第一章 そして太陽が目覚めるように - 4/6

幕間・燃える白亜

 

「――様! エリンシア姫様!!」
 クリミア王家離宮。
 響くのは激しくドアを叩く音。窓辺に若い娘が立っている。陽に煌く髪は、瑞々しい青葉のような緑色。
 娘――クリミア王女エリンシアは、緩やかに波打つその髪を揺らして、振り返った。
「入って下さい。ルキノ」
 失礼いたします、と部屋に踏み入ってきたのはエリンシアと同年の娘。
 すっと伸びた背筋、凛とした立ち姿は、上背も手伝って王女よりも大人びて見える。
「何が起こっているのですか? 随分と騒がしいようだけれど……」
 エリンシアは琥珀の瞳を曇らせ、問うた。碧い瞳で視線を受け止め、ルキノはエリンシアの両肩に手を置く。湖面のような色の髪が、その豊かさを誇るように滑らかに広がる。ルキノの形のよい口唇が、わずかに震えた。
「姫。落ち着いて聞いてくださいませね」
 その躊躇も一瞬のこと、きっぱりとした声で状況を告げる。
 発せられた言葉に、エリンシアの薔薇色の頬が色を失った。
「お、父様、と、お母、様、は?」
「御無事です。御部屋に居られます」
「連れて行って、もらえますか……」
 歯の根が合わないまま、エリンシアは無理に言葉を絞り出した。膝も笑ってしまい、とても一人では歩けそうもない。
 ルキノは隠し通路を開け、エリンシアの肩を抱いた。
「参りましょう」
 その日、クリミア王都メリオルを悲劇が襲った。
 ――デイン軍による侵攻。それは虐殺と呼んだ方が正しいほど、一方的な攻撃であった。

 

