10話 Ace in the Hole - 4/7

最後の切り札

「くっそ、ここまで来たのに!」
「くさんなくさんな。長打出たじゃん」
 ベンチに戻ろうとする侑志を、ランナーコーチの井沢がなだめる。
 五回裏。高葉ヶ丘は先頭・侑志の二塁打、続く桜原の犠打によって三塁まで進んだが、九番の怜二、一番の三石が連続で打ち取られて得点できなかった。
「でも、永田思ったより早く動いたな。六回過ぎてからブルペンかなって予想してた」
 井沢が片手で口許を隠して言った。一体誰を警戒しているのか。侑志もつい真似ながら返す。
「球数的に? つかあいつ、試合始まってからずっとむすっとしたまま黙ってたよな」
「うん。さっき守備中急に立ち上がって、監督に『富島借ります』って」
「監督は?」
「永田がその気になるまで、ずーっと我慢してたって感じだったかんなぁ。『行け』って、そんだけ。富島も黙ーって三歩後ろ、みたいについてった。テーシュクな女房ってやつ?」
「あいつ、永田にゲロ甘だもんな」
 ベンチに着く。捕手二人とエースはいなかった。
 正捕手は森貞だが、永田は富島以外と調整をしたがらない。肩が温まるまで幼なじみとボールを交わすことが、彼の必勝のルーティンらしかった。
「実際、永田入ると、守備力ガン上がりする分だけ打線に穴開くけどさ。こっちの上位陣が小秋を捉え始めてる今なら、出し惜しむとこじゃねーんじゃねぇかな」
 井沢に手を出され、侑志はメットを手渡す。
「つっても、永田が途中で崩れたら今度こそ後が――」
「いーちねん、くっちゃべってねーで早くグラ整出ろ。じゃねーと私が参加すんぞ」
 朔夜の声が割り込んできて、それ困りますと井沢が飛び出していった。侑志も続こうとしたのだが、監督が振り返り苦い顔をする。
「新田は行かなくていい。行くな」
「え、なんで、ですか?」
「『後がない』」
 先程侑志が言いかけた言葉を継いで、監督は投手のいないマウンドを睨んだ。
「この前、知り合いの整形外科に永田を行かせた。自己申告じゃ要領を得ないんでな」
 監督の指が、かたちを確かめるように自分の肩にかかる。永田が損傷しているのとは逆の左肩に。
「想像していたより大分まずい。最初期の処置を怠ったせいで、今も脱臼癖が抜けてない」
 え、と侑志は間抜けに声を失った。
 侑志が聞いたのは、使いすぎで痛めたということぐらいだ。具体的に現状がどうとは尋ねなかった。聞いては悪いような気もしたし、投げていられるようだからとあまり深く考えなかった。
 ベンチを見回す。教師の平橋(ひらはし)は気まずそうに目を伏せ、朔夜は説明を求める視線を監督に向けている。
 監督は顔を動かさず前を見たままだった。
「投げさせるどころか、ボールを握らせることもやめた方がいいと言われた。三年の夏まで無事に投げていたいなら、今年はもう見送れと」
「なのに、投げさせるんですか? そんなにひどいのに?」
「そうだ」
 侑志の問いに、監督は左肩を強く握り締める。
「『俺は』、投げたかった」
 主語がおかしい。だが指摘できずに、侑志はただ監督の横顔を眺めていた。『監督』と呼ぶにはあまりにも切実にマウンドへ視線を注ぐ人を。
 試合中はほとんど口出ししない平橋が、ぽつりぽつりと呟く。
「新田の言いたいことは分かる。こんなのはまともな大人の判断じゃない。生徒を守るのが監督や教師の、大人たちの仕事のはずだ。解ってる。俺も、先輩も。それでも」
 グラウンド整備が終わってしまう。皆が戻ってきてしまう。彼らを迎えるように、平橋は決然と顔を上げる。
「俺たちは、高葉ヶ丘野球部OBとして、君たちが心から望む『高葉ヶ丘の野球』を、最後まで見たい」
「岡本はそろそろ限界だ。もし永田がたためなかったら、お前が締めろ。新田」
 もっと思いきり叩かれると思ったのに、侑志の背に触れた監督の左手は存外に優しかった。侑志は頷いて朔夜に視線を向ける。
 事情は知らない。知らないながら、監督はどんなにか朔夜に託したかっただろう。朔夜もどんなにか託されたかっただろう。しかし二人共、一言もそうは言わなかった。
「行けよ。マウンドの前に、ライトちゃんと守ってこい」
 朔夜はやわらかく笑って、侑志のグラブを持ってきてくれた。しっかり受け取ることが誠意だと思った。
 人が増え、ベンチがにわかに騒がしくなる。
「次何番?」
「六!」
「一回に三遊間やられてる、皓汰と坂野は声かけ徹底!」
「上位回す前に切るぞ!」
「おー!」
 侑志は口唇を噛み締めた。
 この喧騒が好きだ。理由はこじつければいくらでも出てくるだろうが、多分意味がない。
 この中にいることが心地いいと感じてしまったから、いつか終わることを知っていてもまだここにいたい。同じことを願う人たちを、可能な限り留め置きたい。
 この望みはそんなにも叶えがたいものだろうか?
