14話 Faker’s Foolish Fest. - 9/10

浮遊する熱の着地点

「来てくれてありがとうございます」
 頭を下げる侑志に、おう、と朔夜は短く答えた。表情まで監督そっくりの、気持ちを読ませない調子で。
 メールで呼び出したのはいつもの公園、いつもの広場。
 空は桃色にかすんでいる。バットを持って来てほしいと書き添えただけで、朔夜は侑志の意図するところをつかんだようだ。頼まずとも皓汰を連れてきた。
「俺は黙って仕事するだけだから気にしないで。まぁ侑志の球捕れるか分かんないけど」
 皓汰は左手のキャッチャーミットをぱくぱくと動かす。こちらも普段どおりの、少なくとも普段どおりに見えるような無表情だ。侑志は皓汰にも深く礼をした。
 捕手が富島一人になってから、監督は彼の故障に備えて正式に捕手候補を増やした。白羽の矢が立ったのは、朔夜の投球練習に付き合っている皓汰。体調の芳しくない侑志や永田はまだ組んでいないが、岡本の球は実際に受けている。
 息を吸う。酸素を肺に送る。当たり前のことを、忘れがちなことを、あらためて丁寧にやってみる。
 あの地獄のような日から初めて、侑志は朔夜の目をまっすぐに見た。
「朔夜さん。十球勝負、してください。俺が――」
「私が五球センター返しできたら、私の勝ち」
 朔夜も目を逸らさない。黒々とした瞳に揺らめく、喉元へ食らいつくような炎。
 侑志は頷いた。どんな条件も、朔夜が言うなら公平だと思える。勝者の報酬も決めないまま、侑志と朔夜は背を向けてそれぞれの位置についた。
 埋もれていた投手板をスパイクの底で掘り起こす。傷に入り込んだ土で元の色が薄れて、そのくせ逃れようもないほど白かった。
 審判の代わりに朔夜が叫ぶ。
 バットを構えながら。額を風にさらしながら。
「来いよ!」
 侑志は脚を上げる。春の『試験』より肩は随分回る。内気味の球は皓汰のミットに届かず、打ち返されて侑志のすぐ横を跳ねていく。
 口許が緩んだ。自分で拾いに行ってまたプレートに入る。
 軸足。ステップ。皓汰が無理やり止めてくれた。ストライクゾーンがないから捕ってもらえさえすれば侑志のポイント。
 ワインドアップ。リリース。
 打音。バウンド。
 犬のように白球を追いかけては同じ動きを繰り返す。
 侑志の目に映る朔夜はまばゆい光をまとっていた。
 スタンスも、ステップ幅も、体重移動も、スイングの軌道も、撫でつけた黒髪がだんだん落ちてくるのも、左手を突っ込んでわざと崩しているのも、そうして半分だけ見慣れた髪型に戻っていくのも。
 一球ごとに端の持ち上がっていく口唇も、先を急かす貪欲で無邪気な瞳も、研ぎ澄まされた四肢も、荒っぽい言葉で侑志を煽るきりりとした声も。
 桜原朔夜という打者の全てが、新田侑志の細胞を根底から生まれ変わらせていく。
 革の音。芯に届く音。白球で彼女の名を呼んだ。
 朔夜さん。朔夜さん。
 悪球でも彼女は返した。
 聞こえてるよ。聞いてるよ。
 十球を投げて、皓汰が捕ったのは二球。ファール一球。ライト方向二球。センター方向は五球だった。
 二人とも汗だくで息が切れていた。
 一人だけ涼しい顔の皓汰が荷物を担ぎ上げる。
「じゃあ俺帰るけど、ちゃんと仲直りして帰ってきてよね」
 礼を言う暇もなく立ち去って、侑志は朔夜と二人きりで残された。
 夕暮れは時の進みが早い。ほんのわずか遊んだつもりが空はすぐ暗くなる。灯り始めた明かりの下で、侑志は朔夜と向き合った。
 一八・四四メートルよりずっと近い距離。
「朔夜さん。俺、朔夜さんが打席に立ってるところ好きです。世界中探しても、過去とか未来とか行っても、俺にとっては朔夜さんが最高のバッターなんです」
 ちゃんと話せているだろうか。声は言葉になっているだろうか。侑志の不安を、朔夜の視線が溶かす。打席に立っていたときと同じ視線。
 聞こえてるよ。聞いてるよ。
 侑志は胸に左手を当てる。知っている速度の鼓動。軋む痛み。
「名前を聞く前から、女の人だって知る前から、恋だって気付く前から、初めて見たときからずっと想ってました。――俺は、朔夜さんのことが、好きです」
 応えてくれとは言わないから、答えをください。
 俺があなたと野球していくための、ゆるぎない答え。
 朔夜が踏み出す。均衡が崩れる。もう今までの場所への逃げ道はない。暗くなってきた広場で朔夜の顔は、怒っているようにも泣いているようにも見えて。
 胸に額をぶつけられたことで、見えなくなった。
「ずっと欲しかったよ」
 くぐもった声。心臓に届く言葉。朔夜が口を開くたび、シャツの繊維に吐息がにじむ。
「父さんと野球する日。左利きの男の子。公式戦のマウンド。皓汰。おじいちゃんの本。優しいお母さん。侑志が当たり前に持ってるものは、私が気の狂いそうなほど欲しかったものばっかりだ」
 思ってもみなかったが腑に落ちた。朔夜が侑志に当てつけのようなことばかりしてきた理由が。おじいちゃんの本、というのは分からなかったけれど。
「ムカつくんなら、殴りかかってきていいですよ」
 侑志は朔夜の手にあるバットに触れる。見開いたまつ毛に見惚れて笑う。
「乱闘しましょうよ。もう新入部員じゃないですし。リューさんや皓汰が守ってくれなくても、俺、応戦しますから」
「ナマイキ」
 朔夜もやっと笑ってくれた。左腕が動いたから本当に殴られるかと思ったけれど、バットは侑志の頭ではなく地面を叩いて転がった。胴体に憧れの両手が回る。侑志の汗ばんだ背中を優しく撫ぜる。
「このまま二度と会えないぐらい離れても、私はきっと二十年間思い出すよ。欲しかったものを全部忘れてしまっても、今の君をずっと覚えてる。緑の下を歩いてた綺麗な横顔を」
 朔夜の声は春風のように鼓膜を揺らした。侑志も左手で朔夜の背に触れて、そっと目を閉じる。木の葉の隙間から舞い散る木漏れ陽に記憶を浸す。
 俺たちはこれから、自分でも戸惑うような速度で変わり続けていくんだ。いつまでもここにいられるわけじゃない。
 だけどこの春は、俺が歩いて、あなたが打ったあのときはずっと変わらない。
 鮮やかな緑を、色褪せず一生抱えていられるなら――それはもう、永遠だ。
 グラブでふさがった右手の代わりに、口唇で朔夜の涙を拭った。朔夜は小さく首を振り、侑志の頭を引き寄せる。しっとり濡れた額同士がくっつく。同時に笑み崩れて、侑志から角度を変えた。
 息を吸う場所が重なり、小さな光が灯る。張り裂けそうな胸が叫ぶのは痛みではなく熱。正体なく浮かび続けた火照りが、朔夜の鼓動に合わせて一秒ごと身体に馴染んでいく。
 侑志は大切なものを左手でかき抱いた。もう二度と離さないように。

 ああ、やっと思い出した。
 これが、俺の熱だ。