10話 Ace in the Hole - 6/7

今までありがとうございました

 さすがというべきか、岩茂八王子も永田をノーヒットでは帰さなかった。
 だが単打だ。ランナーを負っても、失点のないまま永田は九回を終えた。
「で、同点のまま打順が自分からって……正直キッツいよね」
 侑志が戻ったとき、永田は乾いた笑い声を上げ肘用のプロテクターをつけていた。自虐を言える分だけ余裕がありそうにも見えるが。
「きついか」
 監督が片手を腰に当て、さらっと言った。永田は目を丸くして、ええまぁと曖昧に答える。
「体力的には全然。ただ、今の楓さんを僕が打てるとは思えないので」
「じゃあ座ってろ。あとはお前の女房が働くそうだ」
 監督が言うや否や、グラウンドに踏み出していく背番号12。富島だ。
「マジかよっ」
 侑志はぎりぎりまで身を乗り出して打席を見つめる。いきなり隣に来られた朔夜が、迷惑そうな声を漏らす。
「なんだよ。この展開で代打なんて、大騒ぎするほどじゃないだろ」
「だって富島……!」
「富島、公式戦初打席じゃんね」
 桜原もひょこんと顔を出す。
 違う。いや、高校の公式戦で初打席なのはそうだが、侑志がどうしても気になったのはそこではない。
 小秋が遊びの色を消し、かつての後輩と対峙する。
 一球目、空振り、ストライク。
 朔夜がわずかに身を引いた。
「うわ。あいつ嫌だわ」
「でしょ」
 侑志はげんなりして呟いた。どゆこと、と桜原が袖を引いてくる。
「練習中はやらなかったから知らないだろ。あいつ、ああいうことするバッターなんだよ」
 次はボール。ハーフスイングが取られる寸前の、ギリギリの動き。
「中学んときもやられたんだ。そのままなら打てた軌道で、わざとヘッド下げる。審判の基準を覚えて際どい動き方する。そういう性格の悪い打者なんだよ、富島ってのは」
 しかし富島も、小秋相手にそれを続けるのは難しいと見えて、三球目はまともにバットを振っていた。わずかに届かず、ツーストライク。
 桜原が緊張感のない声で問う。
「今のも?」
「いや、今のはガチの空振り」
「じゃあねちっこいことしないで、初球打っときゃよかったんじゃないの?」
「って言われんのヤだから、あいつは――」
 侑志が指を指した先で、快音が響く。三遊間を割り、富島が走る。レフトが捕球。富島は一塁で止まり、自分の代わりにランナーコーチに入った八名川と話し始めた。
「打ったろ。ああいうとこだよ。うちのエースがブチ切れてベンチ大変だったんだぞ」
「それで盲腸悪化したんだっけ」
「逆だよ逆、手術明けだから俺は投げなかったの」
 振り返ると永田は退屈そうに指先をいじっていた。桜原が侑志の隣を離れ、永田の横に座る。
「どったの。やっぱり打ちたかった?」
「全然。二塁打のつもりが予想より浅かったとか、楓さん相手とはいえあっちゃんも鈍ったなと思って」
「あれで?」
「お前ら本当にお互いのこと好きな……」
 侑志はあまり深入りをしないことにした。岩茂学園の愛憎劇は正直手に余る。
「おら、先輩出塁したぞ! だらだらしてねーで死ぬ気で応援しろ一年坊主!」
 朔夜の怒号に、三人は慌てて集合し大声を張った。いつの間にか三石が一塁にいて、富島が二塁にいる。
 無死一・二塁。このまま手堅く一点取れば、高葉ヶ丘の勝ちは決まる。永田はルール上もう投げられないから、ここで確実に試合を終わらせなければ。
 小秋にまた笑みが戻っていた。二番打者の相模は、走者のいる場合バントをする率が高い。今回も監督はバント指示――違う。
 桜原監督も、高葉ヶ丘の身内にしか分からない程度に笑っていた。
 白球が小秋の指から離れる。二塁の富島と一塁の三石が同時にスタートを切る。水平に近かった相模のバットが起き、苦手なはずの内角の球を力任せに叩く。三塁線近くのフェアゾーンで跳ね上がった球は、なかなか落ちてこない。
 三塁、二塁、一塁到達。
 オールセーフ、フルベース。
「めちゃくちゃじゃねぇか……」
 そう思ったのはきっと侑志だけではなかったのだろう。坂野の一打が、あっさりと、とてもあっさりとこの試合の幕を引いた。
 マウンドで座り込む小秋に、誰も駆け寄ろうとしなかったのは何故だったのか。試合前、彼はベンチで、あんなにも和やかにチームメイトと談笑していたのに。
 侑志が走っていって声をかけようとしたのを、永田が止めた。代わりに自分が前に出て、きっぱりと宣言する。師にした男を見下ろしながら。
「今までありがとうございました。お元気で、『小秋先輩』」
 小秋は静かに永田の台詞を聞いていた。そして目許を歪め、貼り付けていたのではない、にじみ出るような笑みに口許を染めた。
「いいチームだね。ありがとう、楽しかったよ。……『永田君』」
 永田は小秋に手を貸さなかったし、小秋も誰の手も借りなかった。自分で立ち上がり、岩茂学園八王子の列に加わっていく。
 侑志たちも急いで整列した。
「「ありがとうございました!」」
 岩茂学園八王子高校、対、高葉ヶ丘高校。
 五対四で高葉ヶ丘高校の勝利。