「どしたの新田、泣いてる?」
「ないてねぇよ」
 覗き込んできた桜原を押しのける。余計なことを言うので二年生が寄ってきた。
「まだ負けてねーぞぉ新田ぁ、オレさっき打ったったもんね」
「三石さっき三振してたじゃないか」
「さっきのさっき! 四回は打ったし!」
「それを言ったらオレなんて朔夜さんに一点捧げたね!」
 三石と坂野は相変わらずうるさい。怜二の眉間にはいつもどおりしわが寄っている。
「岡本、お前投げ切った後も残んだろ。左打たしてけ。オレはどうせ永田と代わるし、無茶ぐらいしてやんよ」
「はっは、レイジかっこいーい。強気に出ちゃったもんで失敗できねーなこりゃ」
「テメーもバッティング全タコだろうが、タイチ」
「いいよー、にゃーたちの分も俺がぼっこぼこに打つから大丈夫だよー」
「お、おう」
「おかも実は結構怒ってるよね?」
 岡本たちとふざけ合っていた八名川が、ふと真剣なまなざしで侑志を見た。
「泣くのはマジに早いよ、新田ちゃん。オレらも三年生これで追い出す気ないから」
「泣いてません」
 本当に泣いていないはずだけれど侑志は自分の顔を片手で拭った。
「いつまでしゃべってる、守備位置つけ!」
 相模の怒号が響く。ホームベースでは既に森貞が笑っている。
「先輩たち、オレこの夏まだ一度も暴れてねーんで! よろしくお願いしまっす!」
「おら気ぃ抜くとベンチ下げられんぞ内野ぁ!」
 井沢と朔夜の野次に押されて、侑志もグラウンドに踏み出す。
 一対三。だがまだ二点差だ。六回表、勝負はついていない。

 岡本は最初の打者を三球三振で打ち取り、七番もサードフライで坂野が抑えた。八番に出塁を許してしまったが、得点圏には進ませていない。
 二死一塁、ネクストバッターは九番・小秋楓。
 小秋はこの状況でも打つ素振りを見せなかった。そして四球後、静かにバットを置き一塁へと歩き始めた。
 フォアボール。ストライクは一つも入らなかった。
 森貞がマスクを放ってマウンドに駆け寄ろうとする。岡本が腕を突き上げる。
「ツーアウトぉ!」
 繰り返される事実は足りないものの方をこそ悲痛に伝えた。それが一番欲しい人の背中に、侑志もライトから事実を叫ぶ。
「ツーアウト!」
「打たせろ、オレら走れんぞ!」
 センターの三石が挑発的に続ける。森貞はホームに戻り、もう一度マスクを被る。
「今日一のいい球投げろ、タカヒロ!」
 二死一・二塁。岡本が頷き、投球動作に入る。ならしたばかりのマウンドに荒々しくスパイクを踏み下ろす。
 走る白球。ミットには届かない。一塁側に飛んだ打球は八名川の目前で跳ね後ろに逸れる。侑志が捕球。投げる先を判断する前に、ダメだと相模が叫んだ。
 二死満塁。
「新田!」
 岡本の呼びかけで、侑志はボールをマウンドに戻す。
 先輩の背筋はまだ曲がっていない。森貞もまだ声を張っている。一年の侑志が、勝手に折れるわけにはいかない。
 二番打者に二遊間が割られた。センターから三石が投げた球はホームに届かず、三塁走者が生還。小秋は無理せず三塁に留まった。
 点差は三点。依然、二死満塁。打順は三番――クリンナップに突入する。
 岡本の口からあの宣言は出ない。
「ツーアウトだ、こっち寄越せ!」
 代わりに怒鳴ったのは怜二だった。永田と変わらないほどに小柄ながら、声量は森貞と同じほどに力強い。
「走ってやるって言ってんだろ、寝惚けてんじゃねえぞ!」
「そーだー、外野組体力余ってんぞー!」
 三石がけらけら笑う。侑志も思い切って声を出す。
「こっちにも仕事ください!」
 そうだ。岡本はこの試合で幾度となく塁を埋めながら、決定的な長打を許さなかった。今たとえ、恐れていたそれが起こったとしても。
 今まで岡本が抑えてくれていた分、こちらが絶対に止めてみせる。
「わかった!」
