第一章 開戦 - 2/6

SIDE:Ike

 

非力

 

「腹、減ったな」
「だな」
 アイクとボーレはテーブルに突っ伏したまま、呟いた。
 傭兵砦の食堂。本日も春の陽はうららか。傍で本を読んでいたオスカーが顔を上げる。
「二人共、今食べたばかりだろう」
 アイクたちは、がばと上体を起こし反論する。
「仕方ない、成長期なんだ。なぁボーレ」
「そうだよな、食わねぇと身体が出来ねぇよ。なぁアイク」
「……君たち、料理を作る側の気持ちになったことはあるかい」
「あるさ。だからいつも残さず食べてるじゃないか。なぁボーレ」
「おかわりまでしてるじゃねぇか。なぁアイク」
 オスカーは嘆息し、難しそうな本を卓に置く。
「それなら果物でも剥こうか、あまり数がないから二人で一つだよ」
「さすがオスカーは話が分かるな」
「何たって、おれの自慢の兄貴だからな!」
「まったく調子のいい……」
 オスカーが呆れた様子で腰を上げたとき。
「た、大変だよみんな!!」
 飴色の髪を乱して、一人の青年が飛び込んで来た。ボーレが椅子を鳴らして立ち上がる。
「キルロイ! 身体はもういいのか」
「あ、うん。熱も下がったし、おかげ様で……って! それどころじゃなくて!」
 青年――キルロイは腕をぶんと振った。平素から白い肌が、蒼に近い程になっている。口唇も紫色だ。
「ミストと、ヨファが……! さ、山賊団にさらわれたんだ!!」
「はぁッ!?」
 ボーレが大声を上げる。
「ど、どういうことだよ!? あいつら、野草摘みに行ってる筈じゃ……!!」
「そこを捕まったみたいなんだ。さっき門の所で預かった手紙が、実は脅迫状で……ミストたちを助けて欲しかったら、この間の山賊退治に参加した団員が来いって……!!」
「報復という訳か。子供をさらうとは、何と卑怯な……!!」
 オスカーは呟いた。普段ほとんど怒りを露わにしない彼の拳が、震えている。
 キルロイは件の手紙らしいものを、泣きそうな顔で握り締めた。
「悪い人には見えなかったのに……」
「いや、まぁ、キルロイにかかれば悪い奴の方が少ないっていうか。とりあえずお前のせいじゃねぇから、な?」
 ボーレがキルロイをなだめている間に、アイクは部屋をするりと抜け出した。やることはひとつだった。部屋に戻り、戦支度を整える。
 食堂に戻ると、そちらもすっかり鎧を着込んだオスカーが、眉をひそめてアイクを見た。
「アイク。そんな格好で何処に行くつもりだい」
「決まってるだろ。ミストたちを助けに行く」
 あんただってそのつもりなんだろう、と視線でオスカーに訴える。キルロイがボーレとの会話を中断させ、アイクに駆け寄ってきた。
「待ってよ。ティアマトさんは、すぐに戻るからみんなは戦闘準備をして待ってるようにって……!」
「そんなこと言ってる場合か? 俺はもう行く!」
 アイクはキルロイを振り切って飛び出していく。自分の足の速ささえもどかしい。
 今はグレイルもティアマトも外している。頼れる者はない。この瞬間も、妹たちは恐ろしい思いをしているはずなのだ。
 しかし二股に分かれた道で、アイクは立ち止まらざるを得なかった。
 そういえば、指定の場所を聞いていない。キルロイから手紙を受け取ってくるんだったと、アイクは歯噛みしながら両の行先を睨みつける。迷っている時間すら勿体ないが、間違えればそれこそ致命的なロスになる。
 どうする。一か八かで行くか?
「左だよ」
 突然の声に振り返れば、愛馬に乗ったオスカーがいた。背中に死にそうな顔のキルロイがしがみついている。遠くからボーレの怒鳴り声が聞こえてくる。
「分かった」
 アイクはそれしか言わずにまた走り出す。オスカーの馬が先導するように前に出る。
 結局、オスカーも弟が心配なのだろう。だったら言い争う時間こそ無駄だ。
「って! おれを置いてくんじゃねぇ!!」
 ボーレはこの際無視。どうせそのうち追いついてくる。
 この間の、変に落ち着いた初陣とは気分がまるで違っていた。張り裂けそうな心臓で、アイクは妹の元へ全力で急ぐ。

