7話 Sweet Citrus - 3/7

何だこのデジャヴ

 富島彩人は黒い革ベルトの腕時計に目を落とした。
 四時過ぎか。慶太郎もさすがに帰っただろう。
 図書室を出て小さく息を吐く。
 高葉ヶ丘に入学してから、一人で帰るのは初めてだ。歩く廊下は四月より明るい。階段を降りながら思考に沈む。
 慶太郎は――慶太郎には、もうずるいところも汚いところも散々見られている。いまさらひとつふたつ増えたところでどうということもないはずだが、このうえまだ軽蔑されるのはやはり気が進まなかった。
 そのうちに何らかのかたちで謝罪しなければ。また好物を作ってやるか。芸がないと叱られるだろうか。
 彩人は靴を履き替え、俯きがちにガラス戸を押し開けて校舎を出た。
「彩人ッ!」
 途端、胸倉をつかまれる。眩暈を起こしそうになった。
 何だこのデジャヴ。
 僕はそんなに無警戒に歩いてるのか?
「やっと見つけた。何でお前こんなとこにいんだよ? ひでぇじゃねぇかよぉ。オレはお前と一緒に甲子園目指すつもりだったのに!」
中村(なかむら)……」
 彩人は顔を引きつらせた。
 緩めたネクタイ、大きく襟を開けたワイシャツ、坊主頭に人殺しのような人相。
「ヨシキって呼べよぉ、何でいつまでも他人行儀なんだよ? オレはお前の相棒だろぉ!」
 大音量で語尾を伸ばしてしゃべる癖。
 間違いない、中学のときバッテリーを組んでいた中村芳樹(よしき)だ。彩人は自分より背の高い中村を引き剥がし、少し離れたところにいる少年に目を遣った。
「お前か。ヒトの学校流して回ってんのは」
「人聞きが悪いね。俺は知り合いの友達のクラスメイトに会いに来ただけじゃないか」
 木元諒はうっすらと笑った。
 木元はリトルリーグからシニアに上がらず、岩茂学園中学の野球部に移ってきた選手だ。どちらも強豪、しかも四番打者とくれば、接触してくる相手は引きも切らない。リトル時代と中学時代、合わせれば相当数の人間と顔見知りということになる。彼らの友人にまで情報を求めたとなれば、捜索網もかなりの範囲になったはずだ。
 しかし、硬式野球部のない学校にまで手を回してくるとは想定外だった。彩人は居場所を突き止められた事実より、木元の執念に舌打ちする。
「練習サボって仲良く学校見学か。いいご身分だな」
「サボリじゃないさ。芳樹は肘の検査で、俺はじいさんが倒れたから」
「お前のジジイは孫の都合で倒れるのか」
「何もウチのじいさんとは言ってない。日本のどこかには今も倒れてるじいさんがいる。嘘はついてないよ」
 木元は口角を上げたまま言った。いつも笑顔でいるのを、爽やかだ紳士的だと周りは言うが、単に底意地が悪いのだと彩人は思っている。
 その木元が急に笑みを消した。
「話がある、富島。辻本のことで――」
「彩人、お前何でこんなとこ来てんだよぉ? 永田か? 永田なのか? ちくしょうあのチビッ、あんなシケたピッチャーのくせに彩人をかっさらいやがって。ブッ殺してやる!」
「木元、頼むからこれ持って早く帰ってくれ」
 彩人は中村を指差した。どうして自分はこういう人種にばかり好かれるのか。
 木元は首を横に振る。仕方なく、彩人は中村の両肩に手を置いた。
「あのな、中村」
「芳樹でいいってずっと言ってるじゃねぇかよぉ」
「芳樹。お前は将来何になりたいんだったか?」
「決まってんだろ。プロだよ」
「だったらいつまでも一人の捕手にこだわるんじゃない。プロの世界じゃそんな我侭は通用しないぞ。お前の方が、どんな捕手とでも上手くやれるようになっていかないと」
「彩人……」
 中村が涙ぐんで自分の鼻を押さえた。
「そこまでオレのこと考えてくれてたんだなぁ。分かったよ。オレ、もうお前から卒業する。他のヤツとも文句言わないで組むよぉ」
「お前ならできるよ」
 彩人は重々しく頷きながら、しみじみ思う。
 こいつがバカでよかった。
「芳樹。もういいか」
 木元の言葉に、中村は大人しく脇に退いた。刹那、何かが彩人の顔を目がけて飛んでくる。頬骨の前で受け止める。
「相変わらずの動体視力だな。完全にもらったと思ったのに」
 木元がにやりと笑った。彩人は嘲笑して木元の拳を捨てる。
「最近ずっとノーコンの速球受けてるもんでね。反応もよくなるのさ」
 で? と首を傾げた。
「全国の皆様に夢と希望を与える高校球児サマが、日陰に追われた軟式球児の顔面を殴っていいのかい」
「じゃあ慎ましやかな軟式球児殿が、か弱い女子の顔面を殴るのは許されるのか?」
 木元はめずらしく鋭い目をしていた。
 彩人と彼女の関係を知っているのは、岩茂学園の中でも木元だけだ。打ち明けたわけではない。彼が勝手に勘付いた。
「まぁ、確かによくはないな」
 彩人は木元の動きを警戒しつつ、肩から落ちかけた鞄の紐を直した。
「だがお前に罰せられるいわれはないね。神でも司法官でも、あいつの彼氏でもないお前にはな。個人的感情を普遍的正義と混同するなよ、お優しい岩茂の貴公子君」
 木元の顔がかっと赤く染まった。彼をこうまで痛罵したのは初めてだ。にやついているだけのアイドルには、皮肉る価値さえないと思っていた。
 惚れた女のために殴り込みまでかけてきた男だから、彩人も言うのだ。
「帰れよ。僕は柚葉のことを、柚葉以外と話す気はない」
 彼女の名を声に出すことも、かつてはしなかった。
 木元も何かを察したか、しかつめらしい顔をする。
「富じ」
「彩人、次は球場で会おうぜ。オレの成長した姿を見せてやる」
 だが堂々と台詞を発したのは中村だった。木元は清々しい様子の中村を見遣り肩をすくめる。リードを離された中村がまた迫ってくる。
「何とか言えよぉ、彩人!」
「無理」
「何でだよ。やる前から諦めんじゃねぇよ、いつからそんなに弱気になっちまったんだよぉ」
「そういう問題じゃなくて。ここ、軟式しかないから」
「軟式? ってことはいくら戦っても当たんねぇのかよ。じゃあやっぱお前、戻ってこい!」
「無駄。転入しても一年間公式戦は出られない」
「何でだよ!」
「お前みたいに引き抜こうとする奴がいるからだよ……」
 彩人はげっそりして呟いた。中村の瞳にみるみる涙が溜まっていく。
「裏切り者ぉ!」
 中村は公道に飛び出していったが、すぐ引き返してきて真顔で言った。
「ケー番聞くの忘れた」
 さすが『名投手』様は切り替えの早さが違う。彩人は痛む頭を押さえ、携帯電話を取り出した。
「うぉっ、何で新規のクセにそんな古ィ型使ってんの?」
「機能が多いと壊れやすいんだよ」
 ついでに木元とも連絡先を交換させられ、ようやく帰ってもらえた。
 落ち着いて見上げる空はまだ明るい。夕方ってこんなだったかなと、彩人は傾きかけた陽光に目を細めた。
 用のないときの空の色なんて、長らく気にした覚えがない。

