10話 Ace in the Hole - 5/7

私がいつも見ているもの

「ねぇ。ここ座ってもいい?」
 試合前。応援席の琉千花に声をかけてきたのは、見たことのない少女だった。
 明るい茶髪にピアス、少しきつい印象の目許。ビビットな色のTシャツに白い薄手のパーカーを羽織り、真新しいカーキのキャップを斜めに被っている。デニムのショートパンツからのびる脚は、同性の琉千花でも――いや、同性だからこそ――言葉を失うほどすらりと美しかった。
「ねぇって。取ってある席なら別にいいから、返事だけでもしてくれない」
 少女の声に苛立ちが混じる。琉千花は慌てて、どうぞと右側に避けた。どうもと少女が腰を下ろす。
「野球の応援ってさー、意外と静かなんだね。もっといっぱいいてうるさいと思ってた」
 少女はつまらなそうに言いながら、ペットボトルのふたをひねった。横文字の炭酸水だ。琉千花が手に取ったこともないもの。
 確かにこの公園の応援席は、琉千花がこれまで『高校野球』で想像していた傾斜のあるスタンドとは違う。グラウンドと同じ高さにある、たくさんの長椅子のうちのひとつ。
「今日は平日だし、保護者の方もなかなか……生徒も、野球部があるの知らない人が多いですし」
 琉千花はクリップファイルを握りしめ、愛想笑いをした。
 誰だろう。選手の身内だろうか。
 いつも桜原にラブコールを送っている、にぎやかな先輩がいればよかったのにと思う。新田の話では予備校の模試らしい。琉千花一人では間が持たない。
 少女がペットボトルから口を離す。
「あなた気合入ってんね。それタカコーの帽子でしょ?」
「あ、これは」
 琉千花は自分の被っているキャップに触れた。選手たちと同じ野球帽だ。
「マネージャーなので。試合のときは被ることになってて」
「マネージャーって、あの中で記録とる人じゃないの?」
 透明のマニキュアで飾られた爪先が、無遠慮にダグアウトを指差す。琉千花は荒れた自分の爪をこすった。
 この指も、地味なTシャツも学校指定のださいジャージも、かわいげのない格好の全てが『マネージャー』という肩書だけで許されてほしい。朔夜みたいに、セーラー服を着られればまだよかったのに。
「記録員は一人しかあっちに入れないから、二年の先輩の役目なんです。一年の私はこっちで」
「なんだ、同い年じゃん。タメ語でいいよ。あたし辻本柚葉、よろしく」
「あ……うん。早瀬琉千花です。よろしく、辻本さん」
 琉千花は首を引くようにして頷いた。苦手なタイプだと思った。
 なるべく笑顔でいるよう努めているが、本来琉千花は引っ込み思案だ。意図しない初めましてはいつも、どうしたらいいか分からなくなってしまう。
「るちかちゃんって、かわいい名前だね。よく言われない?」
 少女――辻本のぱっと笑った顔が眩しくて、うん、と琉千花は上手く返せず俯いた。
 無関心より、敵意より、無邪気が一番相手にしたくない。相手が『いいひと』なほど、自分が『だめなこ』なのが際立ってしまう。
「あら、柚葉ちゃん。お友達?」
 知らない女性の声がして、琉千花は顔を上げる。三十を過ぎたぐらいの、スタイルのいい人だった。意志の強そうな両目と、つば広の白い帽子からこぼれる髪の色で、誰だかはすぐに分かった。
「あの、高葉ヶ丘野球部マネージャーの早瀬琉千花です。本日はよろしくお願いします」
 琉千花は立ち上がり、深く頭を下げる。女性はやわらかな声で、琉千花の予想したとおりの挨拶を返した。
「新田侑志の母です。いつも息子がお世話になっております」
 笑顔まで彼に似ていた。琉千花が憧れるあの色だった。
 けれど、品よく風に乗る香りや、透明感のある指先はむしろ。
「おばさま、あたし琉千花ちゃんと一緒に観てていい?」
 辻本が首を傾げると、人工の茶髪が揺れた。
 新田の母も頭を傾ける。親譲りだと彼が言ったのと同じ、焦げ茶色の髪がゆるりと流れた。
