あたしはカノジョ
「腹減った」
「
「生きてるだけで減るだろ腹は」
一年だけの勉強会も二日目。今日の参加者は侑志と桜原、
侑志は今にも鳴りそうな腹を片手で押さえる。
「でも俺なんか、こうやって飯何だろって考えるぐらいでいいけど。井沢、今日は買い物して、妹の分も夕飯作んなきゃなんねぇんだってさ」
「えらいね。俺もたまに朔夜手伝うぐらいだよ」
桜原は大して気に留めてもいない顔で答えた。やはり親の名前は出てこないのだなとは思うけれど、侑志には深く掘り下げる勇気がない。
永田は間延びした声で富島に話を振った。
「あっちゃんは料理得意だもんね」
「ん? ああ……」
富島は歯切れ悪く言い、沈痛な面持ちで繋げる。
「僕は両親がいないから」
「あ、忙しくて留守が多いって意味だからね」
永田が笑顔で補足した。暗いムードになる隙もなくツッコミが入ったところを見ると、どうやら富島の常套手段らしい。一瞬気の毒に思って損した。
富島はばつが悪そうに首をかいた。
「自分で作る方が栄養管理しやすいってだけさ」
「そもそも自己管理しようとしてる時点でえれぇわ」
「新田はもう少し気にしろ。たんぱく質を摂れ」
昇降口についた。靴を履き替えつつ、侑志は一列向こう側に行った富島に呼びかける。
「実際さ、大変なのと気楽なのとどっちがデカい?」
「大変というか、細々したことが多くて面倒だな。人は呼びやすいが」
「女ぁ?」
桜原の下衆な質問に、富島は雑に答える。
「というか、コレが」
「コレって言わないでよ」
永田は指でも差されて怒っているのだろう。侑志は先に立ってガラス戸を押し開けた。
「下校時刻になっちまうぜ」
うあーい、と気の抜ける返事をして、永田と桜原が歩いてくる。
「そりゃ僕、あっちゃんち週三ぐらいで行ってるけど」
「それもうカレシじゃん」
「そんで週一ぐらいで夕食ごちそうになってるけど」
「うわっ、通い婚!」
「託児所になってるだけだ」
富島は不機嫌な顔で二人の頭をつかみ、外に押し出した。侑志は苦笑して扉を閉める。
「でもアレだよなぁ。富島のカノジョって想像できねぇよな」
「っていうか、富島でも恋とかすんの?」
桜原が根本的かつ無礼な問いを発した。富島の口調はどんどんぞんざいになっていく。
「あのな、それはお前の人生に影響を与える問いか? 僕はお前らの好奇心を満たすために日々を生きてるわけじゃないん――」
言いきる前に富島の身体が大きく揺れる。侑志たちは口を開けてその光景を見つめていた。
人だ。女がいきなり富島に突進してきた。
「やっと見つけた」
女は富島の胸に顔をうずめて言った。
「会いたかった。あたし、ずっと彩人のこと捜してたんだよ。急にいなくなっちゃうなんてひどいよ。ねぇ、ちゃんと話しよう? あたしは、あれで終わりなんて思ってないから」
唐突に現れてタックルをかまし、そのまま抱きついてこの台詞。
理解できない。意味不明を通り越して恐怖すら覚えた。振り返ると、桜原も何とも形容しがたい顔をしていた。
「桜原さん、あれは何チャンでやってるドラマ?」
「さぁ。原作はB級大衆小説みたいですけど」
その恋愛劇の主人公はというと、自分の眉間に指を当ててあさっての方を向いていた。
「人違いじゃないですか?」
「やめてよそういうの。女の子が恋人の顔、見間違えるはずないじゃない!」
少女は悲痛な声で叫んだ。彼女が真剣であればあるほど、侑志は温度差でいたたまれなくなる。
何なんだこの愁嘆場は。誰なんだあの女は。
どうして俺たちが巻き込まれてるんだ?
少女はいよいよ興奮した様子で涙を浮かべた。
「お願い、何か言ってよ。あたし、どこか悪いところあった? 教えて。直すから。気に入らないなら、ぶってもいいから――」
ヤバい、と侑志は直感した。この女はヤバいと思ったことも認めるが、それより富島の右手が動いたことをまずいと思った。
案の定、富島は彼女の頬を打った。細い身体がコンクリートにぶつかる前に侑志は左腕で抱き留める。富島は自らが傷つけた少女を、助け起こす素振りもなく冷ややかに見下ろす。
「他に言うことはない。二度と顔を見せるな」
それだけ告げると、背中を向けて歩き出してしまった。
他にもっと言うことねぇのか、だとか、いいって言われたからってホントにぶつ奴があるか、だとか、例え話でも富島の前であんなこと言うからいけないんだ、だとか、普段の侑志ならば両者に向けて矢継ぎ早に説教をしているところである。
今はただ絶句するしかなかった。そのうちに自分が殴られた。
「誰あんた、触んないでよ!」
「すみません」
ものすごく理不尽なのに謝ってしまった。
少女は侑志を突き飛ばすと、顔を覆ってさめざめと泣き出した。侑志は途方に暮れてチームメイトを見る。桜原は理解を諦めたように肩をすくめている。
永田は少女の鞄を拾い、おずおずと差し出した。
「あの、大丈夫?