「おいっ、誰か出て来い!!」
 やっと辿り着いた盗賊団の根城を見上げ、アイクは叫ぶ。
 男が一人出てくる。この間のと似たり寄ったりで区別がつかない。似た生活をしていると、顔まで同じになるのだろうか。
「よく来たなてめぇら! それだけの人数で来るとは、俺達も随分ナメ」
「ミストとヨファは無事か!?」
 賊の台詞を最後まで聞いてやるほど、アイクの気は長くない。
 部下らしい男が怒っているが、首領はもう少しだけ器が大きいらしい。落ち着いた口調で言う。
「無事だ。こちとら、あのガキ共に恨みはねぇからな」
「だったらさっさと解放しろ! おれたちが来たんだ、もう用済みだろ!?」
 合流したボーレが声を荒げた。首領の口唇が歪む。
「まだだ。あのクソ生意気な赤毛女が来るまでは、預かっとくぜ」
「くそ……ッ!!」
 アイクは口唇を噛んだ。ティアマトが来るまで待たされるなら、飛び出してきた意味がないではないか。
 しかし幸か不幸か、せっかちなのは向こうも同じようだった。
「とりあえず、てめぇらだけでも片付けとくか。おい、出て来いや!!」
 声に合わせ、根城の中からわらわらと山賊が出て来た。まるでカマキリの孵化だ。オスカーが一歩前に出る。
「キルロイ、君は下がって。誰かが負傷したら治療を頼む」
 頷き、キルロイが下がる。アイクとボーレはキルロイの両側についた。
 首領が叫ぶ。
「かかれ野郎共! 赤毛女さえいなけりゃ、あいつらは雑魚だ!!」
「何だとコラァァァ!!」
 ボーレが斧を振り上げた。アイクは抜き放った剣を首領に向ける。
 もう心臓はうるさくない。あれだけ急いだのに疲れもない。頭は驚くほど冷静で、気持ちも十全だ。仕損じることなど万が一にもないと思った。
 低い声で言い放つ。
「その台詞、後悔させてやる」
 戦闘が始まってから程なく、ティアマトが加わった。
 それまでも決して劣勢ではなかったものの、彼女の登場から状況が一変。既に首領らしき男を討ち取り、残りは散り散りに逃げて行った。
 先日と合わせ首領格二人を潰したのだ。この盗賊団はもう終わりだろう。そもそも人質を取るような賊。恐るるに足りない。
「よし! 何とかなったな」
「いや、何つーか、おれたちつえーって!」
 アイクとボーレは満足げに武器を納める。そこへティアマトが、ぴしゃりと言い放った。
「いい加減になさい! 貴方達は、明らかな命令違反を犯したのよ。結果よしならいいという話では……」
「副長、私がついていながら申し訳ありませんでした。ですが今はヨファ達の安否が」
 オスカーが遮る。冷静を装っているが、内心かなり焦っているのが見て取れた。ティアマトは嘆息し、みすぼらしい小屋の方を見る。
「そうね。恐らくあそこに――」
「いやぁ! 放して、放してってばぁ!!」
 甲高い声。少女の悲鳴。あれは。
「ミスト!?」
 小屋に駆け寄る。大男が出てきた。両脇にそれぞれ、ミストとヨファを抱え込んでいた。右手には鈍く光る斧が握られている。
「貴様っ! 二人に何かしてみろ、絶対に許さんっ!!」
 アイクは激昂して叫んだ。男は激しく頭を振る。
「うるせぇッ! うるせえうるせえうるせえッ!! こいつらの命が惜しかったら、とっとと武器をこっちに放りやがれ! じゃねぇとこの娘ッコから順に……」
 ミストが絶叫して身をよじる。無論そんなことで逃げられはしない。そうできるなら、もう既に実行しているはずだった。
 だったらもう、あの斧がミストを傷つける前に無力化するしかない。アイクは柄に手をかける。
「――待って!!」
 ティアマトがそれを押し留めた。訝しげな顔で動きを止める、アイクと山賊。
「武器を渡すわ。……ほら」
 ティアマトは無表情で斧を放り投げた。呆気に取られていた男は状況を解し、引きつった笑みを浮かべる。
「へ……へへっ。いい心がけだぜぇ、女ァ!!」
「二人を助ける為よ。みんな、従ってちょうだい」
 アイクたちも、毒づきながら武器を捨てた。男の笑いがいよいよ大きくなる。
「よーし、これでてめェらは丸腰だ。つまり俺がこのガキを仕留めるのを、黙って見てることしか出来ねーってこった!!」
 非道な斧が、振り上げられた。
 恐怖に歪むミストたちの顔。飛び出していくヨファの兄たちの背中。踏み出す自分の足。
 全てがひどく遅い。浮遊感に似た、非現実的な感覚。
 嘘だ。嘘だ。嘘だ。こんなこと、起こる筈がない。俺たちは間に合ったじゃないか。二人は、無事で、
 違う。……違う。違う、これが現実。何でこんなに遅いんだ。動け、俺。助けるんだ! 絶対に、たすけ、
 ――そしてアイクの横を駆け抜けた、一筋の風。
「え……?」
 軽やかに、だが深々と、男の顔に矢が突き刺さる。男の身体が生命の力を失って崩れる。時間が再び動き始める。
「ヨファ!!」
 ボーレが騒いでいる。ミストが、だいじょうぶ気絶してるだけ、となだめている。
 全身から急激に汗が噴き出した。額を拭いアイクは呟いた。
「一体誰が……」
「眉間に一発命中させる達人技! オレ様以外にいねーだろうがよ!?」
 傲慢な響き。振り返ると、高く結い上げた深紅の髪を、風になびかせている男。
「シノン!」
「感謝しろよ、ガキ共?」
 にやりと笑って、シノンは弓を肩に載せた。
 その背後で金属の音がうるさく響き、鎧の男が姿を現す。
「ひ、ひでぇよ、副ちょ、も、シノン、さ、も……。おれの鎧、じゃ、んなに、早く……走れね、ての、に」
 蜂蜜色の髪を逆立てた男は、ぐったりと座り込んだ。アイクは驚きを通り越して、呆れたような心持になった。
「ガトリーまで……! じゃあ、ティアマトは」
「援軍を呼びに行ってたのよ」
 ティアマトは微笑んだ。
「無駄にならなくてよかったわ。御苦労様、二人共」
「ま、オイシイところを戴けたんだ。急いで来た甲斐はあったさ」
「おれは、しんどかっただけ、なんすけど」
 シノンは肩をすくめ、ガトリーは切れ切れに愚痴った。
「お兄ちゃん!」
 ようやくミストが駆け寄ってくる。抱きしめてやろうにも、今までのことで服は返り血だらけだ。手袋を外し、頭を撫でてやった。
「よく頑張ったな。恐かったろ?」
「ううん! 信じてたもん。お兄ちゃん達が来てくれるって、信じてた! だから……全然平気!」
「そうか。ま、いつもみたいに鼻水たらしてベソかいてないだけ、上出来だ」
「ひどーい! わたし、鼻水なんかたらさないもん!!」
「そうかそうか。鼻汁か。それは悪かったな」
「もー、お兄ちゃんのバカ!!」
 ティアマトが傍で、くすくすと笑っていた。もう厳しい副長の顔ではない。
「さぁ、帰りましょう! まったく、大変な一日だったわね」

