14話 Faker’s Foolish Fest. - 8/10

新月に焦がれた愚者の告解

 文化祭の一日目が終わり、朔夜は坂野と帰路についた。
 友人に固められた髪が気になって、指先でしきりに触る。ベリーショートにしていた中学時代より額が無防備で落ち着かない。
 さすがに今日はセーラー服はないなとジャージで登下校。坂野とは身長もさして変わらないし、傍からは男同士で連れ立って歩いているようにしか見えないだろう。
「朔夜さん。少し話していかない?」
 すっかりいつもになったコースの途中で、坂野は遠慮がちに別の道を指差した。新田侑志も通る遊歩道の方角だ。朔夜は迷ったけれど結局頷いた。いまさら見られて狼狽する筋でもない。
 ベンチに座って待っていると、坂野が駆け戻ってきてコーヒーとカフェオレの缶を差し出してきた。
「お待たせ。どっちがいい?」
 コーヒーの香りが少し苦手であることを言い出せず、礼と共にカフェオレを受け取る。坂野は隣に腰を下ろし、ブラックコーヒーのタブを起こした。
 飲み物にしろ食べ物にしろ、坂野は極力混ぜもののないプレーンなものを好む。格好つけでブラックを選んでいるのではないと知ったのは、ここ二週間のことだ。
「それで、話って?」
 朔夜は鼻呼吸を止めてカフェオレを喉に流し込んだ。独特のえぐみとミルクの脂が舌に残る。
 うん、と坂野は黒い缶に口をつけた。
「オレ最近、中学のときの朔夜さんのことよく思い出すんだ」
「私たちそんなに話したことないよね。あの頃」
「うん。オレが一方的に見て、噂を聞いてるだけだったよ。椿としょっちゅうケンカしてるところとか、不良たちと殴り合いになって一人で勝ったとか、体格のいい高校生とつるんでるとか。勇ましい話ばっかり」
 隣でくすくす笑う坂野。朔夜は首を傾げる。そんなに暴れた覚えはないのに。父に教わった『初撃でカシラを潰す(手、特に利き手は使わない)』を徹底したから、同じ面子と二度以上やり合うことはほぼなかった。不本意だが、椿(つばき)直也(なおや)の『自分以外の人間が桜原姉弟に手出しするのは許さない』という姿勢に守られた部分もある。あとの噂は、森貞(もりさだ)(と雪枝(ゆきえ))とよくコンビニに寄っていたせいか。
 坂野は遠くを見て過去形で言った。
「本当に、名前どおりの人だなと思った。こういう風に生きていく人は眩しいなって、ずっと憧れてた」
「『朔夜』って、新月の夜のことなんでしょ。皓汰が言ってた。眩しいどころか真っ暗だよ」
 そういう意味では名前どおりの人生だけど、と朔夜は自嘲した。
 坂野は朔夜を見ないままくすんだ空を仰ぐ。朔夜も視線を追ったがその先には何もない。
「オレの父方の実家、すごい山奥にあるんだ。外灯とかも何もなくて、新月の日の地上なんて何も見えたものじゃない。でも空は逆なんだよ」
 坂野が手を伸ばす。朔夜も天に目を遣る。太陽の見えない灰色の空。
「新月の夜は黒が澄んでる。空が宝石をばらまいたみたいに華やかな模様になるんだ。普段は見えていなくても、宇宙にはこんなにたくさん星があるんだって知ったとき、悲しくないのに涙が流れた。月や太陽みたいに分かりやすく大きな光がなくても、綺麗な世界はちゃんとそこにあるんだって、子供心に感動した。だからオレは朔日の夜空が一番好きなんだ」
 懐かしむ口調に共鳴できず、朔夜は黙って目を凝らした。
 都会の、高葉ヶ丘の夜しか知らない瞳にはその美しさが届かない。覚束ない星だけが朔夜にとっての夜だった。
 彼の心に刻まれた景色を分けてほしくて、朔夜は缶を利き手に持ち替え坂野の左手に触れる。
「どうして、そんなこと急に?」
 その話をもっと早くしてくれたら、朔夜も坂野にもっと興味を持てていたはずだ。少なくとも、『手のかかるチームメイト』以上には。
 坂野は視線を下ろして、朔夜の右手を握り返した。今までで一番強い力で。一番切ない温度で。
「オレが、君にとって不純な外灯だから」
 朔夜は意味が解らなかった。解りたくなかった。
 坂野の声がだんだん震えていく理由も。
「ごめん。君がどんどん曇っていくのは見えていたのに、隣にいられることが嬉しくて何も言えなかった。勝手で、ごめん」
「謝んないでよ」
 朔夜も坂野の手を力の限りつかんだ。薄い言葉で誓う代わりに。
 笑いかけたい。安心させてやりたい。それでも口許はひきつって笑みのかたちを成さない。
「坂野は私が好きなんでしょ? 私だって、坂野のこと好きになろうって」
「朔夜さん」
 坂野は左手をぐっと前に出した。思わず緩んだ指の隙間から、乾いた手がすり抜けていく。
「オレは君が好きだから頑張れた。でも逆はないんだ。頑張ったから好きになれる恋なんてないんだよ。もうやめよう? コーヒーも甘いものも、本当は好きじゃないよね」
 カフェオレの缶が高い音を立てて落ちる。白茶けた染みが道に広がる。
 張れる虚勢を失って、朔夜はただ風の音越しに坂野の声を聴く。茂みの揺れるようにかさついた声を。
「オレは、君のことが好きだ。大好きなんだ。君を支えていきたかった。してあげられることは全部してあげたかった。何もできなかったけど。できることなんてもう何もないけど」
 雲から一条の光が射し込む。
 朝の訪れに似た輝き。『輝旭(てるあき)』。眩しい名前を持つ少年が、最も遠い『朔夜』に向けて消えそうに微笑む。
「だけどあそこにはいさせて。君たちの仲間でいることだけは……許して」
「ばか。入学したときからずっとそうだったよ。これからも」
 朔夜は坂野を抱きしめた。
 坂野は朔夜の腕にそっと触れただけだった。
 家に上がること、キスをすること、これまで深い接触を断ってきたのと同じように。
「ありがとう。坂野」
 ずっと君を誤解していた。誤解していると気付きたくなかったから。
 もっと早く君の優しさと向き合えばよかった。
 もっと、君を傷つけないかたちで。
「私、坂野のことたくさん知れてよかった。好きになってくれて、守ってくれて、ありがとう」
 見計らったように鳴る電話と、表示される発信者。
 坂野に促されて覚悟を決める。
 何十年経っても嘘はつききれないのだろう。知らないふりを都合よく続けることなどできない。
 父が母といた二十年、『彼女』を忘れられなかったように。