりに唐突に、あまりに不釣合いな質問をされたせいで、一瞬その意味が分からなかった。ようやく、ああ、と納得して答える。
「妹にもらった。戦場のお守りみたいなものだ」
 全長は身の丈を軽く越す、深緑のリボン。先に鈴がついているが、舌を抜いてあるので鳴らない。
 これはレテが軍に入ると決めたとき、リィレが祝いにくれたものだ。
「妹がいるのか。仲いいんだな」
「そうでもないさ」
 アイクの言葉を遮るように、レテは自嘲した。あれだけ派手にケンカ別れした後なのに、まだ律義にこれを使っている自分は、思ったより感傷的なのかもしれない。
 アイクは、そうか、とだけ答えて、深くは追究してこなかった。彼のこういうところは腹立たしいと同時に、とてもありがたいものだった。
「ミストがな」
 話につまると妹を持ち出してくるところも、レテの見つけた彼の癖だ。
「あんたが自分から装飾品を買うようには見えないから、髪飾りもリボンも贈り物じゃないか、と言ってた。本当だったんだな」
 汗止めらしいバンダナを除いて、装飾品の類を一切身につけない少年が言った。
 彼の妹は実によく他人を見ていると思う。あのデイン兵の少女を一番気にしているのもミストだ。リィレの方が年嵩なのに、ミストの方が精神的には大人らしい。
「アイク。妹は好きか」
 突然の問いに、アイクは眉をひそめたが、渋面のまま答えてくれた。
「そりゃあ、人並みにはな」
 あの顔は彼なりの照れ隠しなのかもしれない。レテは小さく笑って、一番星を見つめた。
「そうか。では、私は人並みの基準を見誤ったらしい」
 もっと放任で、彼女の意思とぶつからぬ程度に、当たり障りなく愛していればよかった。妹の人生に口出しすべきではなかった。死と最も近しい場所にある軍属を選んでも、笑顔で祝福してやればよかった。
 ――本当に?
 アイクが妹を戦場に出すかどうか、逡巡していたのを思い出す。彼のように、譲歩して条件付きで、守るように許可してやればよかったのだろうか。
 ――本当に?
 私は、リィレの人生に干渉する権利があったのだろうか?
 否であれば、リィレとはもう、二度と――。
「レテ」
 底の見えない思考の海に沈んでいくレテを、アイクが二の腕をとって引き上げた。
 相変わらず透明な蒼の瞳にレテが映っている。
「あんたたちに何があったのかは知らない。訊かない。だが、憎んでいる相手の無事を祈るやつはいない」
 リボンを指して、アイクはユーモアのつもりか、今朝レテが言ってやった言葉をつけ足した。
「万国共通だ」
「そんなものか」
 レテも彼の言いそうな相槌を打ち、話は終わった。
 二人並んで、ベグニオンの狭い星空をただ見上げていた。

 

 数日が過ぎ、神使から傭兵団に依頼が来た。
 『旧街道を通りかかる商人に身をやつした一団の撃退。あわせて、その積荷の押収』。きな臭い一件ではあったが、団長殿が了承したのだから仕方ない。
 レテとモゥディに行く義理はなかったのだが、王宮に残っているより一暴れする方が魅力的に思えたので、同行した。
「来たようだな。数は20近く、武装している。それに……いや、大型の、積み荷……を、引いている」
 報告の途中、レテは言葉を選ぶべきかどうか、迷った。
 あれはどう考えても、一般の積み荷の大きさではない。巨大な箱状のものが、一様に布で覆われ、縄で固定されている。
 そして、これが一番レテを困惑させたのだが、風もないのに布がときおり動いているように見えるのだ。かすかに唸り声のようなものも聞こえる。となれば、あれは恐らく――。
 一団はベオクの視力でも目視出来る距離まで近づいた。アイクが全員に戦闘配備につくよう命を下したので、レテも黙って従う。
 この辺りは二本の川の合流地点で、敵の一団とは中州を挟んで向き合う形になっている。アイクたちが一団を捕らえる為には、二度、橋を渡らなければならない。橋を落とされれば、レテとモゥディだけで泳いでいって、敵を殲滅するしかなくなる。それでは傭兵団の顔を立てられない。
