第一章 開戦 - 4/6

SIDE:Ike

 

拾う

 

「よし」
 呟き、アイクは食器棚の戸を閉めた。
 グレイル傭兵団では家事を持ち回りで担当している。依頼で立て込んでいるときはミストたちに任せきりになってしまうが、そうでないときは全員だ。暮らしている人数が多い為、どの仕事も骨が折れる。
 アイクは今朝の朝食の片づけをやっと終えたところ。
 伸びを一つ。さぁ、今日は何をしようか。とりあえず腹ごなしに身体を動かして、それからボーレでも捕まえて実戦訓練を――。
「お兄ちゃん! 聞いてよ、大ニュース!!」
 騒々しい声に思考を中断された。ミストだ。アイクは眉をひそめて振り返った。
「どうした? 今日はどこの寝癖が直らないんだ?」
「ええとね、この辺がまだちょっと気に入らな……もうっ! 違うのっ!!」
 ミストは前髪をいじりかけて止め、入ってきたときと同じ勢いで部屋を出て行った。
 一体何なのか。唖然としていたらミストが誰かの腕を引いて入ってきた。引きずり込まれた少年は長い黒髪を揺らし、ワインレッドの瞳を伏せる。
「お久しぶりです、アイク。ただいま戻りました」
「セネリオ! 無事で何よりだ」
 アイクが顔を輝かせると、少年は面映ゆそうに口許をかすかに動かした。
 少年の名はセネリオ。年齢は尋ねたことがないが、自分とミストの間ぐらいだとアイクは勝手に思っている。上背も二人の間ぐらい。身体つきは細いというよりも、薄い。
 魔道士として風魔法を操ることができるのみならず、参謀としても類稀な才能を持っている。それを生かす為、他所の傭兵団で軍師としての修行をしていた筈なのだが。
「どうしたんだ? もう少し修行してくるんじゃあ……」
「それが……」
 セネリオは口を開きかけたが、肝心の言葉が発せられる前に、廊下からグレイルの怒声が飛ぶ。
「何をしている! お前らも早く作戦室に来いっ!!」
 セネリオは嘆息し、踵を返した。
「とりあえず行きましょう。……詳しい話は後程」

 作戦室に入ると既に全員が揃っていた。
 アイクたちが座るが早いか、グレイルに目配せされたセネリオが口を開く。
「簡潔に言います。クリミアとデイン間で戦争が始まりました」
 ざわついた。私語厳禁の作戦室で、いつもそれを遵守している団員たちが、一斉に。
 だがアイクはどう反応していいのか分からなかった。
 せんそう。受け取れない。言葉だけが、実感なく脳の表面を滑り落ちていく。
 せんそうって、国同士のころしあい、か? このクリミアで、そんなことが?
「こちらを御覧下さい」
 セネリオが机の上に紙を拡げた。クリミアの詳細地図だ。
「ここがクリミアの王都メリオル。傭兵団の砦は大体この辺りです」
 クリミアの中心部と、そこから河を挟んで西に離れた辺りを順に示す。
「三日前の昼下がりです。僕は調べ物の為に、メリオルにある王立学問所の書庫にいました。突如、獰猛な――恐らくは飛竜の――咆哮が響いたかと思うと、大きな振動がありました。外に飛び出した僕が目にしたのは、王宮になだれ込む騎兵部隊、それに続く重歩兵隊、さらに空には十数の竜騎兵……彼らは全て黒い鎧で身を包んでいました。その意味はもうお分かりかと思います」
 デイン王国軍だ。華やかな鎧を纏うクリミアやベグニオンの騎士と比べ、デイン騎士の鎧は黒一色にほぼ統一されている。
「ご承知の通り、クリミアとデインの関係は建国以来、順調とは言いかねるものでした。しかし数百年に渡る歴史の中で、幾多の小規模な戦はあれど……いきなり国境を越え、相手国の王城を奇襲するようなケースは今回が初めてです」
「随分、乱暴な策だものね」
 ティアマトが呟いた。グレイルが腕組みをして、唸る。
「それだけに、成功すれば効果的ではある。現デイン国王アシュナードならではの奇策というところだな。――その後は?」
「王弟率いるクリミア王国軍が出撃し、徹底抗戦の構えに入りました。一般人は市街地に退避するよう達しがありましたので、僕もやむなく王都を離れその足で戻りました」