「お邪魔にならない?」
「いえ、大丈夫です」
 琉千花は他に答えようがない。新田の母は少し困ったように笑った。
「じゃあ、お願いしていいかしら、早瀬さん。本当は私も一番前で観たいけど、あんまり目につくところにいるとあの子怒るの」
 彼そっくりの表情。琉千花が逆らえない顔だ。不本意だがもう一度頷く。
 ありがとう、と残し、新田の母は斜め後方の席に腰を落ち着けた。
「友達だよ?」
 辻本が、組んだ脚の上で頬杖をつきながら、琉千花の方を向いていた。そのつもりはないのだろうが、派手な顔立ちで笑みを消されると威圧感がある。
「侑志とは。桜原君とも話したことあるし。彩人と……まぁ永田も知り合いかもね。ホントにただの応援だから、気にしないで」
「あ、うん、別に」
 何を言い募っても墓穴を掘ることにしかならない気がして、琉千花は曖昧に語尾を濁した。
 どうして新田と富島だけは下の名前で呼び捨てるのか、訊けなかった。
 辻本は試合中、思ったより話しかけてはこなかった。それで琉千花の課題――朔夜に指示されたスコアの記入が捗ったかと言えば、また別の問題なのだけれど。
 苦しい展開の中、応援席ではOBたちが声を張り上げていた。おじさんや大学生ぐらいの青年たち。多くはない。岩茂八王子はもっとずっと賑わっていた。
「あたし、八王子のああいう数で押すノリ大嫌い。超感じ悪い」
 辻本は相手ベンチを睨んで吐き捨てた。琉千花は鉛筆を止め、辻本の顔を眺める。
 新田たちは『岩茂学園高校』を『イワガク』、『岩茂学園八王子高校』を『イワハチ』と呼んでいることが多い。『学園』『八王子』という呼称は、永田たち元内部生しか使っていない。
 富島たちと面識がある理由は察したが、新田とはどこで知り合ったのだろう。
 琉千花は口唇を噛んでグラウンドを見つめる。外野を守る新田は、実際の距離よりずっと遠く思えた。
 辻本にどう尋ねていいのか分からない。きっと、自分を『るっち』と呼んでくれるようになった彼にだって、訊けはしない。
 図書室で彼の横顔を盗み見ていた頃と、何も変わってはいないのだ。
「あれ、永田投げるんだ。ていうか投げれるんだ」
 辻本の声で、ブルペンに岩茂卒バッテリーが入っていることに気付く。
 しばらくして永田がマウンドに現れた。
 辻本は、どこか沈んだ調子で呟く。
「永田が投げるとこ初めて見た。あんな雰囲気になるんだ。知らなかったな」
 ペンを落としそうになって何とか耐えた。辻本に弱みを見せたくなかった。
 琉千花にとっては、今のが普通の『永田慶太郎』だ。女子に慣れていなくて、いつも話すときあたふたしていて、野球のことになると急に頼もしい。それ以外の要素なんて探したこともない。
「あれがそうなんだ。そっか、じゃあしょうがないや。彩人も安心してるね」
 奥に引っ込んでしまった富島の姿はここからは見えない。
 富島のことはさらに知らなかった。嫌味っぽいが、頭がいいというぐらい。あまり試合に出ないし、肝心の野球が上手いかどうかすら分からない。
 永田たちだけではないのだろう。よく知ったつもりでいる兄や為一のことも、きっと自惚れるほどには解っていないのだ。
 無意識に目で追いかけてばかりいた彼のことだって、琉千花は何も見えていなかった。こんな女友達がいるなんて知らなかった。こっそり二つ作っていた、背番号10のお守りを、ジャージのポケットの中で握り締める。
「琉千花ちゃんには、いつもみんなどういう風に見えてんの?」
 辻本の問い方はあっさりしていた。興味だったのかもしれないし、暇潰しだったのかもしれない。どちらにせよ今の琉千花には重すぎる。
 私、いつも何を見てるんだろう。野球って、何だろう。
 ――私は一体、彼らの何なんだろう。
 大人しい応援席さえ沸いたスリーアウトの宣言に、琉千花は喜び損ねた。
 その権利があるのかどうかも、もう定かではなかった。