少女はきっと永田を睨みつけた。つり気味の目はきつくカールしたまつ毛で迫力が増している。斜めに分けた前髪が右目を覆ったせいで、妖怪じみた凄みさえ生まれていた。
「全部あんたのせいだ。死ね、あんたなんか死んじまえ!」
少女は永田の襟を引いて呪詛の言葉を吐き出した。至近距離であの剣幕で、死ねと言われて侑志ならどうなるだろう。泣かなかった永田は偉いと思う。
少女は怯えきった表情の永田をいきなり放り出すと、鞄を引っつかんで駆け出した。
肩より少し長い、金にも近い茶色の髪。巻いた毛先が上下に揺れて、それがやけに少女チックなものだから、侑志はなけなしの現実感まで失ってしまった。実はあの子、結構かわいいんじゃない? と場違いに思った。
侑志も、桜原も、永田も、三人とも黙っていた。事態を把握できない者同士が出す奇妙な空気。
「僕、あっちゃん追いかけるね」
やがて永田がとぼとぼ歩き出した。あの調子では追いつきそうもない。
侑志たちも顔を見合わせて、帰ろうか、と呟いた。見計らったようにカラスが鳴いた。
「そういえばお前、朔夜さんは?」
しばらく二人で歩いてから、侑志はもう見えない校舎を振り返った。
あの騒ぎで忘れていたが、確か桜原は朔夜が下りて来るのを待つと言っていなかったか。桜原も記憶から抜け落ちていたらしく、ヤバいと呟いてこめかみを押さえた。
「どうしよう。先に家に着いてたらすっごい怒られる」
侑志は頭をかいた。
一緒に帰ってきてしまったのだから、責任の一端がないわけでもない。どこかで時間潰しをして朔夜より遅く帰れば、勉強会が長引いたと言い張れるだろう。
「俺、腹減りすぎて家まで持たねぇわ。コンビニ行くけど桜原も来る?」
侑志が通りの向こうを指差すと、桜原は潤んだ目で侑志を見上げた。
「新田超優しい。求婚していい?」
「断る」
「クイック拒絶すぎる」
コンビニエンスストアで、それぞれパンと飲み物を買った。侑志は富島の言葉を気にしてチキンカツサンドとスポーツ飲料。桜原はいちごジャム入りの蒸しパンとココア味の調整豆乳、それと袋入りの菓子。
いつも練習している公園で、朔夜に見つからないように、グラウンドではなく遊具の方に回る。
「お前ホント甘党なぁ」
「糖分はエネルギーになるじゃん」
「蒸しパンなんか空気ばっかじゃん、潰したらこんな――」
体積を示しかけた侑志の腕を、桜原が勢いよくつかんだ。侑志は眉をひそめて振り返る。桜原は蒼褪めた顔でベンチを示す。視線を向けた瞬間、侑志も戦慄した。
背中を丸めて両腕を抱いているあの茶髪――さっきの女だ。
逃げよう、と桜原が小声で言った。気付かれたらきっと絡まれる。侑志が頷こうとしたとき、恐怖の対象が顔を上げた。
二人は硬直する。少女は凄まじい形相でこちらを睨んでいる。逃げるに逃げられない、しかし近寄る勇気も出せそうにない。
「ちょっと」
張り詰めた沈黙を破ったのは少女だった。
「ここは『どうしたの』って訊くとこじゃないの」
侑志と桜原は声を揃えて、ドウカシマシタカ、と尋ねる羽目になった。
少女は全身を不機嫌の塊にして脚を組む。タータンチェックのスカートがまたえらく短い。何がとは言わないが動いたら見えそうだ。少しは気を遣えばいいのに、と健全な男子高校生たる侑志は思う。
「駅ってどっちよ」
「は?」
映像に気を取られて理解が遅れた。
待てよ、駅の方向を訊くってことは。
「迷った? どうやって? タカコーから一本道なのに?」
「だからっ、こんな顔ヒトに見られたくないから大通り避けてたら、分かんなくなっちゃったの!」
そこまで叫ぶと少女は脚を崩し、大声で泣き出した。
うわぁこの女、超メンドくせぇ。
侑志は眉間を押さえながら、きびすを返す。
「俺、タオル濡らしてくるからあの女見といて……」
「えー」
桜原は心底嫌そうに言い、及び腰で少女に近づいていった。
侑志が戻ると、少女と桜原は見るからに微妙な距離で座っていた。少女が侑志に気付いて横にずれる。つまり、ここに座れということだろうか。少女と桜原の間。ものすごく気乗りしない。
「なぁ。あんた、顔冷やしとけよ」