「ルキノ、帰って来ませんね……」
「あの子なら大丈夫ですよ、エリンシア」
 国王夫妻の寝室。王妃はエリンシアを抱き、髪を優しく撫でてくれた。
 ルキノは、様子を見に行くと言って出て行ったきりだ。
 王は険しい顔をしていた。手には剣が握られている。
「万一ということがある。ルキノが戻ってきたら、お前たちは逃げなさい」
「そんな……お父様は?」
 おどおどと見上げるエリンシア。王は娘たちを安心させるように、不敵な笑みを浮かべた。
「私は王だ、逃げる訳にはいかん。なに、私も武人だ。それにレニングがいる。負けはせんさ。……それとも父が信じられないか?」
 エリンシアはぎこちなく笑い返して、首を横に振った。穏やかな目で頷き、ラモン王は言う。
「さ、支度をしなさい。荷物は少なくな」
 王妃は黙ってエリンシアを促した。ルキノが戻ってくるまでには発てるようにしなくては。
 二人は王に背を向け、準備を始めようとする。
 そこで、時間が速度を変えた。
 全ての動きがひどく遅い。割れる窓硝子。振り返るエリンシア。妻子を呼ぶ王。床に散らばる、水晶のように輝く破片。カーテンが窓を覆って陽光が見えない。違う……あの黒いモノは。
 あれは、飛竜。
「お母様……?」
 王妃の背中からは棒状のものが生えていた。胸からは銀色のものが突き出している。その先端からは、赤い雫が滴る。
 ――倒れる。
「いやああああああああああああああッッッッ!!」
 エリンシアは状況を理解すら出来ず、ただ感情だけで叫んでいた。座り込む彼女をよそに、時間は遅れを取り戻さんとばかりに加速していく。
「エリンシア! 逃げろ、エリンシアッ!!」
「ほぅ、王女か? そんなものが本当に居たとはな」
「貴様……デイン王、アシュナード!!」
「いかにも、クリミア王ラモンよ。して、そこに転がっているのは奥方か?」
「よくも我が妻をっ!!」
「いかんな、王ともあろう者が常の男のような発言をするものではないぞ。我がここに居るということは、外に居た者がどうなったのかと考えぬのか?」
「貴、様ァァァァァァ!!」
 吠える。剣を抜く。斬りつける。取り巻きの騎士に阻まれ、アシュナードには届かない。
 アシュナードは王には目もくれず、エリンシアに歩み寄ってきた。途中に居た王妃の身体に足を載せ、無造作に槍を引き抜く。
 エリンシアは彼に見下ろされていた。理屈を超えた恐怖を与える目。足元から凍っていくような感覚。纏う空気だけで息が止まりそうになる。
「もう泣き叫ぶことも出来ぬか」
 口唇が邪悪に歪んだ。娘を正気に返そうと、王は狂ったようにその名を叫び続ける。
「そこまで娘が愛しいか。ならば貴様から殺してやろう。死に顔を見ずに済むようにな」
 受け止めようとした王の剣を中途から砕き王の身体を貫いたのは王妃を葬ったのと同じ、同じ槍が、同じように、先端から、血液を。
 エリンシアの意識は遠のいた。目の前が真っ白で何も考えられない。
 そのまま倒れてしまいたい。倒れ、意識を失ってしまいたい。そうしたら全部夢に出来るのではないか。目が覚めたときには全て元通りなのではないだろうか。
 アシュナードがその甘えを、許す筈もなかった。
「痛……ッ!!」
 髪を掴まれ、無理やり意識を引き戻される。焦点が合わず、ぼんやりとした影しか捉えられない。眼前にあるのがアシュナードの顔だと気付いたとき、エリンシアは反射的に顔を背けた。
 白い頬にアシュナードの息がかかる。
「弱き娘よ。我が手を下すまでもない」
 左頬から床に叩きつけられる。配下らしき鎧の男たちが近づいてくる。エリンシアは怯えた様子を見せられない。危機感も胸を打たない。
 そんな余裕は、なかった。臨界点などもう、とうに超えてしまったのだから。
 虚ろな瞳に映し出されるのは、伸ばされた薄汚い手。
「……触らないで」
 突如、はっきりとした呟きが発せられた。清らかな響き。
 デイン兵は不思議そうに自分の手を見下ろす。否。自分の手だったものを、見た。――床に転がっている、塊を。目を見開いてそれを見つめていた頭もすぐに落ちて、隣に並んだ。
「穢らわしい手でその方に触らないで……!」
 状況に気付いたもう一人の男が槍を構えた。次の瞬間、彼女の前に跪く。もっとも許しを乞う言葉を吐こうにも、彼の喉は既に潰れていたのだが。
「ルキ、ノ……?」
 エリンシアの目が捉えたのは、この場には不釣合いなほど鮮やかな碧。抱き起こす優しい手。
「遅くなって申し訳ございません。もう大丈夫ですわ、姫」
「ルキノ……っ!!」
 エリンシアにようやく感情が戻ってきた。
 ルキノが戻って来てくれたからもう大丈夫。ここは怖い。恐いから早く逃げなくては。早く、早く。ルキノがいれば大丈夫。
「何が大丈夫、とな?」
 エリンシアは心臓が再び凍りつくのを感じた。
 浅はかだった……こんなことくらいで、この男の存在を忘れてしまうなんて! エリンシアは蒼褪めた顔でルキノを見上げた。頬を汗が滴り落ちていくのが見える。
 だがルキノは、不敵に笑った。
「この方の御身よ」
「ほう」
 子供の戯言でも聞かされたように――彼にとっては本当にそうなのだろう――アシュナードは口唇を歪めた。
「王と妃の仇討ちをしようとは思わぬのか? 下手人はここだぞ?」
 無防備に両腕を広げてみせる。見たところ護衛も、もはや物言わぬ二人しかいない。
 だが決して『無防備』などではない。アシュナードの目から少し下に視線を置き、ルキノは口を開いた。
「今はその時ではないもの。……いずれその首、貰い受けるわ。それまでによく洗っておくことね」
「若いのになかなか言う」
 アシュナードは気をよくしたようだった。ルキノは苦虫を噛み潰したような顔だ。アシュナードはラモン王の遺体に歩み寄り、振り返った。
「これでもそのような口が利けるか、小娘?」
 足を載せる。鳩尾の中に沈んでいく。硬いものと柔らかいものが潰れていく音が脳髄を直接叩く。
 エリンシアの甲高い悲鳴。ルキノの手が柄にかかる。震える腕。手の平に喰い込む爪。噛み締めた口唇。零れ落ちそうなほど見開かれた瞳。刃が抜き放たれることは、ない。
「大した精神力だ!! ここに転がっている主以上だな!?」
 哄笑を響かせるアシュナードが、突然消えた。違う。目でさえ追えなかっただけだ。
 ルキノの身体が壁に叩きつけらた。咳き込む。石突の方で鳩尾を衝かれたらしい。端正な口唇から血液が吐き出された。
「ルキノ!!」
 エリンシアよりもアシュナードの方が、先に彼女に近づいた。
 ルキノの腰から勝手に剣を抜く。振り上げる。エリンシアには止めることなど出来なかった。庇うことも目を逸らすことも出来なかった。ただ頁をめくるようにゆっくりと刃が落ちてきて、その切っ先が、ルキノの、額を、かすめた。
 外したのでも、助けたのでもないと空気が告げていた。ルキノの左目を、彼女の血が滝のように塞いでいる。
 アシュナードは彼女の胸倉を掴んで、邪悪な顔を鼻先まで寄せる。
「美しい顔に傷がついたなぁ、娘!!」
 そのまま持ち上げられ、ルキノはエリンシアの前に投げ飛ばされた。
 アシュナードはもはや興味を失ったように、二人に背を向ける。
「娘よ。生きて責め苦を味わうがよい……醜い顔と、力無き王女を抱えてな」
 黒い飛竜が窓辺から飛び去った。
 エリンシアは、震える手でルキノの頭を両膝に載せる。ルキノの白い頬は真っ赤に濡れていた。
 どうしてやればいいのか分からずに、エリンシアはただ泣きながら、ドレスの袖で幼なじみの顔を拭いていた。

