5話 Taste Like Adolescence

テイスト・ライク・アドレセンス

「母さん、俺ちょっと父さんと練習してくるから」
 侑志(ゆうし)は靴を履きながら母に声をかけた。母が台所から声だけで返す。
「またぁ? 侑ちゃん、体育祭の練習もあるでしょうに。疲れてないの?」
「俺の出る競技、走るだけだから別にやることない。部活の時間削られてるし、もの足んないんだよ」
「そんなこと言ったって、パパはお仕事で疲れて……」
「だって父さんいいって言ったもん!」
 強引に会話を切り上げ、侑志はドアを開けた。吹き込む外気が頬を冷やす。日中の空気は夏並みでも、五月中旬の夜はなかなか涼しい。
 父は既にミットをつけて待っていた。百八〇センチの長身で、侑志と父とで並んで立っていると母に『壁!』と言われる。
「ママのご機嫌はどう?」
「あんまよくない」
「それはよろしくないね。帰りに何か買っていこう」
 父は大真面目な顔で黒縁眼鏡を押し上げた。どんなときでも母の機嫌は父の最優先事項なのだ。その次ぐらいには、息子のことも気にかけてくれる。
 共用廊下の壁に沿って歩くと、近隣の灯りがよく見える。このマンションは十五階建てで、高葉地域においては目立って高い。景観を損ねるとかで建設に反対する声もあったらしい。
 侑志が住んでいるのは七階だ。『上すぎると落ち着かない』という母の一言で、『じゃあ真ん中で』と父が決めた。
 エレベーターホールに着く。二十時を過ぎて下に降りようとする住人は他にいない。
「新しいグラブはどうだい」
「大分馴染んだ。使いやすいよ」
「新しいフォームは?」
「違和感ある。投げづらい」
「まだ始めたばっかりだから、焦らないことだね」
「分かってる。今ちゃんとやっとかないと、またグダグダになるの嫌だし」
 エレベーターが来た。ボタンを押せば、狭いガラス窓から景色が上に流れていく。
 一階に停まる。侑志が先に降りて、エントランスのロックを開けた。父はゆったりとした足取りだ。
「野球部は気に入ったんだね。ママが、侑志は随分気難しくなったみたいなんて言うから、心配してたんだけど」
「そんなこと言ってたの?」
 侑志は目をしばたかせて振り向いた。父は息子と視線を合わせて、深く頷いた。
「ちゃんと青春してるみたいで安心したよ」
「なんだよそれ」
 揃って空の下を歩き出す。ここのところずっと曇りだ。明日は雨も降るそうで、体育祭の練習が短くなれば桜原(おうはら)は喜ぶだろう。一方朔夜(さくや)は楽しみにしているらしいから、当日は天気が崩れなければいいと思う。
「好きな子もできたのかな?」
「はっ?」
 出し抜けな質問に、侑志は声を裏返らせた。顔色を見られないよう街灯から離れる。
「いねーよそんなの。何だよ急に」
「青春といえば、部活と恋じゃないか」
 父は右の親指と人差し指を順に立てた。ときどきこうやって欧米かぶれの動作が出る。言うことはベタベタの日本人のくせに。
 侑志は鞄の中のグラブを見下ろした。
「いいんだよ、俺は部活と友情だけで」 
「じゃあ侑志はきっと、野球の女神様に恋をしているんだね」
 父はミットごと左手をぶらぶらと振り、のんびりした声で言った。侑志は側溝に足を突っ込みそうになる。
 野球で侑志の運命を変えた女子の、切ったと言ったばかりの短い髪が、得意げに笑った顔が、フェンスを鳴らした最初の残響と共に浮かんで揺れる。
 なんで。どうして。父にも母にも一言も話していないのに。どう口を開けば傷を広げずに済むのか、考えは一向まとまらない。
 父は一人で納得した風だ。
「女神様は気まぐれだけど、努力家がお好きだよ。協力して頑張ろうか。まずはしっかり仕上げるところからだね」
 深読みのしすぎだった。ただの比喩だ。侑志はいよいよ真っ赤になり、黙って頷いた。
 父の口ずさむ英語の歌は、イーグルスの『テイク・イット・イージー』。歌詞はよく知らない。ただ気楽そうな曲だとは思う。