侑志が立ったまま濡れたハンドタオルを差し出すと、少女は目を合わさずに受け取って、右の頬に当てた。右利きの富島に右を殴られたということは、裏拳気味に払われたのだろう。女相手にとんでもないやつだ。
緑チェックのプリーツスカート、白いブラウスに赤のリボン、紺のブレザー。胸ポケットのエンブレムに見覚えがある。
「あんたたちは、彩人の……トモダチなの?」
少女は高圧的な態度から一転、弱々しい調子で言った。侑志は頬をかく。
「うん、まぁ、そんなもん」
長い話になりそうだ。観念してベンチに腰を下ろした。
「で、あんたは?」
「あたしは。あたしは、彩人のカノジョ」
――の、はずなのに。と少女は口唇を噛んだ。
辻本
「永田が岩茂出るのはみんな知ってたの。でも彩人が外部受けてたのは誰も、野球部の連中も知らなくて……。ケータイも替えてるし、イエデンは出ないし、どこに通ってるのか全然分からなかった。あたしそこまで嫌われてると思わなくて。せめて謝るだけでもって思って、
後は泣き声だった。侑志は何と言ったらいいか分からない。
桜原が気まずそうに侑志に耳打ちしてくる。
「話の腰折って悪いんだけど、木元ってどちらさま?」
「えっ、お前野球やってて木元知らねーの?」
つい声が大きくなってしまった。疎い疎いとは思っていたが、まさかここまでとは。
「木元
「へー。新田が顔と名前ちゃんと覚えてるって、相当だね」
「あのな。さすがに自分のとこのエースから六打点上げた奴は忘れねーよ」
一体どこまで鳥頭だと思われているのか。
「なんか気ィ抜けるわね。あんたたちの話聞いてると」
辻本は立ち上がってスカートの埃を払った。くるりと回って侑志たちを向き、タオルを差し出しながら小首を傾げる。
「これ、ありがと。悪いけど大通りまで連れてってくれない? あたし一人じゃ帰れそうにないし」
微笑むと、きつい印象が随分和らいだ。
気だるげな目蓋、小さくて厚みのある口唇、すらりとしたフェイスライン。崩れた化粧でも目が当てられるのだから、やはりなかなかにハイレベルなのではないかと侑志は内心で査定する。単に好みの顔面だとかいうのはさておき。
辻本を駅まで送って、二度目の帰り道。
「もしかして新田はあの女の話、まるごと信じてる?」
影を長く伸ばして、桜原はやけに真剣な顔で言った。侑志も赤く染まった道を歩きながら答える。
「どういうこと?」
「つまり」
桜原は指先で自分の頭を二回叩いた。
「俺は、全部あの女の妄想なんじゃないかって思ってる」
「――え?」
侑志は桜原が何を言っているのか理解できなかった。
妄想、という言葉があまりにも強すぎて。
「富島のあの態度見たでしょ。あの人のことだから、わざと思ってもないこと言ってる可能性はあるよ。でも一方的に言い寄られて、本気で迷惑してるのかもしれない」
「だって、辻本の話、どこも矛盾してなかったじゃんか」
侑志は間の抜けた反論しかできなかった。桜原は憐憫の目を向けてくる。
「筋道なんて簡単に立つよ。事実でなくても、本人にとって真実でありさえすればね。とにかく、むやみに同情しない方がいいよってこと」
侑志はむっとして黙り込んだ。
辻本の話に疑いを抱かなかったのは、確かに不用心かもしれない。だがそれより、桜原に裏切られたようで気分が悪かった。
「新田」
分かれ道で、桜原は菓子の大袋を取り出した。
ソフトキャンディの徳用アソート。右手を突っ込んで無造作につかむ。
「あげる」
突き出した拳から、色とりどりの包みがこぼれて、乾いたアスファルトを彩った。
桜原はいつもの顔だった。普段の淡白な無表情。買ったばかりなのにもう開封されていたということは、辻本にもこうして分けてやったのだろう。
侑志は苦笑して受け取った。
「ありがとう」
桜原と別れ、侑志は家路を急ぐ。ポケットの中で握りしめたハンドタオルは冷たく湿っていた。
翌日の侑志は一人で帰路についた。
勉強会は楽しいが、大人数に慣れない侑志はちょっとしたことで気が散ってしまう。高校初の定期テストは明日から。追い込みは家で集中したかった。
同時にこうなることも、薄々察してはいたのだ。
「昨日は彩人の中学時代の話してあげたでしょ。今日は今の彩人のこと教えてよ」