「現在の戦況は分からんということか。どちらにせよ、この田舎には戦争の第一報すら届いておらん状態だ。よく知らせてくれたな、セネリオ」
 いえ、と短く呟いてセネリオは着席した。
「お前はどう見る?」
 グレイルはティアマトを向いた。ティアマトは頷いてきっぱりと答える。
「クリミアは我が団にとって故郷とも言える場所です。またクリミアの王侯貴族は、これまでもこれからも我が団にとって大切な雇い主。義を見ても利を見ても、ここはクリミアを助けるべきかと思われます」
 グレイルは特に意見をしなかった。今度はセネリオに向き直る。
「お前はどうだ?」
「我々は傭兵団です。特に依頼を受けた訳ではない以上、手を出さないのが適当かと」
「座してクリミアの滅亡を見る、と?」
「はい。兵数も士気も明らかにデインが上。クリミアの勝ち目は薄いでしょう」
 セネリオはグレイルの視線を受けながら、平然と言った。ティアマトが椅子を落ち着かない様子で立ち上がる。
「でも、クリミア国王は賢明を以って知られるラモン陛下。武勇並ぶ者なしと言われる王弟レニング卿もおられるわ。そう簡単にデインの思い通りになるかしら?」
 笑ってはいるが、必死なのはアイクの目から見ても明らかだ。セネリオにはもっとはっきり解っているのだろう。答える声音は涼しい。
「武勇や将器という意味では、デイン王アシュナードもレニング卿に引けは取りません。となれば、あとは兵の量と質が勝負を決めるでしょう。結果は明白だと思われますが」
「クリミアには地の利もあるわ。デインの矛先を巧みにかわして、持久戦に持ち込めば……」
「士気も錬度も低いクリミア軍が、そこまで持つとは思えません」
 セネリオには僅かの遠慮もなかった。ティアマトはまだ何か言おうしているらしかったが、その前にグレイルが遮った。
「まずは現状を正確に掴むことだ。王都を一度偵察した方がいいだろう。お前に任せる、何人か連れて行け」
 アイクは眉をひそめて頬杖をついた。
 ティアマト、連れて行ってくれるだろうか。この間、先頭を切って命令違反を起こした奴だから置いていかれるかもしれない。だが国の一大事にここで黙って待つのはやはりつらい。
 ティアマトをじっと見る。困り顔だ。やはり留守番か……。嘆息して目を伏せると、後頭部にグレイルの声が飛んできた。
「どこを見ている。お前に言っているんだぞ、アイク」
「「は!?」」
 椅子が鳴った。二脚だ。
「俺が!?」
「冗談じゃないぜ! 団長、アイクみてぇなガキに何を期待して……!!」
 もう一人はシノンだった。グレイルはシノンに向け、不敵に笑う。
「よし。心配ならお前もついて行くがいい、シノン」
「げ……」
 どうやら同行者のうち一人は決定したようだ。シノンは脱力したように腰を下ろした。
 満足げにグレイルが頷く。
「あとはガトリー、キルロイ、セネリオ。補佐にティアマト。オスカーとボーレは留守を頼む。俺は少し出かけてくるから、後は任せたぞ」
 自由に決めろというようなことを言ったくせに、結局全員指名しているではないか。
 だがそれはまだいいとして。
「親父! 待ってくれ、どうして俺が……」
 そう。『アイクが』連れて行く、ということだけが疑問。
 グレイルは振り返らない。団長命令だ、とだけ言って立ち去ろうとする。
「親父ッ!!」
 背中に叫んだが取り合ってはもらえなかった。アイクは眉根を寄せ、頭をかきながらとにかくも自室へと急いだ。

 

 王都への道。団員たちは辺りの様子を調べているが、アイクは真ん中で立っていた。
 見張りという名目なのだが、どうも焦点が合わない。
「どうしたんだい、アイク?」
 キルロイが声をかけてくれた。アイクは視線を彼方に向けたまま、口唇だけを動かす。
「親父の真意が解らない。どうして新米の俺に、この場を仕切らせようとするんだ」
 そう、と短い相槌を打って、キルロイは隣に立った。しばし黙り、アイクの顔を横目で見る。