 

「……お兄ちゃん。起きてる?」
 その夜、アイクが部屋でぼうと寝転んでいると、ドアの向こうからミストの声がした。開けてみれば枕を抱いて立っている。
「一緒に寝てもいい?」 
「ティアマトのとこじゃなくていいのか?」
「うん」
 部屋の中に入れてやる。
 こんなことを言い出すのは何年ぶりだろう。今日ぐらいは仕方ないか。
「寝小便するなよ?」
「する訳ないじゃない!」
「どうだかな。前に親父のベッドに潜り込んで、広大なテリウス大陸の地図を……」
「やだやめてよ! 一体いつの話してるのよ?」
「大声出すなよ。もう夜だぞ」
 あらためて寝転がる。もう、と言いながらミストも横になる。
「……ねぇ。お兄ちゃん」
「ん?」
「初めて、人が死ぬのを見た日のこと、覚えてる?」
 低めた、小さな声だった。アイクも合わせて、声を絞った。
「いや。覚えてないな。ずっとそういう環境だったから」
 そう答えてから、言い直す。
「ティアマトが来てからは、ほとんどなくなったけど」
 兄妹の父が就いているのは、とかく恨みを買いがちな職業だ。今回のように復讐を企てられることもよくあるし、常に命を狙われている。
 ティアマトが来てから、父は子供を預けて一人戦うようになった。だがそれまでは一番傍で守っていた。つまり子供の目の前で人を、殺していた。それが一番安全なのだから仕方ないと、アイクにもミストにも解っていたけれど。
「わたしもね、覚えてないんだ」
 でもね、とミストは俯いた。
「あんなに傍で見たのは、初めて」
 アイクは黙っていた。ミストの頭を抱え込む。
 最初は静かだったが、ミストの肩はやがて小刻みに震え出した。
(……恐くないなんて)
 恐くなかったなんて。そんな筈が、あろうか。
「ごめんな。ちゃんと助けてやれなくて。えらかったな。ミストはヨファよりお姉ちゃんだもんな。頑張ったよな」
「がんばった……? わたし……」
「ああ、がんばった。もう大丈夫だ。俺しか見てないから、今は『お姉ちゃん』やめていいぞ」
「お兄ちゃぁ……ッ!!」
 部屋にはミストの泣きじゃくる声だけが響いていた。やがてそれが止むと、アイクはきつく目を閉じた。
 強くなる。もう恐い想いなんてさせないから。動けないなんて情けないことがないように。もっと、ずっと強くなるから。
 彼もまた、ゆっくり眠りへと落ちていく。