 岡本の投げ置いたロジンバックから粉が舞う。セットポジションに入る。手足をいっぱいに振り上げた、最高に重い速球。鈍い音がしてレフト方向に浮く。三石が射出されたような勢いで走る。バックアップだ。
「レイジ!」
 怜二が落下地点に滑り込む。滑るというよりつまずいて頭から転んだ風に見えた。芝のないグラウンドで砂煙が彼を覆う。空気が落ち着くと、怜二は立ち上がるより先にグラブを高々と掲げた。
 捕球している。レフトフライ、スリーアウト、チェンジ。
「やーったー、マジでやりやがった!」
 三石は怜二に抱きついた。坂野が苦笑しながらトスを受け、ボールを岩茂八王子に回している。侑志もレフト方向に駆けていった。
「すみません、一緒に煽っちゃって。すげー勢いで突っ込んでましたけど、ケガしてませんか」
「オレが煽ったんだからいいんだよ。ただ顔面がクソいてぇ」
 怜二は三石を押しのけ、小走りでベンチに向かい出す。侑志も忘れ物の帽子を拾って並走する。
「左の頬んとこ、すりむいて血ィ出てます」
「マジか」
「今は手で触らない方が……戻って朔夜さんにやってもらった方がいいっすよ」
「そうするわ。坂野がうるさそーだなぁ」
 怜二は侑志の手から自分の帽子を取ると、被り直して不敵に笑った。
「ま、全タコが言えた義理じゃねぇけど。永田はオレ以上のポンコツ打者だし、裏も気合入れていこうや」
「はい」
 侑志は深く頷く。守れても点が取れなければ意味がない。
 ベンチには永田と富島も戻ってきていた。打順の近い相模と坂野、ランナーコーチの井沢と三石はもうグラウンドに出ている。
「次の回から投げます」
 永田は、試合中特有の涼しい顔で誰にともなく告げた。ずっとまとっていた不機嫌は静かに消え失せていた。
 岡本が水を飲むのを中断して、気遣わしげに尋ねる。
「四番からだけど、大丈夫?」
「岡本さんだって何度も切ってきてくれたじゃないですか。僕が一度二度で恐がってられませんよ」
 永田の口調は淡々としていた。
 打音がした。際どいタイミングだったが、相模が一塁に到達する。内野安打だ。ベンチは沸いたが、永田はグラウンドを見ないまま言いきる。
「まだお礼言えなくてすみません。その代わり、表の数字は全部〇で埋めます」
「俺たちが打てばいいんだね」
 岡本は微笑んでバットを手にした。
 坂野の打球もサードを強襲し、無死一・二塁になる。
「裏は任せて。俺も、ごめんとかありがとうは試合終わるまで取っとくから」
 打席に森貞が立って、岡本は待機のためにベンチを出ていく。
 侑志は永田に歩み寄り、あの、と声をかけた。なに、と返事は素っ気ない。
「俺、お前と小秋さんのことについては、いろいろ思うとこっていうか、そういうのある」
「だろうね」
「でも今は言葉見つからねぇし、岡本さんと同じで取っとく。とりあえずあの人打ち崩して、永田のこと何が何でも勝たせるから」
「あっちゃんみたいなこと言うじゃん」
 永田は普段の明るさを覗かせながら、シニカルに笑う。
「僕も、お礼参りっていうのかな。ガラじゃないけど。先輩がお世話になった分ぐらいはお返しするつもりだよ」
「おう。お互い頑張ろうぜ、エース様」
「こっちこそよろしく。スラッガー」
 軽く拳を合わせ、侑志も打者として戦況を見つめる。
 森貞が打ち取られて、六回裏、一死一・二塁。打席には岡本。
 一対四。大量得点の出づらい軟式でも、届かない点差ではない。
 こちらは後攻、九回裏まですっかりバットを振れるのだ。

 岡本が長打を放ち、二塁走者・相模が生還して二対四。次の八名川が三振して、二死二・三塁。
 打順は七番、新田侑志。
「よろしくお願いします」
 一字一句はっきり言い、侑志は丁寧に礼をして打席に入った。
 足場をならしながら小秋を見る。汗ばんでいるのはこの距離でも分かったが、それだけだった。
 侑志はこの試合、小秋の笑顔を消すことばかり考えていた。追い詰めて焦らせて、自分たちの存在を思い知らせようと。
