14話 Faker’s Foolish Fest. - 7/10

嘘つきたちのお祭り 2

 九月十五日、文化祭一日目。
 一年B組の出し物は縁日だ。クラスメイトに伝手のある生徒がいて、出店の設備を借りている。型抜きや輪投げなど簡単なものは買いそろえ、なかなかにそれらしくなった。
 リーダーから『持っている人は浴衣、最低でも和風な格好』とのお達しがあり、侑志たちもそれに従っている。
 皓汰の茶の格子柄の浴衣は、彼の祖父が日常的に着ていたものらしい。和顔が映えて時代劇の優男みたいだ。侑志は以前、祭の日に着損ねた浴衣。グレーの縞に紺の帯。二人とも侑志の母に着つけてもらって、浴衣にスニーカーで登校した。今は室内用に買った新品のサンダルを履いている。
 昨日休んで備えたのに、侑志のコンディションは新人戦の日並みに悪い。
「侑志、すごい顔赤いよ。また熱あるんじゃないの」
 皓汰が扇子で扇いでくれるが、焼け石に水というやつだ。体温など恐ろしくて測っていない。侑志は浴衣の襟元をばたばた動かす。
「普通にあちぃだけだから、別に平気」
「いや、他人に顔色指摘される時点で平気じゃないことを認めなよ。いいから水飲んできて」
 強がりはきつい口調で一蹴された。侑志は抵抗を諦め、隣の空き教室に移動した。
 侑志が朔夜とぎこちなくなってからも、皓汰は変わらない態度で接してくれる。だって俺たちの人間関係は朔夜から独立してるでしょ、とまた小難しい言い回しをしていた。むしろ当の姉とぎくしゃくしているようだが、今の侑志に指摘する権利はない。
 水筒から水を三杯飲み、侑志はB組に戻った。皓汰が一人で接客している。黒いワンピースの少女――誰かと思えば柚葉だ。
「柚葉。迎えに行くって言ったじゃん」
 歩み寄っていくと、柚葉が頬を膨らませて立ち上がった。
「三回も電話したのに出なかったじゃない」
「あ? あー」
 侑志は眉をひそめて袂に手を突っ込む。携帯電話をマナーモードで入れっぱなしにしていた。確かに着信ランプが光っている。
「ていうかやっぱり顔真っ赤だし。そこ立ってて。腕ちょっと広げて。動かないでよ」
 柚葉はストローバッグから長い紐を取り出す。わけが分からないうちに袖をまとめられた。あまりに鮮やかな手つきだったので、知らない人たちからも拍手されてしまった。
 柚葉が面映ゆそうに苦笑する。
「浴衣って聞いたし、暑がってると思ったから。少しは違う?」
「だいぶ楽。ありがとな」
 たすきで腕が出た分涼しい。侑志は喉元に手を当て息を吐いた。
 手が空いているらしい浴衣の女子たちが、いきなり駆け寄ってくる。
「ね、ね、もしかしてこのコ新田君のカノジョ?」
「そうだけど」
 聞かれたから答えたのに、きゃーっと叫びながら戻っていった。失礼だし何がしたいのか分からない。柚葉は何事もなかったように皓汰を振り返る。
「皓汰君もやる? もう一本あるよ」
「だいじょぶっす」
 皓汰はあっさり答えて袂を帯に挟んだ。無表情だが声色にとげはない。
 侑志は頭をかいて、柚葉が馴れ馴れしい理由を弁明する。
「悪い。俺が『皓汰』って呼ぶから移ったみたい」
「そういうのもだいじょぶっす」
 今のは苛つかれたようだ。やはり顔は変わっていないが。
 柚葉がヨーヨーすくいをやりたがったので、マニュアルどおりにやり方を説明した。皓汰が渡したこよりはすぐに切れた。参加賞にひとつ選んでと言うと、柚葉は白い水風船を欲しがった。
 侑志の当番はあと十五分残っていたのだが、
「ここはいいから、新田君カノジョさんと回ってきなよ!」
 とさっきの女子たちに背中をはたかれ抜けることになった。何か言いたげな皓汰へ、ヨーヨーを人に渡すときは必ず水を拭うようにと言い置いて廊下に出る。
「つーかそのカッコどしたの。いつもと雰囲気違うじゃん」
 侑志は柚葉の姿を下から上へ眺める。
 右側に華やかな桜模様が入った、黒い膝丈のワンピース。髪はシンプルな簪でまとめてある。柚葉は口を尖らせてウエストのリボンをいじった。
