10話 Ace in the Hole - 2/7

エースとは

 七月二十三日。
 明日も先発予定の侑志は、富島と組んで調整をしていた。
 森貞(もりさだ)と組んで投げているのは永田。例のごとく機械のような精確さだ。ただ、足元の土をならす仕種には普段と違う荒々しさがある。
 目を奪われていたら富島に叱られた。
「新田。巻き込んだのは悪いとは思うが、お前は集中して自分の仕事をしろ」
「わかってるよ」
 今日はあと五球だ。その後で軽くシートノックだったはず。
 森貞の明るい声がグラウンドに響く。いつもの光景。
「いい球来てるぞー! その調子だ慶太ろ――」
「それやめてもらえませんか!」
 永田が唐突にそれを遮った。森貞も他のチームメイトも全員、固まって永田を見ている。
 森貞の声掛けが馴れ馴れしいのは今に始まったことではないし、永田だけがされていることでもない。このタイミングで怒り出す意味が理解できない。
 永田も理不尽にすぐ気付いたのか、すみません、と帽子を脱いで頭を下げる。
「でも八王子戦が終わるまでは、下の名前呼ぶのやめてもらえませんか。嫌なんです」
「あ、ああ。すまん」
 森貞は茶化す言葉もなく頷いた。
 桜原監督は時計を確認した後、少し早いが切り上げると涼しい顔で言う。
「片付けろ。明日は遅れないように」
 本当に人間関係で役に立たないオッサンだ、と侑志は心中で毒づいた。森貞も監督と永田の顔を交互に見ながら、ええと、と呟いたきり先が続かずにいる。
 嘆息して後を継いだのは相模(さがみ)だった。
「片付けが終わったら、帰る前に二組に分かれてグループミーテする。森貞と富島は俺の方、八名川(やながわ)は朔夜と一緒にそっち仕切れ。一・二年の組分けは任せる」
 副主将の沙汰に、主将は小さくなって同意した。次期主将と裏主将は特段動揺した様子もなく、はいと簡潔に答えた。
 八名川がいつもの調子で、両手を打ち鳴らしながら一・二年を向く。
「じゃミッちゃんと坂野(さかの)ちゃんは三年生の方、レイジとおかもはオレの方ね。一年は、永田君と新田君がこっちで、るっちと井沢(いざわ)君、あとコーちゃんも向こうかな。はい各自動いて」
 納得した顔の者はいなかったが、動けと言われた以上は動くしかない。部員たちは散り、それぞれに撤収作業を進める。
 学校に戻ってから、短い事務連絡を残し監督は帰った。
 三年生が自分たちのグループの面子を全員部室に連れて行き、侑志たちのグループは駐車場のそばで輪になった。八名川は真正面から永田に対する。
「でね。たまたま監督が早めに切り上げてくれたから今日はゆっくり休めるぞぉ、とか、そこまでおめでてー話じゃないことぐらい自覚してるよね。永田君」
 言葉選びは軽めだが、口調は冷えて鋭い。永田は頷いたまま顔を上げない。
 八名川は首を振り、少しだけ声を和らげる。
「こういうのさ、第三者に憶測でごちゃごちゃ言われるほどヤなことないでしょ。洗いざらい話せとまで言わないから、オレらにも納得だけさせてくんないかな」
「わかり、ました」
 練習着の胸元を握る永田に、侑志はようやく相模と八名川の意図を察した。
 富島と琉千花(るちか)の前では、永田にも意地があるだろうと。
「次の試合のエース、僕の中学のときの先輩なんですけど。僕のこと、勝手に『慶』って、呼んでて。それがずっと嫌で。あっちゃ……彩人(あやと)は平気なんですけど、今は他の人に呼ばれると、悪いことばっかり思い出して、結構きつくて。わがままで練習止めちゃって、すみませんでした」
 苦しげに絞り出す永田に、八名川は一言、うん、と深く呟いた。朔夜も怜二(れいじ)も岡本も、ただ穏やかな顔をして二人のやり取りを見守っている。
 黙ってしまった永田を、誰も急かさない。