「……アイクだから、じゃないかな」
「俺、だから?」
 アイクはキルロイの顔を見た。ふっと、やわらかく微笑まれる。
「そうだよ。だってアイクは、団長の跡を継ぐ人だからね。人を動かすことを学ばせたいんじゃないかな」
「俺に、そんな器があるのか? いや、たとえあったとしても遠い先の話じゃないか。今の俺は経験も力もない……ただのガキだ」
「そうかな。僕の目から見れば、とても有望に見えるけど?」
「買い被るなよ」
「買い被りじゃないと思うよ」
 かつてないほどはっきりとした声に、アイクは思わず目を丸くした。その蒼い瞳を飴色の瞳が覗き込む。
「グレイル団長はすごい人だけど……アイクならきっと追いつける。追いついて、それから追い越すことだってできるんじゃないかな」
「そりゃあ……いつかは、とか、思わない訳じゃないが」
 アイクはつい目を逸らした。手持ち無沙汰で首の後ろを掻く。
「単純に戦闘能力についてならな。だがそれと将器とは別モノだろう。俺に親父を超える指導者(だんちょう)になれって言うんなら、無茶だ」
「僕の勝手な想像だから気にしなくていいよ。ただ……そうだね。力が無いと思うのなら、少しでも早く一人前になれるよう努力するっていうのはどうだろう。その方が悩んでるよりアイクらしいよ」
 ね、とキルロイは屈託なく笑った。アイクもようやく、顔の筋肉を緩めた。
「そうだな」
 そうこうしている間に他の団員たちも戻ってくる。
「そっちの状況は?」
 アイクは問う。セネリオが周囲を一瞥しながら答えた。
「この辺りと同じように兵士の死体が散乱しています。王都からここまで、結構な数ですね。鎧で見る限りデイン兵の方がずっと多いようですが」
「クリミアが優勢なのか?」
「その反対でしょう。クリミア兵の鎧は近衛のものでした。国王ラモンか王家の誰かが、移動中に攻撃を受けたと考えるのが自然です」
「そうか……」
 状況に謎は多いが、ひとまず全員の報告を聞こう。アイクが視線を動かすと、かがみこんでいるガトリーとシノンが見えた。
「シノンさん、何やってんすか?」
「こいつら、いい武器持ってるぜ。死人にはもったいねぇだろ? いただいたって文句も言わねぇしな」
 何をやっているのかと思えば。アイクは歩み寄って、シノンの肩を掴んだ。
「おい、シノ――」
「いい加減にしてください!」
 だが思いがけないところから発せられた声に驚いて、一瞬でその手を放してしまった。
 セネリオだ。怒鳴ってしまったこと自体気に入らないのか、いつも以上に口調に棘がある。
「そんなくだらないことをしている時間はありません。本当に根性がさもしいですね」
「……くだらねぇ、だと?」
 シノンは立ち上がり、口唇を歪めてセネリオに詰め寄った。
「言ってくれるじゃねぇか、天才魔道士さまよぉ。生憎オレたちは武器が必要なんだよ。紙ペラだけで戦うお手軽なてめェらと違ってなぁ?」
 セネリオは何も言わなかったが目で分かる。あれはシノンの言う『紙ペラ』の威力を証明しようとしている顔だ。
「やめなさい二人共! 味方同士でもめている場合!?」
 ティアマトに叱責され、セネリオは黙ったままシノンに背を向けた。シノンも舌打ちして顔を背ける。
 アイクはこのような場を上手く取り繕う術を、持っていない。上手く立ち回りたいという訳ではないが、『家族』をいつも自然な状態にしてあげられたら、とは思う。
 誰かを憎んだり嫌ったり、いがみ合ったりするのはとても心に負担のかかることだから。その胸の内がいつも平静であればいい、と。
「キルロイは?」
 アイクは周囲を見渡し、誰にともなく呟いた。ティアマトも視線を巡らし森の方を指差す。
「あら。あんな所にいるわよ」
 見えない。目を凝らしていると、キルロイが茂みから顔を出した。
「アイク、ちょっと来て!」
 駆け寄っていくと、他の兵たちとは様子の違う人間が横たわっていた。一目で上質と分かる布地で出来た服を纏っている、一人の――娘。
「一体、何なんだ……?」