「なによ。浴衣の人と並んで歩いてもおかしくないように作ったんじゃん」
「作った? わざわざ?」
「そうだよ。簪は友達に借りたけど」
 浴衣を着ることを教えてから二週間しかなかったのに。侑志は小さくうなって顔を背けた。
 柚葉は健気な女の子だと思う。だが献身に直面するたび侑志は息苦しくなる。危うさばかりが目立って素直に感動できない。
 黙った侑志の手を柚葉がつかんだ。
「いいから行こ。あたし回りたいとこいっぱいあるんだから」
 真っ赤な顔とつっけんどんな口調。侑志は弱い力で握り返した。
 何のためらいもなく俺の左手を取るんだなと、詮無い言葉が浮かびかけ慌てて笑顔で打ち消した。
「どこ行きたい?」
「えっと、まずここ。超見たい」
 パンフレットを差す指。爪も艶やかな赤に塗られて……ではなく。
 侑志は渋い顔で首をかいた。
「マジでここ?」
「いやなの?」
「そういうわけじゃないけど」
 お望みの『男女逆転喫茶』は二年A組の出し物だ。
 朔夜のクラス。内容はどうでもいいが、座らなければいけないから逃げ場がない。
 いや、逃げる必要もないのか。元々赤の他人だ。
「いいよ。行こう」
 A組側の階段を下りて二年生のフロアに行った。
 柚葉が弾んだ声を出す。
「あれメイドさんじゃない? すごーい、テレビでしか見たことない」
「メイド?」
 視線をめぐらせると、見慣れない格好の人がいた。足首まで覆うボリュームのあるスカートに、白いフリルのついたエプロン。ヨーロッパの侍女みたいだ。
 侑志よりも明るい茶髪と、陽に透けるうなじと、鼻筋のすっと通った横顔。既視感は気のせいだろうか。
「あ、こっち向いたよ」
 メイドはこちらに首を向けると、つかつかと歩み寄ってきた。近くで見ると案外背が高い。可憐な微笑みに目を奪われた刹那、ものすごい力で掃除用具入れの陰に引きずり込まれた。
「お、ま、え、は、どの面下げて女連れでうちのクラスに来るかな!」
「え、は?」
 声が思ったより低い、というか聞いたことがある。
 紅を引いた口唇の形、不機嫌に細まった瞳の色……二年A組、『男女逆転』喫茶。
 ようやく思い至った侑志は小声で彼の名を呼んだ。
「八名川さん?」
「キミ、もしかしなくても今の今まで気付いてなかったよね」
「すみません、その、全然分かんなかったです。すごい綺麗だから」
「知ってる」
 八名川はしかめ面で髪をかき上げようとして途中で止めた。シニヨンのウィッグがずれてしまうからかもしれない。というか、野外でスポーツをしていてどうしてそんなに白いのだろうか。メイクしているにしても透明感がありすぎる。
 八名川はエプロンのポケットに手を入れ、疑問だらけの侑志の手に何かを押し付けた。
「あと五分でいいからどっかで時間潰してきな。でこれ受付の女の子、じゃない、執事に出して」
 握らされた紙切れには『アイスコーヒー』『アイスティー』と書いてあった。食券らしい。侑志は驚いて突き返そうとする。
「これ買うやつでしょ? もらえませんよ」
「先輩にカッコつけさせない後輩かわいくない。いいから早く行けっての」
 八名川は舌を出し、さっときびすを返した。離れた場所で目を丸くしている柚葉には、スカートを持ち上げてしとやかに会釈。抜け目ない。
 柚葉が駆け寄ってきて侑志の腕を引く。
「今の男の人なの? 衣装もメイクもすごいクオリティじゃん。早く入ろうよ」
 瞳の輝き方が母とファッション談義をしているときと同じだ。この状態の柚葉を説得するのは骨が折れる。どうしたものかと思案していたら二年A組から誰か出てきた。
 細身のスラックスに黒いベスト。服装が違っていてもこの人は見間違わない。
 朔夜だ。鋭利な視線は別の方に向いており、侑志たちには気付いていないようだ。行き過ぎてくれることを願ったが、廊下を走って来たTシャツ姿の坂野と目が合った。お互いに固まる。坂野の異変に気付いた朔夜も振り向いてしまう。