 

 脈が速すぎてどこが鼓動を打っているのか分からない。全身が心臓になったかのような錯覚。手足を動かすのももどかしい。
 騎士ジョフレは駆けた。ただ一所を目指して全力で、駆けた。
「陛下! 姫!!」
 これまでにない粗暴さで扉を開け放つ。部屋が薄暗くて中が見えない。もう一度呼びかけながら一歩前に出ると、ようやくか細い声が聞こえてきた。
「ジョフレ……?」
「姫……!!」
 走っている間ずっと頭を占めていた緑色の髪が、そこにある。よくぞ御無事で……ジョフレの顔がかすかに綻んだ。
 駆け寄ろうとして更に踏み出す。その瞬間、気付いてしまった。
「陛下、妃殿下……!!」
 気付いてしまった。床に転がる二つの屍。そして。
「――姉さんッ!!」
 壁に寄りかかったまま、動かない姉に。エリンシアに支えられて上体を起こしてはいるが、満身創痍だ。白い服が見る影もなく紅に染まっている。
 ジョフレは姉の身体に縋りついた。
「姉さん! しっかりしてくれ、姉さん!!」
「――る、さい子ね……。騎士ともあろうものが、これくらいでガタガタ騒ぐものではないわ。みっともない……」
 目は開かない。だが生きている。ジョフレは詰めた息を吐いた。
「よかった……」
 弟の呟きに、ルキノの口唇から微苦笑らしきものが洩れた。やはり瞼は上がらない。
「……アレは?」
 小さく問われる。ジョフレは出来る限り頼もしい声をつくった。
「ユリシーズが早々に運び出してくれた筈だ」
「そう……なら、いいわ……」
 ルキノは息を吸った。痛むのか眉をひそめたが、それも一瞬のこと。長い睫毛の隙間から、ジョフレと同じ碧の瞳が覗く。力強い光の宿る瞳が。
「さぁ。逃げなさい、ジョフレ。エリンシア様を安全なところまでお連れするのよ」
「……え?」
 情けない音が喉の奥から零れた。ルキノの口調が荒くなる。
「出来るわね? 出来ないとは言わせないわよ」
 ジョフレとて、逃げるということに異論があろう筈もない。姫を守り抜くことだけは、命に代えても果たす。
 ただ気になったのは、言い方。
「ねえ、さん、は?」
 逃げましょう、ではなく。ルキノは。逃げなさいと、言った。
「一刻も早く逃げろと言っているの。聞こえない?」
「嫌です! ルキノも一緒に……」
 エリンシアも理解したようだ。ルキノの手を握る。ルキノはその手をそっと握り返した。
「姫、どうかあまり我侭をおっしゃらないで。……ジョフレ」
 逃げられないのなら尚更、置いて行きたくはなかった。ジョフレの清純な思考回路でさえ、こんな所で動けない女を一人にしたらどうなるかくらいは想像できた。
 逡巡した。ルキノはその僅かな時間すら許さなかった。
「ジョフレ! 早く行きなさい!!」
 激しい声と金属音。ジョフレの喉元に突きつけられた切っ先。強く握り締められた柄。
 真っ直ぐに見据える滲んだ瞳。
「――姉さんの言うことが、聞けないの?」
 ジョフレは口唇を噛み締めた。端から血が流れ出た。
 エリンシアを抱き上げる。抵抗して泣き叫ぶのも構わずに、走り出す。
 絶対に、絶対に許せない。ジョフレ・デルブレーは、騎士として、青年として、己の存在理由の全てを蹂躙したデイン国王を、決して許さない。
 腕の中の温もりを感じながら、ジョフレの胸はそれ以上に燃え上がっていた。

 

 足音が遠ざかっていく。ルキノはため息をつき、横様に倒れた。
 その勢いで左目から右目に涙が伝う。血と混じり合って薄紅になって消えていく。色を失った口唇が美しい弧の形になった。
「二人共……どうか、無事で……」
 静寂。水たまりのように広がった碧い髪。その毛先を暗闇が侵食し始める。
 もう誰も動かない。