「わかった。ありがとね」
 八名川はそう笑って、話を締めようとした。
 永田が目を剥いて顔を上げる。開閉するばかりで声を出せない口唇の代わりに、侑志が自身の気持ちも乗せて問いかけた。
「それだけ、ですか?」
「だけって? オレらは納得した、そんで充分じゃないの。それとも新田ちゃん、一から十まで聞かせ合わないとオトモダチになれないタイプ?」
 八名川は挑発的に首を傾けた。
「野手が投手にしてやれることなんて、崩れかけたときちょっと支えてやるぐれぇでしょ。マウンド踏み荒らすのはオレらの仕事じゃねーですよ」
 半面その表情は、口調は、甘えのない優しさに満ちている。さらにいたずらっぽい色を加え、八名川は口唇の端を持ち上げた。
「こーいうのはお互い様だから、共有するスペースのとこだけ解ってたらいいよ。オレだって全部が全部キミたちにオープンなわけじゃないしね」
「オレの話は勝手に周り中に垂れ流すのにな」
 ようやく怜二が横から茶々を入れる。軽口に備えてフォロー要員も呼んでおくとは、さすが抜け目ない。岡本も明るい声音で似合わない意地悪を言う。
「じゃあレイちゃんも、にゃーのとっておきの話聞かせてよ」
「やれるもんならどうぞどうぞ。秘密多き八名川ちゃんだけど恥ずかしい過去などオレにはないもんねー。ふふん」
「じゃあそうだな、アレにすっか。中学二年のとき、急に『女の気持ちが知りたい』っつってワキ毛を」
「待てレイジそれマジにアレなやつだからちょっと待て、やめて」
 朔夜は男子の悪ふざけに加わらず、にやにやと永田の髪をかき回していた。身長差は多少縮まったように見えるが、まだ朔夜の方が高い。永田は不満そうに眉をひそめながらも、されるがままになっている。
「帰っていいよ、一年生」
 不意に八名川が談笑をやめ、こちらを見た。ふざけ合っていたのが嘘のように穏やかな顔だった。
「明日はきっと総力戦だからさ。先発の新田君はもちろんだし、終盤は永田君にも出てもらうことになると思う。ちゃんと身体休めときな」
「うん、俺も中継ぎ頑張るね。リューさんたちには話つけておくから、心配しないで帰りなよ」
 岡本も気負いなく笑っていた。侑志は深く礼をした。
「ありがとうございます。明日もよろしくお願いします」
「……おつかれさまでした」
 永田も小さく頭を下げた。無言で促して二人で歩き出す。
 富島のようなやつとずっと一緒にいる永田だから、相模や八名川たちの気遣いはもうすっかり理解しているのだろう。きっと侑志より前から、ずっと正しく。
 部室にはまだ森貞たちがいるので、永田と二人、共用の更衣室で着替えて帰った。
 妙な心地だ。大通りとオフィスビル、風景は見慣れているのに、空気だけがぎこちない。永田の世話を焼く富島の姿や、ふざけ合う桜原姉弟の声がないだけで、いつもの道がこんなにも違うのか。思えば侑志が永田と二人きりになるのも、随分久々のような気がする。
「あのさ」
 先に口を開いたのは永田だった。
 複雑な視線で侑志を見ている。
「ちょっと付き合ってよ。八名川さんはああ言ったけど、一人ぐらいには全部こぼしておいてもいいかなって。新田くんは投手だから」
 侑志は目を眇めて、ああ同じことを考えていたのかと、ゆっくり頷いた。
「いいよ。永田がそう思うなら」
 外で話すにも暑いので、柚葉と会うときにも使ったファミリーレストランに入った。二人してドリンクバーだけ。永田はオレンジジュースを、侑志はアイスコーヒーを持って席に着く。
 永田が語った内容は、昨日富島に聞かされたものとほぼ同じだった。知っているとは言わずに、侑志はひとつひとつ丁寧に相槌を打っていく。
「僕はさ、楓さんを見るのが恐いんだと思う。あの人はもう、前みたいには投げられないじゃん。そんなの正直、受け入れられる気がしないっていうか。僕は全盛期のあの人に憧れたわけだから」