 八名川と違って朔夜は化粧をしていなかった。癖のない黒髪は全て後ろに流してある。あわせが男物のウィングカラーは衣装か監督のものか。コスプレ然としたクロスタイは安っぽい光を放っている。
 朔夜はふいと侑志たちに背を向け、坂野と連れ立って歩み去っていった。
「すっご、この学校の学祭レベル高すぎ。今の人もめちゃくちゃカッコよかった」
「ちがう」
 声のトーンを上げる柚葉に、侑志は俯いて返した。握り締めた手のひらから、また熱が上がっていく。ぐつぐつと心臓が煮えて揺れる。
「前髪全部流すより片側下ろした方が絶対いいし、タイもクロスよりレギュラーの黒無地にタイタックの方が似合う」
「侑志、執事にこだわりあるんだ。知らなかった」
 柚葉が首を傾げる。侑志は答えず二年A組に入っていった。
 執事だろうがウェイターだろうがどうでもいい。
 あんな程度でカッコいいなんて軽々しく言われたくない。
 あの人は、本当はもっとずっとカッコいいんだ。
 受付の執事はズボンをはいただけのただの女子だったし、給仕をしてくれたメイド男子は受け狙いのような化粧をしていた。柚葉は、あの二人だけ別格なんだねと小声で言った。そもそもがあの二人に異性装をさせるための企画らしいということは黙っていた。
 隣から聴こえる歌が気になると言われてまた廊下に出る。覗き込んだ二年B組では、三石がアコースティックギターを弾きながら歌っていた。伸びやかで澄んだ声。松任谷由実の『Hello, my friend』だと柚葉が教えてくれた。友情の曲かと思えば失恋の曲だそうだ。深春(みはる)月村(つきむら)が見えたから中には入らなかった。
 怜二のいる二年E組では競技かるた体験会をやっていて、和服着てんならやれと意味不明な理屈で引きずり込まれた。リノリウムに置かれた畳の上に、何人も正座で向き合っている。別個に対戦しているようだ。井沢と三住茗香の姿もあったが、声はかけなかった。十五枚同士の小さな勝負。侑志は僅差で柚葉に勝った。
 外の飲食エリアでは岡本がたこ焼きを作っていた。一パックお願いすると、おまけねと二個余計に載せてくれた。
 結局野球部の面子とばかり顔を合わせた気がする。
「ありがと。楽しかったよ」
 校舎裏で並んでたこ焼きを食べた後、柚葉は立ち上がり両手を後ろで組んだ。ワンピースの桜を縁取る金の糸が、曇り空からの乏しい光にきらめいている。
 侑志も腰を上げ、空容器をゴミ箱に片付ける。柚葉の服に散る花弁の軌道を目で追う。
「もういいのか」
「琉千花ちゃんに会わないといいなってずっと思ってたの。運がいいうちに帰る」
 柚葉はヒールの高いサンダルで空を軽く蹴った。
 知ってたのか、と尋ねるのもあまりに気が利かない。侑志は黙って、柚葉の腕をつかむ。細い金のブレスレットが巻かれた手首は冷たい。
「送ってく。片付け明日だし、先に上がらせてもらうから。ここで待ってて」
 振り返る柚葉のまつ毛が震えた。小さな口唇は短く息を吸った。やわらかな両手で頬に触れられ、侑志はこれから起こることを覚った。
 予想どおりの行動と、予想より淡白な感触。重なったと呼ぶにも満たないわずかな摩擦。
「たすき、外すね」
 耳元で囁かれて動いたのは鼓膜だけだ。
 するりと袖が落ちた。財布と携帯しか入っていない袂が白球を何個も詰め込んだように重い。
 微熱はずっと微熱のままで、一向に上がりはしなかった。

「明日ね、こないだ話したママの彼が挨拶に来るんだって。だからお休み取るために、ママ今日は残業なの」
 電車を乗り継いで柚葉の家に行った。
 日曜の昼過ぎ。にぎやかな車内。侑志は遊びに行くだけ、柚葉は帰るだけなのに、二度と戻れない場所に向かうように頼りなく寄り添った。まるで、はぐれたら二度と会えなくなるように手を繋いで。
 柚葉の家はオートロックマンションの三階だった。新しい父ができればここも離れることになるかもと柚葉はぎこちなく笑った。