「分からない。何か動いてたみたいだから、見に来たらこの人が倒れてて。どうしよう、アイク」
「どうもこうも……」
「放っておきましょう」
 遅れてやって来たセネリオが、アイクの台詞を遮った。冷めた目で娘を見下ろしている。
「この状況下です、余計なことに関わらない方がいい」
「まだ生きてるのか?」
 アイクは淡々とした声を、更に遮った。キルロイはちらとセネリオを見てから、答えた。
「うん。気絶してるだけみたいだよ」
「じゃあ連れ帰って手当てしよう。キルロイ、みんなを呼んで来てくれないか」
「分かった。待ってて」
 キルロイは立ち上がって駆けていった。
 セネリオは黙っていた。アイクはそっとセネリオの隣に立つ。
「セネリオも。いいか?」
 短い問いに、セネリオは否定も肯定も返さなかった。
「……こちらの道を行きましょう。森を斜めに抜けることが出来た筈です」
 目を合わせず森の奥を指し示す。アイクは苦笑して、セネリオの肩を叩いた。
「ありがとう」
 セネリオは少しだけ泣きそうな顔でアイクを見上げてから、すぐに俯いた。
 橙の混じり始めた陽射に影が伸びる。夕陽の色の服をまとった女を連れて、アイクたちは住み慣れた砦に帰還していく。

 

「それで? 他には何もなかったか」
 傭兵砦。帰還して報告を済ませたアイクに、グレイルは問うた。アイクは決まり悪い気分で頭をかく。
「デイン兵に、見つかった」
「戦闘に?」
「いや、撒いた。こっちは荷物を抱えてたからな」
 扉に目を遣る。グレイルもつられたようにそちらを見た。
 気を失ったままの娘は、キルロイたちに看病されながら向こうに横たえられている。
「何者なんだ?」
「分からん。だがセネリオが、周囲に倒れていたクリミア兵の鎧は近衛のものだと言っていた」
「近衛だと? では、王家に縁のある者か?」
「さぁ。とりあえず、本人の意識が戻るまで待つしか――」
 アイクは言いかけ、ミストが駆けてくるのに気付いてやめた。
「お父さん、お兄ちゃん! あの女の人、目が覚めたよ!」
 アイクは父の顔を見たが、何の感情も見い出せない。あの娘を連れて帰ってからずっとこんな調子だ。グレイルはアイクに視線を向けず歩き出す。
「よし。会いに行くか」
 扉を開けると、深緑の髪の娘は、所在なさげに寝台に座っていた。
「具合はどうだ?」
「え、あ、はい……。大丈夫、です……」
 入ってきたグレイルに気付き、彼女は立ち上がる。
 澄んだ、耳に心地いい声だった。上背はセネリオと同じ位だろうか。年の頃はアイクと同じか、少しばかり上かもしれない。琥珀色の瞳を不安そうに曇らせて、グレイルを見上げている。
「あの……貴方は?」
「俺はグレイル。傭兵団の長だ」
「グレイル様」
 想像していた最悪の台詞を聞かずに済んだからだろう。
 娘は顔を輝かせてグレイルの名を繰り返した。胸の前で両手を組む。
「私を助けてくださったのですね? 何とお礼を申し上げればいいか……」
「おっと」
 グレイルは娘の言葉を制し、入り口に立っていたアイクを無理やり部屋に引きずり込んだ。
「礼ならこいつに言ってやってくれ。息子のアイクだ、あんたを見つけて連れ帰ってきた」
「いや、俺は別に……」
 グレイルの腕を振り払い、アイクは口ごもる。
 今、礼だとか何だとかはどうでもよいではないか。大体見つけたのはキルロイで、馬に乗せてきたのはティアマトだ。アイクは寝台まで運んだにすぎない。
「アイク様ですね……? ありがとうございます」
 娘は深く頭を下げた。この間のマーシャとかいう娘のときもそうだったが、こういう雰囲気は居心地が悪い。
 アイクは曖昧に答えて話題を変えた。
「それよりあんた、何者なんだ?」
 途端、安心した様子で微笑んでいた娘が、蒼褪めた。口許を押さえ目を逸らす。グレイルが淡々とした調子で問いを重ねる。
「見たところ軍人じゃあないようだからな。たとえば……クリミア王家縁の者か?」
 娘は黙っている。口唇を隠す手が震えていた。答えない――それは取りも直さず、彼女が重要な立場にあることを示しているのに。