辻本柚葉が、公園近くの道で待ち伏せしていた。後ろで手を組んで、昨日の取り乱しようが嘘みたいな笑顔。
侑志はこれ見よがしに眉をひそめる。
「俺、明日からテストなんだけど」
「大丈夫。ウチちょっと遅いから」
「あんたの心配なんかしてねーよ。俺が勉強したいんだっつうの」
「なによ、昨日は公園でうろうろしてたくせに」
口の減らないやつだ。侑志は論破を諦め、自分の右頬を軽く叩いた。
「ここ。平気?」
「ちょっと腫れてるけど、ファンデでごまかせた。彩人のことだから加減したんじゃない。ほら、わかんないでしょ?」
辻本はグロスたっぷりの口唇を尖らせ、侑志に右頬を向けてくる。そんな加減を知っている富島もどうかと思うが、化粧でごまかす高校生もどうなのだろう。
「それより、今日はあの天然クンいないの? 昨日ハイチュウもらったからね、お礼にマドレーヌ焼いてきたの」
辻本は岩茂学園の校章が入ったスクールバッグから、リボンのついた包みを三つ取り出し、侑志の胸に押し付ける。派手な身なりの割に爪は極めて地味だ。
「あの子に渡しといてね。あんたの分はこっち。それで」
「辻本さん」
侑志は眉間にしわを寄せ、ひとつだけリボンの色が違う包みを突き返した。
辻本は目を丸くして動きを止める。顔の大きさが左右でわずかに違う。これでは桜原のやったソフトキャンディなど痛くて食べられないだろうに。
「はしゃいだフリとかしなくても、伝言ぐらい引き受けてやるよ。だからこれは自分で渡しな」
辻本は口唇を噛んで俯いた。根元がわずかに黒いつむじを見下ろし、侑志は浅く息を吐く。
なぁ桜原。妄想とか、同情とか、よく分かんねぇけど。
この子が富島を想って泣いたことと、俺たちに笑って礼を言ってくれたことは、きっと本物じゃないかって思うんだよ。
「俺越しに様子窺ってたってどうともなんねぇだろ。都合聞いてきてほしいなら聞いてやる。二人きりがダメだってんなら立ち会ってやるし。ちゃんとあいつの顔見て、あんたも納得できる話をしなよ」
侑志は辻本の鞄に包みを一個突っ込むと、持っていたコンビニのビニール袋からプラスチックのカップを取り出した。グレープフルーツ味のかち割り氷だ。
「冷やしとけって言ったろ? 今度は返さなくていいから」
「このために、わざわざ買ってきたの?」
「別に。あんたがいらないなら俺が食うよ」
辻本の右手が伸びてきて、そっとカップをつかむ。侑志はか細い五文字を受け取り、どういたしましてと口許を緩める。
辻本は右頬を冷やしながら、左手で携帯電話の画面を向けてきた。
「あたしのアドレス。名前と番号入れてメールして。今」
表示されているのはプロフィール。侑志は英数字を追いながらボタンを押していく。
radical-clockwork-alice_1117……。
「ラジアリ好きなん?」
「え、知ってんの? 何かと勘違いしてない?」
「服のブランドだろ。クールだけど華があって好きだよ。俺もRadigal(ラ) Clying(ジ) Wolfboy(ウル)の服たまに買うし」
「あそこいいよね! シンプルで大人っぽいのに遊び心あるっていうか。ラジはメンズもレディースもさりげなさが計算し尽くされててホント最高」
辻本はうっとりと目を閉じ、上気した顔に氷のカップを押しつけた。侑志はまじまじと辻本を眺める。
通じてしまった。ファッションの話が、女子と。
解り合ってしまった。生まれて初めて。
辻本がぱっと目を開ける。涙とは違う輝きを宿した瞳。首を動かすたび、緩やかに巻いた茶髪が揺れる。耳たぶにシンプルな無色のピアスが光る。
「あ、メール来た。なんて読むの? あらた?」
「にった。にったゆうし」
「あとでメールする。そしたらそれ彩人に転送して。手紙だと捨てられそうだけど、メールなら読んでくれそうな気がするんだ。ねえ聞いてる?」
「あ、了解」
侑志は観察をやめ我に返った。ピントを合わせるために何度か瞬きをする。
そうだ、富島の話だった。
「よろしく。じゃ、あたし帰るから」
駆け出す辻本。そのまま行くのかと思えば、急に振り向いて笑った。
「また話そうね!」
うーん、と呟き、侑志は畳んだ携帯をポケットに滑り込ませる。
やっぱ早まったんじゃねぇの? 富島。