 玄関の鍵を閉めるなりどちらからともなくキスをした。息をするために口を塞ぐ矛盾まみれの接点。離れようとしない柚葉を抱えてソファまで運んだ。張り詰めた背中に赤い爪が食い込んだ。
 柚葉が求めているものは解っている。今なら侑志も応えられる。このまま進んでしまえばいい。
 新田侑志が辻本柚葉の恋人になる。侑志にとっても、柚葉にとっても、互いの母親にとっても、それが一番望ましいはずだ。
 忘れ続ければ、いずれ痛みも流れ出るだろう。
「ね、ファスナー、下ろして……」
 柚葉が背中を反らす。厚いカーテンの隙間から漏れくる光が、上下する細い喉を汗の色に照らす。侑志は前から手を回してワンピースのホックを外し、ファスナーを下に引く。露わになった白い肩を口唇で貪る。簪が緩んで外れる。落ちかかる髪の香りが甘く鼻をくすぐる。
 柚葉は綺麗だ。初めて見たとき好みだと思った。中身も嫌いなところはひとつもない。中学の頃に出逢っていたらきっと夢中になっていた。
 だから、
 だから、俺はこの子を好きなはずだ。今に愛するようになるはずだ。こうして触れ合い続けていけば、身体が繋がってしまえば心だってきっと繋がれる。尽くされて、優しさで返すことを繰り返していけば。
 倒れ込みながら柚葉が呟く。
「好き。あたし、侑志が……好き。全部、ほしいよ」
「俺も」
 口にした瞬間、頭痛が走った。無視して柚葉の襟元へ手を入れる。頭蓋が割れるような激痛になっても押し殺した。
「侑志……」
 柚葉の顔にさっと怯えの影が差した。強引にしすぎたか。
 侑志は謝罪しようとして声が出ないことに気付いた。痙攣する喉に手をやる。その間にも柚葉の滑らかな肌には、透明な雫が降って伝った。
 いつから。どうして。
 目尻に触れてみても答えは見つからない。指が新しい水気を含むばかり。目頭から溢れる分も止められずに。
「侑志。泣かないで」
 柚葉が侑志の頭を胸へと抱き寄せた。平気だよと言うはずが、吸い込んだ匂いで視界が明滅した。
 ちがう。この子じゃない。
 首にできた日焼けあと。触れてはいけない左肩。まっすぐな黒髪、耳にかける癖。低いけれどよく通る声。勝手で、短気で、荒々しくて、脆くて繊細なくせに凛と立ち続ける人。
 夏の終わりのあの日から、彼女があの先輩に抱かれている夢ばかり見た。道化をやめて彼女の騎士になった男に。お姫様に甘んじた彼女は夜の悦びに溶けた後、うっとりと眠って目を覚まさない。
 ちがう。あの人のあんな姿は見たくない。
 誰より日の光が似合う人だから。
 だから俺は、柚葉にこれ以上触れたらいけない。こんな後ろ暗い場所で、逃げるためにこの子を使ったりできない。
「ごめ、ゆずは」
 涙を止められなかった。みっともなく柚葉にしがみついて嗚咽した。
 俺は柚葉のことが好きだよ。大好きだ。大好きな友達だった。こんな風になりたかったわけじゃない。柚葉の価値を貶めて、俺だけ助かったりしたくない。
 君の求めるものとかたちが違っても、俺は君のことが大切なんだ。
「ごめん。頼り方間違えて……ごめん」
「侑志が謝らなくていいよ。あたしがずるかったよね」
 ごめんね、と柚葉の手が侑志の頭を撫でていく。幼い日に母がしてくれたような優しい手つきで。かけてくれたようなあたたかな声で。
「終わらせなかった恋は、自然と終わったりなんかしないよ。そんな都合よくいかない。あの頃のあたしを見てたんだから解るでしょ? だから、ね」
 その先まで柚葉に言わせるのは卑怯だと思った。侑志は頷いて、ワンピースの乱れた襟元を直す。柚葉は背筋を伸ばして、侑志の恋人としての最後の奉仕を受け入れてくれた。
「ありがとう。柚葉」
「うん」
 笑った柚葉の頬を、侑志のものではない涙が滑り落ちる。
「ばいばい。今度は、おばさまのいるときに話そうね」
 ずるい提案だった。侑志にとっても柚葉にとっても。精一杯の偽善で彼女の顔を拭って、侑志は二度と来ることはない家を後にした。
 空は視界を奪うぐらいに白い。雲越しの陽はまだ強い。
 高葉ヶ丘に戻るまでに、鋭すぎる希望も少しは和らぐだろうか。