 アイクは一歩前に出て、娘の左肩に手を置いた。びくりと顔を上げた、その瞳を覗き込む。
「俺たちは傭兵だ。ひょっとしたら、力になれるかもしれない。話してくれないか?」
 娘はアイクの瞳を見つめ返しながら、しばし沈黙を保っていた。
 やがて意を決したように小さく、頷く。
「私を救ってくださった、貴方がたを……信じます」
 その次に続く言葉は、並みのことでは動じないアイクをして、瞠目するほどのものだった。どんなに大変な拾いものをしてしまったのか、ようやく自覚する。
 娘は二人を見ながらはっきりと、こう言ったのだ。
「私の名は、エリンシア・リデル・クリミア。クリミア王ラモンの娘です」
「クリミアの……王女だというのか?」
「はい」
 動揺しているのアイクだけではなかったようで、グレイルの問いかける声も硬い。対して娘――エリンシアは、きっぱりと答えた。そこには先程までのような怯えはない。
 彼女の毅然とした態度に、グレイルも平静を取り戻したようだった。
「そいつは妙な話だな。クリミア王に子供はない筈だが?」
 責めるような口調だった。確かに鵜呑みにはできないが、そんな言い方をせずとも……とアイクはエリンシアの顔を盗み見る。また泣きそうになっていると思ったのに、意外にも微苦笑を浮かべていた。
「私は、次期国王にはレニング叔父様をと決定された後に産まれたのです。混乱を避ける為、存在を公にすることなく育てられました」
「ふん、王位をめぐる骨肉の争いを避ける為か。ありそうな話だな」
 グレイルは鼻を鳴らした。もっともアイクには、『ありそうな話』なのかどうかもよく解らなかったが。
「それじゃあ、あんたが仮に本物の王女だとしよう。国王や王弟がどうなったのか知っていたら教えてもらいたい」
 グレイルの言葉に、エリンシアは眉間に深い皺を寄せた。再び口を閉ざす。だが今度は、先程とは別種の沈黙のようだった。グレイルもアイクも急かさない。彼女の言葉をじっと待つ。
 やがてエリンシアは大きく息を吐き、重い口を開いた。
「父も、母も……亡くなりました。デイン王アシュナードの手に、かかって。レニング叔父様と王宮騎士団の者たちは、今なおデイン勢を相手に戦っているのだと……思います」
「そうか」
 グレイルはそれ以上その件についての言及はしなかった。短く続ける。
「それで、あんたは?」
「私は、レニング叔父様の言いつけに従って、ガリア王国へ向かおうと……」
「ガリアだと?」
 グレイルは眉をひそめた。
 ガリア王国はクリミアの南西に位置する国だ。確かクリミアとは同盟関係にあったと、アイクは記憶している。それで何故、父の声が尖るのか分からない。
「国王カイネギス様が私たちを受け入れてくださる筈だから、先に向かうようにと……。ですがデイン兵に見つかって、護衛の騎士たちを失いました……。今、私の命があるのも……その騎士達が、命を、懸けて……」
 エリンシアはそこまで言って喉を詰まらせ、顔を伏せた。
 二人のやり取りを見ているだけだったアイクだが、たまらず口を開く。
「デイン王は、あんたのことを知っているのか?」
 酷なようだが、王女にここで嘆かせておくだけでは、状況が把握しきれない。彼女を助けようとするならばなおさら、正確な情報を得ることが不可欠なのだ。
 エリンシアにも解っているのだろう。再び目を上げた彼女の声は、驚くほど落ち着いていた。
「はい。何か起きたときの為、各国の王族にのみ知らされていると聞きました」
「ならば、今も血眼になってあんたを捜しているということか……」
 グレイルは独り言のように言って顎に手をやった。
 アイクは頭をかいた。現状を理解することだけで手一杯で、何をどう考え込めばいいのかすらも解らない。
「……グレイル様、アイク様。貴方がたは傭兵だとおっしゃいましたね?」
 突然の言葉に、親子はエリンシアの顔を見た。見ざるを得ないほど、その声は決然とした響きを持っていた。