 違ったのだ。興味の対象を選り好みする小秋楓への返礼は、そんなことではない。
 テイクバック。呼吸がすっと静まる。刹那、マウンドから向かい来る白球に同調する。スイング。右翼方向に行くと確信。振り抜く。
 相模の言った『人だと思わない』こと。腕とボールだけに集中して『小秋楓』を個人とも投手とも認識しない。永田の友人として高葉ヶ丘の選手として、侑志が小秋にやり返せる手段はそれだけだ。
 侑志は一塁へ走る。坂野が戻ってくる。岡本が進塁する。
 オールセーフ。三対四、一点差。
「ナイスバッティング」
 沸くベンチに対し、一塁のそばにいた富島は冷静だった。永田を森貞に任せたので、ランナーコーチに戻ったようだ。
「新田。やったな、お前」
「なんかその言い方、『よくやった』じゃなくて『やらかした』に聞こえるけど?」
 侑志もチームメイトほどは熱くなれていない。
 富島はマウンドに視線をやる。侑志も振り向いたら、小秋と目が合った。もう笑っていなかった。
「ロックオンされた。次からもっと容赦ないぞ」
 侑志は無視してプレーに戻った。
 八番・桜原は一・三塁を活かせず凡打。六回が終わる。
「見ろよ。お前の自慢のエース、お出ましだぜ。富島」
 ベンチを目指しつつ富島を小突く。眉をひそめて距離を取られた。
「あっちゃん」
 永田はマウンドから幼なじみを呼んだ。呼び捨てではなく愛称で。
 いつも試合中には見せない笑顔で、グラブを軽く振る。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
 富島も野球帽の庇に手をやり、面映ゆそうに答えた。
 侑志なんてこの場にいないようなものだ。
「お前らホント万年新婚なのな」
「うるさい、さっさとライト行けクソピッチャー」
「クソって言うな」
 高葉ヶ丘高校、選手交代および守備位置の変更。
 九番・早瀬(左)→永田(投)
 五番・岡本(投→左)
 永田はボール回しを終えると、大きく息を吸った。
「しまっていこ――ッ!」
 変声期のかすれを振り切るように、裏返った雄叫びを上げる。エースからの初めての鼓舞に、全員で声を返した。
 永田はだらんと両手を前に垂らした後、肩を後ろに引きながら姿勢を正す。余計な熱が抜けていったのが外野からも分かった。
 四番からという最悪に近い始まりは、きっかり三球で終わった。続いて五・六番と摘み取り、永田の投球数は合計で十あまり。
「お前マジで何モンなんだよ」
「まず褒めてよ。大口叩いた分を働いてんだから」
 スパイクの足音。試合中の永田とは今まで交わしたことのない軽い調子。
「俺もまだ打つ仕事残ってっし余裕ねぇわ」
「守備ガンガン回すから、その分ゆっくり打ってていいよ」
「次の打順、九番だからお前だよ」
「最悪。早く終わりたい」
 七回裏。永田はともかく、一・二番の三石と相模もすぐアウトになった。三人で十球に届いていない。
「ここへ来て球威増すとかマジかよぉ」
「ただ制球は甘くなってる……かと思って叩いたけど、それも期待薄だな」
 上位打者は揃って苦い顔をしていたが、一番点が欲しいはずのエース様はけろっとしていた。
「じゃ、また投げてきますね」
「おー、七番からな。ちょいっとひねってやんな」
 朔夜が手を振る。はーい、と永田も明るく答える。侑志はベンチを出る前に富島を振り返った。
「あいつ、なんか開き直ってきてねぇ?」
「怒りが『黙り込む』というフェイズを越えたんだろうな」
 それはそれでよろしくないような気もする。富島は、お手上げというジェスチャーをした。
 八回表。七番が打ち上げ、桜原が捕ってショートフライ。八番はキャッチャーフライ。捕らせることで球数を減らしている。
 そして、九番の小秋楓が打席に入った。
 一球目は見逃しのストライク、そのまま今回も三振かと思われた。事実三振だった。だが小秋は残りの二回を思いきり振った。アウトになったときなど勢いに負けて尻餅までついた。
