7話 Sweet Citrus - 5/7

ひとつだけ聞かせて

 午後四時。またこの時間だなと、彩人は時計の文字盤を指でなぞった。
 八王子から高葉ヶ丘に来るのに約一時間、前後の移動が約三十分。三時すぎに授業が終わっても間に合うようにと、彩人は待ち合わせを五時に指定した。一時間早く来たのは、このうえ彼女を待たせたくなかったからだ。
 だが公園に着いたとき、彼女は既にベンチに座っていた。
 午後の授業を休んだのかもしれない。彼女は気分で学校をさぼることはないけれど、自分にとって重大と思えるもののためなら、それ以外を躊躇なく投げ捨ててしまうから。
 彩人はわずかに口角を上げ、その残滓を留めたままの口唇で、注意深く彼女の名を呼んだ。
「ゆずは」
 フェンスの向こうで彼女が振り向いた。化粧でごまかしてはいたが腫れぼったい目だった。
「彩人。待って、今そっち行く」
「そこでいい。すぐ終わるから」
 こちらに回ろうとするのを制し、彩人は前に進み出た。彼女もためらいがちに近づいてくる。
 陽に照らされた彼女の髪は、柚の果実のような色をしていた。
「髪、随分明るくしたんだな」
 金網越しに向かい合ったまま、彼女は毛先を指に絡める。
「あたしがダサいのが嫌だったのかなって、思って。彩人が変て言うなら、黒に戻すけど」
「いや」
 彩人は呼吸のついでに答えた。薄い色の方が生来の派手な顔立ちが映える。だがどの道もう、彩人は口出しできる立場にない。
 柚葉がぎこちなく話題を振ってくる。
「彩人は、髪、長くなったね。伸ばしてるの?」
「別に。ただの不精だよ」
 彩人は目にかかりそうな前髪に触れる。彼女といた頃は視界に入ったこともなかったように思う。いつの間にこんなに伸びたのだろう。
 彼女は何か言いたげに彩人を見つめている。彩人はゆっくりと一度、瞬きをする。
「切るかな。もう、夏が来るから」
「うん」
 緩く巻いた髪を揺らして、彼女は儚げに微笑んだ。
「それで。話、って?」
「ああ、うん」
 彩人は頷いたが続きは出てこなかった。言うべきことは顔を見れば見つかるはずだと、簡単に構えすぎていた。何か言わなければいけないのに何も口にできない。過ぎる時間ばかりが刺さる。
 やがて彩人は逆を向き、フェンスに寄りかかった。
「木元が昨日、僕のとこに来て」
「ウソ、何で?」
「僕がお前を殴ったって、えらく怒ってて」
「やだ、あいつ校舎違うくせに何で知ってんの? 気持ち悪い」
 目の前には並木道があった。背中越しに口唇を尖らせる彼女を感じた。
 彩人は下ろした右手で、裏向きに金網をつかむ。
「彼氏でもないくせにつけ上がるなって、言ってやったよ」
「そうだよ。あたしの彼氏は――」
「そうだよ。お前の彼氏は、もういない」
 最初からお前は誰のものでもない。
 お前だけのものだよ、柚葉。
 俯いた彩人の言葉に、彼女は答えなかった。彼女の重みで金網が揺れた。触れた指先は冷たかった。
 彩人は目を閉じる。今度こそ、言いたいことが次々浮かんだ。どれも声にするのはやめた。
 組んだ指の骨同士が当たる感触を、緑の針金が喰い込む痛みを、すすり上げる彼女の声を乾いた土の匂いを若葉の青を、全て覚えて帰ろうと思った。
「あたしじゃ、なくてもよかった?」
 彼女は金網ごと握り合った手に力を込めた。
「気が紛れるなら、あたしじゃなくてもよかった?」
「そうかもな」
 彩人は『そうだよ』と言ってやるほど優しくはなれなかったし、『そんなことないよ』と言ってやるほど不誠実にもなれなかった。だから本音を口にした。
「でも、柚葉でよかったと思ってるよ」
 彼女の手がびくりと跳ねる。彩人はフェンスの菱形から指を抜いた。誰のものでもない柚葉を、これ以上引き留めてはいけない。
「じゃあな」
 振り返らずに歩き出す。赤い跡のついた手をぶら下げたまま、足早に大通りを目指す。
 ブロック塀にチラシが貼ってある。
『戸じまり再確認! 高葉ヶ丘町会』
 そうだ、ここは高葉ヶ丘なのだ。岩茂学園の本校がある渋谷でも、姉妹校がある八王子でもない。自分はもうここに来てしまった。今の自分はここにしかない。
 視界が開けた瞬間、携帯電話に着信があった。メールだった。例の変わったアリスから。
『最後にひとつだけ聞かせて。彩人は今、幸せ?』
 彩人は立ち止まり、一文字一文字、丁寧に返信を打つ。
 送信ボタンを押すとき手が震えた。閉じた携帯電話を額へ押し付けるとき腕で目許を隠した。
『わからない。でも、そうなろうと思う』
 だから、どうかきっと君も。
「もしもし? 慶ちゃん、まだ学校?」
 歩みを再開し、慶太郎に電話をかける。もう駅が遠くに見えている。
「そう。あのさ、じゃあ、僕ん家で勉強しない? ……え? ああ、風が強いんだよ。もっと着てくるんだったな」
 プラタナスの葉はぴくりとも動かない。気の利かない奴だと胸中で毒づき、彩人は鼻をすする。
「ハンバーグ作るよ。ソースはまだ決めてないけど。それでさ、慶ちゃん、この間の話だけど」
 言いながら通話を切った。顔を上げ、まっすぐに前を見る。
 僕は恋をしてはいなかった。強がりじゃない。本当だ。
 ただ失ったときに、そうだと知った。
 浅はかで、月並みで、脆い想いの名を、僕は。
 学校から駅までの一本道。彩人はもう、自分の歩いてきた脇道を余計だとは思わない。別の道を知ったから、迷わずに歩いていくことができるのだ。