「お願いします、私をガリアに逃がしてはくださいませんか? 私には、もう……他に頼る相手がいないのです」

 

「クリミアの王女? 本当に?」
 陽は落ち、辺りは暗い。アイクは食堂で喉を潤しながら、ティアマトの問いに、さぁと答えた。
「親父は本物だと考えているような口振りだったな」
 当の本人は、汚れていたようなので、とりあえずミストの案内で湯浴みさせておいた。今は空き部屋で休んでいるだろう。
「アイクはどう思うの?」
 ティアマトが重ねて尋ねてくる。アイクは首を傾げるついでに頬杖をついた。
「分からん。俺には判断材料がないからな」
「それもそうね……」
 ティアマトは呟いた。長い睫毛を伏せて何か考え込んでいる風だ。
 アイクはしばし黙っていたが、やがておもむろに問い返した。
「ティアマトこそ、どう思うんだ? 王宮騎士をやってたんだろう」
「どうしてそれを知っているの!?」
 ティアマトは血相を変えて立ち上がる。あまりの勢いに驚いて手が滑ってしまった。アイクは落ちた顎を手の平に載せ直す。
「ずっと前に、シノンたちが噂してるのを聞いたんだが……秘密だったのか?」
「そうじゃないけど」
 口が軽いんだから、とぼやきながらティアマトも椅子に座り直した。端正な眉を深く寄せている。
「アイクよりも多くの経験を積んでいる分、心配事もたくさんあるのよ」
「クリミア王女のこととか?」
「そう、ね。私自身は王女のことは知らなかったけど……言われてみると、彼女の容姿は国王陛下ご夫妻のどちらにも似ているわ」
 ティアマトはそう言って遠い目をした。アイクはティアマトの視線とぶつからない位置に視線を置いた。
 やはりあの娘は、本物の王女らしい。だがそれよりも問題は……団長ちちはどうするつもりなのか。彼女の依頼を受けるつもりなのだろうか。
 現状を把握しに出掛けたつもりが、現状そのものを左右する拾いものをしてしまったなんて。彼女を助けたこと自体を後悔しているのではないが、難しいことになったと嘆息せざるを得ない。
 アイクが思い悩んでいると、扉が突然開け放たれた。
「た、大変だよ!!」
 ヨファが息を切らせて転がり込んでくる。まだ短い脚で懸命に走ってきたのだろう。どうしたと声をかける前に、ヨファは窓を指差して叫んだ。
「外に、兵隊がいっぱいいる……!!」
「何だって!?」
 アイクの両手が机を叩く。一拍遅れて椅子が後ろに倒れる。
「グレイル団長が、作戦室に集まれって……」
 ヨファが震える声で呟いた。
 ……そうだ。ここで自分が取り乱しては、いたずらにヨファの不安を煽る。アイクは大きく息を吐いて、振り返った。
「分かった。すぐ行く」
 ヨファの頭をくしゃりと撫でる。ヨファも気丈に頷き、拳を握り締めた。
「じゃあぼく、お兄ちゃんたちさがしてくる!」
「頼んだぞ。行こう、ティアマト」
 部屋を出る。ヨファは二人と逆方向に駆け出していった。すぐに廊下の向こうからボーレの叫び声が聞こえてきた。
 じきに三兄弟も来るだろう。アイクはティアマトと共に作戦室に急いだ。

 

「クリミア王女をただちに引き渡し、この地を去れ。さもなくば攻撃を開始する」
 グレイルは腕組みし、嘆息した。
「――だ、そうだ」
 団員の揃った作戦室。当事者エリンシアだけが、不在。
「これではっきりしましたね。彼女が本物のクリミア王女だと」
 セネリオが呟いた。グレイルは頷き、皆を見渡した。
「団そのものを左右する問題だ。全員の意見を聞きたい」
 まず意見を求められたのは副長であるティアマトだった。澱みなく答える。
「今回の戦いはデインに非があります。それを承知で味方すれば、団の名に傷がつくでしょう。将来の依頼主に与える信用を考えても、ここはクリミア王女を送り届け名声を高めるべきだと考えます」
「私も副長の意見に賛成です」
 オスカーも前に進み出た。
「王女をデインに引き渡すということは……その命をも引き渡すことになりますから」
「おれもこっち。助ける方が断然カッコいいって!」