 三球三振なのに笑っていた。
「ああゆうとこ嫌いだよ」
 永田はマウンドから下りた後、小声で愚痴っていた。
 八回裏、三対四の一点ビハインド。逆転は充分に可能な点差だが、小秋の調子がまだ上がっているというならかなり厳しい。
 三番からという好打順、坂野は打ち上げて初球で終わった。
 四番の森貞は、初球を。
「えっ」
 皆が注視したその打球は、絶対に叩き落とすことのできない山なりの軌道でフェンスを越え、ざんと茂みを鳴らした。
 森貞は丁重にバットを置き、鈍足と揶揄される日頃の走りでベースを回る。一塁、二塁、三塁、確実に足で触れて、ホームを踏む。
 場外ホームラン。小秋も口を開けて森貞の動きを目で追いかけていた。
「慶太郎」
 戻ってきた森貞は、昨日拒まれた名を口にしながら、まっすぐ永田の前に立った。笑顔も過剰なスキンシップもなく、落ち着いたトーンで告げる。
「待たせて悪かったな」
「僕も待たせちゃったので。あと一回、ちゃんと締めます。リューさん」
 永田も冷静な調子で返す。それ以上に冷静だったのは相模だ。
「まだ同点だぞ」
「うっうっ、あと一点取ってきますぅ……」
 森貞に格好をつけさせたままにしないのは、優しさなのか嫌がらせなのか。侑志も出番が近い分、相模の指摘が他人事でないのは確かだ。
 岡本が強烈なセンター返しで小秋の横を割る。二塁打。
 侑志はネクストに入る。八名川は際どいカットでさんざん焦らした挙句、一塁線を狙ったバント。岡本が三塁へ、八名川はアウトかと思いきや、守備がもたついたおかげで生きたまま一塁へ。
 同点で一死一・三塁。逆転のチャンスだ。侑志は一礼して打席に入った。
 小秋の口許は笑っていたが、瞳にこれまでの弾むような光はない。硬く厳しい視線が打者を、侑志を捉えている。
 同じ投手を相手にしているとは思えなかった。球種も、コースまで読んでも、バットが届かない。当てても前に飛ばせない。違和感。
「く、そ」
 侑志のバットが宙を切り、三つ目のストライクが告げられた。
 小秋は帽子を脱ぎ、ほんのわずか侑志に頭を下げる。侑志も煮えたぎる腸を抱え、何とか礼を返してベンチに戻った。
「何で黙ってた」
 座っていた永田の近くに立つ。何をと言わなくても解っているようだった。
「言葉で通じるようなら伝えてたけど。言って解ったと思う?」
「いや」
 侑志は黙って道具を片付け、彼の隣に腰を下ろした。
 小秋楓は普通に投げても、平均的な選手より強い。だがもっと速い球、重い球を投げる選手ならいるし、恐ろしくいい制球力さえ『才能』と呼ぶには弱い。
 岩茂学園八王子高校の配球に、捕手は一切介入していなかった。考えたのも投げたのも全て小秋だ。見ていれば分かる。小秋自身が、侑志に『読みどおりだ』と思わせる球を放った。その実、侑志の予想した軌道から巧妙にずらされた球を。
 小秋の本当の武器は――。
「ごめん、新田君」
「いいよ。言われても信じなかったって話は、さっき終わったじゃねぇか」
「ちがくて。ほんとごめん」
 永田は両手の指を組み、下の方でぐっと握り締めた。祈るように。
「君が三振したとき、僕は一瞬ここのエースだってことを忘れた。嬉しかった。僕の憧れた投手を、最後にもう一度見られて……君が、楓さんのあの目を取り戻してくれて」
「いいよ。俺が打てなかったところで、一番苦しいのはお前だし」
 何の工夫もなく空振る桜原を見つめ、侑志は呟く。
「『最後に』って言ってくれたから、もういいよ」
 永田は信じてくれている。
 小秋の夏がここで終わることを。
 高葉ヶ丘がここで勝つことを。
「そろそろ『慶』も卒業させてやんねぇとな。あの人、もう高三だろ?」
「やっぱ、新田君といると面白いよね」
 永田は小さく笑って、これから使う指を一本ずつゆっくりとほどいた。
 スリーアウト。チェンジ。
 四対四の同点で、最後の回が始まる。