 開戦。獣牙族は、いざというときのために化身できる体力を維持するため、後方に配置された。グレイル傭兵団は手際もよく敵の前線を後退させ、もうすぐ対岸に辿り着こうとしている。
 我々が来るまでもなかったか――レテが腕組みしてため息をつくと、敵の首領らしい男が何やら喚いているのが聞こえた。
「俺たちの積荷を奪おうってんだ……てめえらもカタギじゃねえな! こっちの客には貴族もいるんだ。後でてめえらもタダじゃすまねえぞ!」
 積み荷の内、一際大きな2つの箱の布を勢いよく取り払う。
 その正体はレテの予想の半分は当たりで、もう半分はハズレどころではなかった。
 2つの檻中に黒色の虎が化身状態で入っている。しかし、その目はレテの考えていたものから大きくかけ離れている。囚われの身の上を嘆くでもない。自分を捕らえた者たちを憎むでもない。
 何もない。ただむき出しの衝動以外、何も。
 錠が開く。虎がアイク達を見据えながら、あるいは焦点の合わない目をこちらに向けながら、外へ踏み出す。
『オ前タチ、正気カ? 何ヲサレタ? ドウシテ【ベオク】ノ護衛ナド シテイル?』
 レテは必死に呼びかけた。黒い虎たちは無反応だった。ベオクにとってはただの吼え声でも、同胞ならば意味を解すことが出来る。しかし2頭の虎が発する声は、同じ獣牙のレテが聞いても言葉の体をなしていなかった。
 レテは一瞬の逡巡の後、決断した。
「モゥディ! もう助からない、せめて楽に逝かせろと伝えろ!」
 化身。跳躍。味方の頭上を飛び越え、虎の眼前に降り立つ。虎は生気のない、濁った目をしていた。
 似たような目を一度だけ見たことがある。
 老いた猫だった。老いすぎて何もかも削げ落ちてしまった猫だった。殺意もない。敵意もない。ただ見たものを無条件で襲ってしまう、本能だけが残った痩せこけた猫だった。民の安全を守るため、ライが一撃のもとに葬り去った。
 ライは言っていた。
  仕方がなかった
   とは、言いたくないね――
 あのとき、隊長のライの近くで愕然としていたレテが、今度は彼と同じことをした。
 仕方がなかった、とは、言いたくなかった。
 レテは首をめぐらせて首領を見た。
 ああ、そうだ。このところ『ベオク』の群れと暮らしていたから鈍っていたが、私は元々『ニンゲン』が大嫌いなんだ。貴様にはこの言葉ですら到底足りん。
 同胞ノ痛ミヲ 苦シミヲ 貴様ノ其ノ身ニ刻ンデヤル――。
 後はもう、ほとんど無意識だった。与えうる全ての責め苦を与えてやりたかった。
 死なせない。死なせはしない。苦しめ。生きながら苦しめ。同胞の痛みには遠く及ばないが、貴様ニハ地獄ノヨウナ苦シミヲ――。
「もうやめろ」
 自分とは違う体温を感じ、レテはふっと我に返った。
 眼下には凄惨な光景が広がっている。ああ自分がやったのだな、と思う程度でさして動揺もしなかった。アイクはレテの胴にしがみつくように彼女を抱きしめていた。力が抜けて、化身も解けた。レテはずっと横様に抱きすくめられている。
「では、どうすればよかった?」
 口をついて出たのは、こんな言葉。アイクに答えられないことは分かっていた。現にアイクは答えぬまま、まだ息があった首領に止めを刺した。
 それが妙に癪に障った。解らないくせに、解ったように行動する。それが許容できなかった。
 レテはアイクの胸元を両手で掴み、俯いたままで叫んだ。
「どうすればよかった!? 答えろ!!」
 知っている。これが正しい裁きなどではなく、レテが私憤によって残虐性を発露させた結果だということは。
 では、どうすればよかった? 捕まえて、もうするなよと言ってやればよかった? 許せない。許されない。そんなことは決して。
 泣きたかった。啼きたかった。しかしそうしたら自分の中の何かが折れてしまいそうで、出来なかった。
 霧が更に濃くなってきた。三体の死骸もうっすらと隠れていく。
 どうしていつも、一番大切なものは遠ざかって掴めないのだろう。
 レテは悄然と、不確かな視界の中で立ち尽くしていた。