 ボーレは拳を握り締めた。あからさまに眉をひそめたセネリオに、グレイルが問う。
「お前はどうだ」
「考えるまでもありません。王女をデインに引き渡すべきです」
 セネリオは臆面もなく答えた。続ける言葉にも一切の遠慮はない。
「我々は傭兵です、傭兵は義ではなく利によって動くもの。我が団の安全を確保し、更に勝者のデインに恩を売る。これほど、利のある話もないと思われますが」
「このクソガキは気に喰わねぇが、こっちに賛成」
 シノンは肩をすくめた。多少おどけた風を装ってはいるが、全身から滲む不機嫌は隠しようがない。
「大体、行き先がガリアって時点でありえねぇ。あんな半獣共の国、いくら金を積まれても御免被りますよ」
「エリンシア姫か~……ああいう『美女』って感じも悪くないんだけど、好みとしてはもうちょい可愛い方が、こう……じゃなくって! おれは団長が決めたことに従います! はい」
 ガトリーの奴、珍しく真剣に悩んでいると思ったらそんなことか。アイクは呆れて文句を言う気も起きない。最後は真面目に敬礼して見せたのだが、それがかえって滑稽に映る。
 グレイルは、ずっと俯いて黙っているキルロイにも声をかけた。
「お前は? キルロイ」
 キルロイは顔を上げた。飴色の瞳は、普段の彼に似合わぬ光を宿していた。貫くような強さでグレイルの目を見つめる。
「僕は、彼女が王女であるかどうかは関係ないと思います。困っている人を見捨てることなど、すべきではないと……そう考えます」
 答える声は小さかった。だが響きはこれ以上ないほど、明瞭だった。ヨファとミストも叫ぶ。
「そうだよ! 助けてあげようよ!」
「わたしからも、お願い!」
 これで発言していないのはアイク一人だ。全員の視線を浴びながら、アイクは大きく息を吸い、吐いた。
 視線を上げ、ずっと決めていた答えを告げる。
「ティアマトの意見に賛成だ。王女を助け、ガリアを目指そう」
 セネリオの意見も解る。シノンの意見はよく解らないが、気持ちは何となく伝わった。だが賛同はできない。かといって本当は義だとか王女だとかそういうことでもなくて、キルロイの考えとも何処か違う気がする。
 ただ曲げてはいけない何かが、その決断を当然のように自分に求めるから。手を貸すことを、選ぼうと思う。
「みんなの意見はよく分かった。決を伝えよう」
 グレイルが重々しく言った。息を呑み、続きを待つ。
「我々は、王女をガリアまで護衛する」
 一瞬あって。ミストたちは手を取り合って喜び、キルロイたちは胸を撫で下ろした。
 セネリオは目を伏せて髪をかき上げた。シノンは首をかきながら舌を鳴らした。
 アイクは二人を横目に見ながら、グレイルに耳打ちした。
「……本当に、それでいいのか? 親父」
 自分で言っておいて何だ、とは思う。だが皆と違って確かな言い分がある訳ではなく、言わば直感だった訳で、実際そうしようとなると不安にはなる。グレイルは見透かしたように笑った。
「ああ。どのみち、もう選択の余地はなくなったようだからな」
「え?」
 疑問符を浮かべるアイクの前で、グレイルは右手を自分の耳に添えた。
「ほら。全員、耳を澄ましてみろ」
「……っつっても」
「何も聞こえないけどな……」
 沈黙に耐えかねたのは、口から生まれたようなボーレとガトリーだった。シノンが二人を怒鳴りつける。
「バカ野郎! それが問題なんじゃねぇか!!」
 二人は腑に落ちない表情だ。オスカーが頷いて、外に首を向ける。
「獣たちだけでなく、虫の声まで聞こえない。これはいくら何でもおかしい。つまり……」
 アイクは全員の気付きを代弁するように、叫んだ。
「デイン兵に――囲まれた!?」
「どうやら、最初から約束を守る気なんてなかったようね」
「我々を油断させ、この砦ごと始末といったところでしょうか」
 ティアマトは苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、セネリオはいやに冷静だった。彼のことだから、もとよりその可能性も考慮済みだったのかもしれない。