 永田はストローを噛みながら、視線を斜め下に落とした。うろこ汚れの落ちきっていないグラスの中、オレンジジュースはいくらも減っていない。
 永田の口から直接『憧れ』という言葉を聞いたことに、侑志はまだ違和感を覚える。公式戦での登板こそないものの、高葉ヶ丘での永田慶太郎は『自責点ゼロの絶対的エース』で、ひとたびマウンドに登れば何もかもを睥睨する『孤高の背番号1』だったのだから。
 侑志はコップに直接口をつけてアイスコーヒーを飲んだ。
「じゃあ、今は小秋さんのこと嫌いなのか」
 そろそろ『壁』はやめだ。捕手でもないのに、いつまでも受けてばかりはいられない。投手なら投げ返さなければ。
「そうじゃないけど」
 永田はずるずるとテーブルに突っ伏す。水滴で手遊びをしている姿はまだ幼い。
「そもそも『エース・小秋楓』は僕の憧れだったけど、『楓さん』は人間的に苦手なタイプなんだよ」
「下の名前で呼び合ってるのに?」
「そう。そこが問題」
 永田が嘆息すると、テーブルの表面が白く曇った。
「ここだけの話さ。何であの人が僕のこと、『慶』って呼ぶと思う?」
「知らねぇけど」
「死んだ弟と同じ名前なんだって」
 つまらなそうに言われたが重い。侑志が返事に窮していると、笑い話だよと永田は身を起こす。
「弟さん、死産だって。それは可哀想なことなんだと思うよ。だからって運命感じるには『ケイ』なんて名前ありふれすぎてるし、第一さ」
 突然コーヒーの氷が激しく揺れた。地震かと思ったら永田が左手で机を叩いている。
「それ楓さん四歳のとき! 何だよ『生まれ変わりかも』って! 僕もう生まれてるよ!」
「手は大事にしろよ……」
 利き手でないとはいえ。
 永田は鼻を鳴らし、心なし赤くなった左手で頬杖をつく。
「何の話だっけ。楓さんがバカすぎて忘れた」
「小秋楓が苦手だって話」
「そうだった。僕は弟さんじゃないって何度言っても、もう……自分がエースじゃなくなっても、何があってもずっとずっと僕への接し方を変えなかった。そういう、強いんだか壊れてるんだか分かんないとこが不気味だって話」
「じゃあ、逆にお前の憧れた『エース』って、どんなだったんだよ」
「どんなって」
 ここへ来て、永田は急にオレンジジュースを勢いよく吸い始めた。渋い顔は果汁が濃いからなのかどうなのか。半分ほどまで減らして、ぷはと口を離す。続く語調は吐き捨てるようだった。
「巧くて。強くて。頼もしくて。いつだって表情崩さなくて。打者も走者も関係ないって感じで、どんどんスコアボードに〇つけて。雑念もなくマウンドで投げられることだけがひたすら楽しいみたいに――」
「それさ」
 侑志は途中で話を遮り、永田を指差した。
 尋ねたのは自分だが、こんなものとても最後まで聞いていられない。
「お前じゃん」
「は?」
「だから。俺にとっての『エース』。タカコーの永田慶太郎、まんまそれ」
 侑志は思ったままを素直に言った。永田は見る間に顔を赤らめ、テーブルに額を打ち付ける。
「もう知らない」
「そっか」
「投げる」
「頼む」
「あとやっぱなんか食べる」
「そうしろ」
 侑志はすっかり薄くなったコーヒーを飲み干した。
 エース様のお食事代ぐらいは、こちらで持っておくこととしよう。

「あら侑ちゃん、おかえりなさーい。今日は侑ちゃんの好きな親子丼よぉ」
 母親が猫なで声で寄って来るときはロクなことがない、というのは侑志個人の感想だろうか、子供たち普遍の意見だろうか。
「なんでそんなテンション高いの」
「なんでって、楽しみだからに決まってるじゃない。明日の試合、柚葉ちゃんと一緒に観に行くって言ったでしょ」
「いつ」
「昨日の夜」