 慶太郎は『空が見えなくて苦手』と言うけれど、彩人は地下鉄のホームが嫌いではない。天候にさほど左右されない恒常性はむしろ好ましかった。
 やかましく会話する高葉生たちから離れ、柱の陰で携帯電話を取り出す。永田家の人間を含む『身内』の番号しか引き継がなかった電話帳。さっき登録した一件を眺める。『過激な時計仕掛けのアリス』――辻本柚葉のメールアドレスがこんなものだったなんて彩人は初めて知ったし、意味するところも見当がつかない。続く数字が誕生日なのだろうという推測がやっとだった。
 電光掲示板を見る。電車が来るまであと二分。本を取り出すには短いが、ただ待つには少し長い。かろうじて届く電波でアドレスの意味を調べてみようかと思ったが、数文字を打ち込んだところでやめてしまった。知ったところでいまさら取り戻せるものなどない。
 彼女との、辻本柚葉との関係は最初から歪んでいた。
 彩人は口を利いたこともないクラスメイトがどうして自分を好いたのか疑問に思う余裕もなかったし、彼女も理由を説明しようとはしなかった。
『あたし富島のことが好き。付き合って』
 簡潔な告白に、構わないとだけ伝えた。
 夕暮れの教室。陳腐なロケーション。野暮ったいワンレングス。まだ黒い髪は量が多くて、俯くと横からも前からも表情が見えなかった。
 彩人はその頃の自分がどんな身なりだったかも覚えていない。女子の横に置いて見栄えのする男子でなかったことは確かだ。
 彼女は陰気な女で、彩人は輪をかけて陰気で、醜悪だった。
 不健全な仕打ちを咎めたのは木元だけで、彩人が彼女を気にかけないのと同じぐらに、慶太郎は彩人を見てはいなかった。
 幼なじみの色事も非情も目に入らない位置に、彼はいた。
 自分で外した梯子のことを忘れるために、彩人は彼女を求めているふりをした。(うろ)に叫び続けるように無意味な行為だった。彼女の方でも彩人よりよほど必死に声を張り上げたろうに、間に横たわる虚はその言葉も等しく消し去っていった。
 ただ息がしたいと願った。
 彼女の隣ではなく、慣れ親しんだ場所で。
 いつしか光に手が届き、彩人は虚の存在を意識の外へと追いやった。
 ――なかったことにできれば。
 自分にも、彼女にも、それが一番だと。
 最後まで傲然とした想いだった。あるいはまだ最後ですらなかった。
 滑り込んできた電車に乗り、開いていない側のドアに寄りかかる。圏外の車内でメールの文面を作る。
 都会の下を走る(うろ)。ここからでは届かない言葉。
 姿を変えた彼女に、変わったかどうかも定かでない指先で言葉を紡ぐ。
 乗換駅までの約十分、自分の気が変わらないことだけを祈って目を閉じた。