 そしてグレイルも。
「こっちもそれに乗ってやるほど甘くはない」
 余裕の表情で言い放つ。
「全員、配置につけ! 一気に片付けるぞ!!」
 威勢のいい鬨の声が返る。雰囲気を一変させた団員たちが動き出す。
「裏口は俺が押さえよう。アイク! 入り口は任せたぞ」
「分かった!」
 今度は自分でも驚くほど素直に、承諾の言葉が口をついた。立ち去ろうとする背に声をかける。
「気をつけろよ、親父!」
「そうしよう」
 グレイルは肩越しの不敵な笑みを残し、姿を消した。アイクは隅の方にいる子供たちを振り返る。
「ミスト、ヨファ! お前たちは王女についていてやってくれ」
「うん! 分かった!!」
「みんな、気をつけてね!!」
 二人を見送った後、アイクは剣の柄に手を置いた。こうしていると、気分は高まるのに思考は落ち着いていく。揺るぎない足取りで先頭を歩き出す。
「さぁ、出よう!」
 アイクのまだ幼い頃からこの砦は傭兵団の家であり、庭は訓練場、そして遊び場だった。
 目をつぶっていても歩ける。松明を持って近づいてくるデイン兵など、格好の標的でしかない。王女を傷つけることを恐れてか、火矢を使ってこないのも幸いだった。
 アイクたちは、ほどなくデイン兵を撃退した。
「これで完全に、デイン兵を敵に回したな」
 アイクは自分の身体を見回しながら呟いた。暗くて気付かなかったが、こうして室内で見ると返り血だらけだ。
 随分斬ったらしい――おかげで全員無事なようだが。
「休んでいる暇はないぞ!」
 裏に回っていたグレイルも戻ってきた。服があまり汚れていないのは、恐らく敵が少数だったせいではない。
「全員、荷物をまとめろ! 敵の増援が来ないうちに脱出する!!」
「了解しました! ボーレ、こっちだ」
「あいよ、兄貴っ!」
 グレイルの声を聞き、最初に動き出したのは長兄と次兄だった。ミストが慌てて末弟の手を引く。
「ヨファ! わたしたちも急ご、日持ちする食べ物いっぱい詰め込まなきゃ!」
「う、うん!」
 子供たちが部屋を飛び出す。更にグレイルの指示がとぶ。
「ティアマト! お前はシノンとガトリーを連れて先行し、樹海までの安全路を確保してくれ」
「了解しました!」
「おらボサっとしてんなクソデブ、行くぞ」
「ひどいっすよシノンさん、これは鎧と筋肉ですってば!」
 三人減って、残りも三人。うち一人がまた呼ばれる。
「キルロイはこっちを手伝ってくれ。必要な書類を選り分ける、残りは全部燃やすぞ」
「は、はい!」
 キルロイもグレイルも行ってしまった。と、思ったら廊下の向こうから声。
「アイク! 王女のことはお前に任せるぞ!」
「分かった!」
 叫び返す。指示を受けていないのは、あと一人。
 エリンシアは目覚めたときと同じように、所在なさげに立ち尽くしていた。ティアマトに借りた服は緩いのだろう、上着の袖も下衣の裾も折ってある。額飾りを外した髪といい、その姿だとどうやら普通の娘に見える。
 そういうもの、なのかもしれない。畢竟、ひとというものは。
 アイクは廊下の方へ歩き出した。
「俺はあんたの分の馬を用意してくる。あんたは……そうだな」
 手招きする。エリンシアが小走りで隣にやって来てから、廊下の奥を指差した。
「ここの突き当りを右に行くと階段があるから、そこを降りて食料庫へ」
「え……」
 エリンシアはアイクの顔を見上げた。その目は不服というよりも、困惑の色が強い。アイクはまた言葉足らずだったことを覚り、肩をすくめた。
「ミストたちを手伝ってやってくれ。ただ待ってるより、あんたもその方が気が紛れるんじゃないか?」
「……はい! 分かりました!!」
 エリンシアはぱっと顔を輝かせ、大きく頷いた。ぱたぱたと駆け出していく。
 アイクも部屋を出て厩に向かった。外気に触れ、何の気なしに空を見上げる。先程はそれどころではなかったので、気付かなかった。
 今夜は星が一つも出ていない。