 富島と岩茂八王子に行った後だ。多分、いつもの雑談だと思って生返事をした。
 柚葉がやたらと母に会いたがるものだから、侑志は前に一度だけの約束で茶会をセッティングしてやった。リップクリームの件を勘ぐられているので、隠すような関係ではないと証明したかったのもある。
 そこですっかり意気投合してしまったらしい二人は、侑志の知らないところでどんどん仲良くなっていた。帰宅したら母と柚葉が談笑していて、実の息子たる侑志が蚊帳の外ということさえある。
「柚葉ちゃんにね。侑志勝ったのよー、次は岩茂学園八王子ってところと試合で私も応援に行くのーってメールしたら、自分の学校だしせっかくだから観たいって言って」
「つーか試合相手教えたっけ」
「あなた自分で冷蔵庫にトーナメント表貼ったんじゃないの、もう」
 母は拗ねた顔でキッチンに戻っていった。母が観に来ること自体初耳だ、とか余計なことを言わなくてよかった。
 入浴を手短に済ませて、自室から柚葉の携帯に電話をかける。
「柚葉? 今時間いいか」
『それ毎回訊くよね。ダメなら出ないって言ってんのに、バカ真面目』
 呆れ声の向こうで、かかっていた音楽が消える。毎回そうだ。柚葉は電話中、なるべく他の音を消そうとしてくれる。回していた換気扇、観ていたテレビ、流していた曲。バカ真面目はお互い様だと思う。
「桜原、おかげさまでいろいろ吹っ切れたみたいだから。一応伝えとこうかと思って」
『よかった。あたしの友達ってわけじゃないけど、知ってる子が落ち込んでんのやっぱちょっとヤだしね』
 柚葉の笑い方はときどきひどくやわらかくて、侑志はわけもなく落ち着かなくなる。話題を変えようとしたら行き過ぎてぶっきらぼうになった。
「それより、うちの親と試合観に来るってどういうことだよ」
『あれ、おばさまから聞いてないの?』
「ついさっき聞いた。試合相手お前んとこだそ、どんな顔でうちの応援席にいる気だよ」
『えー? だって軟式知り合いいないし、超他人でしょ』
「いるとかいないとかじゃなくて、他校の応援していいのかって聞いてんの」
『侑志は自分とこの応援席に、他校生がいたら嫌なの?』
「嫌とかそういうことじゃなくて」
『じゃ、いいじゃない』
 柚葉があまりにも簡単に言い放つものだから、侑志も馬鹿らしくなってきた。黙っているのをどう解釈したのか、あのさ、と柚葉が真剣な声を出す。
『あたしは愛校心とか、あんまないし。あんたの、ていうか友達の応援に行くだけだから。だから学校のこととか、彩人のこととか、侑志が気にする必要全然ないから』
「そんなもんか」
 侑志は軽く息を吐いた。
 実のところ柚葉が彼の名前を出すまで、富島の元恋人であることを忘れていた。あんなに大騒ぎして、それがきっかけで知り合ったはずなのに、辻本(つじもと)柚葉はすっかり『柚葉』として侑志の中にいる。
「もう友達なんだなぁ、俺ら」
 ぽつりと呟くと、そういうこと普通に言うとこあんたって相当恥ずかしいと思うと心外なことを言われた。
『もういい。とにかく勝たないと許さないから』
「あ、おい!」
 切られた。なんて一方的な。侑志は眉をひそめて電話を見つめていた。
 ドアの隙間から、かつおだしのいい香りが漂ってくる。釣られてベッドの縁から腰を浮かすと、メールが入ってきた。柚葉だ。

『件名・絶対観に行ってやる!
 本文・やだって言っても応援してやるもんね
     がんばんなさいよっ! (#`Д´)ノ』

 何故だか急に頬が熱くなった。侑志は片手で口を押さえて、ベッドの上でうずくまる。
 何だコレ。何だコレ恥ずかしい。ものすっごい恥ずかしい。俺がさっき言ったのって要するにこういうことなのか?
「侑ちゃーん! ごはーん」
「はいぃ!」
 侑志は裏返った声で叫び、どうしてか携帯電話を机の下に隠した。