7話 Sweet Citrus - 4/7

どうしたいわけ?

 ドアを開けて正面にベッド。一日をこなして疲れ切っているとき、寝床まで直進できるのは大きな利点だ。というわけで侑志は最近までこの配置が気に入っていたのだが、今はもう可及的速やかに模様替えをしたい。
 誘惑に勝てない。テスト前だというのに眠くて仕方ない。いや、テスト前だから眠いのか。
 ともかく帰って来るとつい、少しだけのつもりで横になってしまう。対価は最低でも十五分。和室で暮らしていた頃は知らなかったが、ベッドは魔物だ。
 今日もまた魔力に負けてしまった。ベルトだけ外した学生服のスラックスに、ボタン三つで中断された脱ぎかけのワイシャツ。せめてもの抵抗にシーツをつかんだ左腕も、ほとんど力が入っていない。
 起きているでも、眠っているでもない、眼球の奥で意識が溶けていくような感覚。意味を手放し曖昧を漂う極上の時間。
 ああもうちょっと、すぐ起きるから。
 侑志がわずかにまつ毛を揺らしたとき、胸ポケットの携帯が激しく震えた。
「ごめんなさい!」
 何の義理もないのに謝りながら飛び起きた。侑志は相手も確かめず通話ボタンを押し、左耳に当てる。
「もしもし?」
『ねぇ、ちょっと聞いてよ彩人が!』
 甲高い女の声がする。何だっけ誰だっけ。侑志は目を開け切らないまま想いを巡らす。
 朔夜さん? なわけねぇよなぁ。っていうか朔夜さんの声もう五日ぐらい聞いてない。随分会ってないような気がする。入部してからそんな空いたことってなかったもんな。会いたいのかな、俺。会いたいな。声、聞きたいな。
『あんた、もしかして寝てた?』
 向こうの声が急に冷静になったので、侑志も一気に目が覚めた。というより血の気が引いた。
「つじ、辻本? ごめん、メール、するんだったっけ?」
 伝言を頼まれていたのをすっかり忘れていた。侑志から何の連絡もないので痺れを切らし、電話を寄越したのに違いない。
 寝惚けて妙なことを口走りはしなかったろうか? 侑志が冷や汗を流していると、違うの、と辻本は再び興奮した声で言った。
『するんじゃなくて、来たの! 彩人から』
「えぇ?」
 侑志はベッドの上で胡坐をかいた。情報を整理しようと思ったが、そうするだけの材料がないことに気付いて黙る。
『だから、彩人からメールが来たの。話がしたい、明日会おうって』
「はぁ、おめでとう」
 富島にも何かしら心境の変化があったのだろう。いいことだ。中間テストのド真ん中でも本人に問題がないなら構うまい。
 惚気だと分かったらまた眠気が戻ってきて、侑志は大あくびをした。そこへ怒鳴られたものだから舌を噛みそうになる。
『ちっともおめでたくなんかない!』
 鼻をすする音。侑志は眉をひそめて頭をかく。何だってこの女はこう、感情の起伏が激しいのだろう。
『おかしいじゃない、急に、何なのよ。彩人の方から話したいなんて言ってくれたこと、一度もなかったのに。怖い、どうしよう。怖い』
 侑志は電話を耳に当てたまま、膝歩きでベッドを横断した。
 窓を開ける。疲れたような水色の上から、やる気のないオレンジ色のフィルムがかかっている。鳩が気だるそうに鳴くのを聞きながら、テスト前日に俺は一体何をやってるんだろうと思った。
「で、辻本はどうしたいわけ?」
 電話を切ったら今度こそ勉強しよう。電源ごと切っておこう。そうしよう。
 侑志はワイシャツのボタンを全て外し、右腕を抜いた。
「俺さぁ、あんたがどうしたいのか全然見えねぇんだけど。どうなの。ヨリ戻したいの? ちゃんと別れたいの? それ分かんねぇから、富島に会うの怖いんじゃねぇの」
『あたしは』
 辻本が口ごもったので、その隙に電話を持ち替えてシャツを脱ぎ捨てる。立ち上がりたんすに向かう。
 しばらくして、辻本ははっきりした声で答えた。
『あたしは、彩人の本当の気持ちが知りたい』
 侑志は着替えを選ぶ手を止め、うん、と促す。
『最初はただ彩人に会いたくて、終わりにしたくなくて、それだけだったけど。今は、ちゃんと知りたい。どんなカタチでも、彩人の本当の気持ちを聞かせてほしい』
「だったら、あいつにもそう伝えればいいだけだよ。大丈夫」
 まぁ俺も保証できるだけ富島のこと知らないけど、と付け加えると、全然弱気じゃんと辻本は少し声を和らげた。
「なぁ。あのマドレーヌってさぁ、どんくらい持つの?」
『手作りだからすぐ傷んじゃうよ。明日でギリじゃない』
「じゃあ桜原には明日渡しとくわ。ごちそうさん」
 電話を肩と頬で挟み、通話したままTシャツを着た。裾を直している間に辻本が口を開く。
『ありがとね。いろいろ』
 落ち着いて話していると、辻本の声はとても綺麗だった。朔夜よりは高く、琉千花よりは低い。耳に心地よいメゾソプラノだ。
「マドレーヌうまかったら全部チャラでいいよ」
 侑志は笑う。辻本も笑ったが、音はそれでも割れない。
『おつり来るって。あたし家政科なんだから。っても調理系じゃないけど』
「へぇ。岩茂学園って家政科あるんだ」
『八王子にはね。学園にはないよ』
「そうなんだ。それで服のこと詳しいんだな」
 ズボンを脱ごうか脱ぐまいか迷う。見えないとはいえ、話の相手は一応女子なのだし――球場では人目があろうと平気で着替えてしまうのに、あれは試合前後のテンションだからなのか集団心理なのか。
 とりあえずハンガーを探していると、そろそろ切るねと辻本が言った。
『また連絡してもいい?』
「まぁ、どうなったかぐらいは知りたいし」
『そ。じゃあ、テスト頑張ってね』
 最後だけまた素っ気なくなって、通話は切れた。侑志は下を履き替えると、少し考えて、やはり机に向かった。
 きりのいいところまでいったら、ご褒美に家政科作のマドレーヌを食べよう。