5話 Taste Like Adolescence - 3/5

オンナノコってわかんねぇ

「おーっす、にーった!」
 朝の公道に、能天気な挨拶と情けない悲鳴が響く。侑志は両脇腹をさすりながら涙目で先輩を振り返った。
「何で出会い頭に脇腹をつかむんですか!」
「面白いから」
 朔夜は悪びれもせず堂々と答える。侑志はもう抗議するのが馬鹿馬鹿しくなった。
 火曜朝。いつもなら道で会うことはないのだが、今日はたまたま侑志を見かけたので追いかけてきたらしい。
「皓汰に置いてかれたんだよ。寝癖直してる間に」
「切ったばっかりって納まりが悪いですよね」
 口唇を尖らせる朔夜に、侑志は中途半端な返事をした。
 昨晩、侑志は桜原から琉千花の登校時間を訊かれた。『いつも早いみたいだけど』と答えたので、弟は謝罪のために先に出たのだろう。
 侑志は息を吐いて空を見上げた。お気に入りの並木道はとうに抜けて、都会の汚れた空があるだけだ。予報によると今日も晴れ。明日に控えた体育祭もこの調子ならいいのだが。
「なんか皓汰も新田もテンション低いな。昨日映ちゃんに何か言われた?」
「えいちゃん?」
「平橋先生。あの人口軽いっていうか、一言多い感じじゃん」
 朔夜は眉をひそめて片手を振った。具体的な被害に遭った口振りだ。
「いえ、別に」
 琉千花と桜原の件は伏せた。元々侑志が介入するような問題ではない。
「監督のチームメイトだったって聞いたんで。先生たちの高校時代ってどんなだったのかなって思っただけです」
「父さんたちの高校時代? 聞きたい?」
 朔夜が目を輝かせている。そこまで聞きたいわけでもない、とは言えなくて頷いた。朔夜は頷き返して胸を張る。最初から姿勢がいいものだからほとんど天を仰いでいる。
「父さんはね。ある意味、タカコー野球部の創設者なんだ」
 高葉ヶ丘の野球部は、はちょうど桜原監督――桜原太陽(たいよう)少年が入学した年に、部員ゼロで廃部になったのだそうだ。地元で野球を続けると決めていた桜原少年、じゃあやめますと引き下がるわけにもいかず、校内の野球経験者をつかまえて『自称・野球部』をつくってしまった。あの公園はそのとき勝手に練習場所にしていたものを、部員が増えてから正式に使用許可を取ったのだという。
「あの性格だから、公園の管理者さんとか学校とかと、結構モメたらしいんだけどね。担任の先生が理解のある人で、顧問になってくれたうえに色々交渉してくれて、条件付きであそこ使わせてもらえるようになったんだって」
 この時間、人通りはまばらだ。すれ違う影はない。
 朔夜は終始笑顔だった。侑志は最低限の相槌を打ち、彼女の隣を歩いている。
 父さんがね、父さんはね。
 弾むように話す朔夜を見つめ、侑志はひとつひとつ丁寧に首を縦に振る。
 不意に、朔夜が口を閉ざして立ち止まった。侑志も足を止め、ようやく声を出して返事する。
「どうしたんですか」
「いや」
 朔夜はちらと侑志の顔を見上げた後、俯いた。
 雲ひとつない青空。焼けたうなじに光が注ぐ。
「なんでそんな顔すんのかな、って思っただけ」
「は?」
 散歩中の犬が脇を通る。早朝ランナーが駆けてくる。
 二人が止まるのを待っていたみたいに街が動き出していく。
「そんなって。どんな、ですか」
「分かんないよ。なんていうか、なんか」
 朔夜は短くしたばかりの髪を揺らす。歩みを再開しようとはしない。侑志も動けない。
「なんかって言われても」
「なんか、うん」
 ――なんか、おじいちゃんみたい。
 首をかきながら発せられた言葉に、侑志の顔はかっと熱くなった。
「どういう意味ですか!」
「だから!」
 朔夜が顔を上げる。目には真剣な色だけがあった。からかわれているのではないと解って、侑志はかえって途方に暮れた。朔夜も、視線を外すタイミングを逸した顔だ。
 タイヤがアスファルトを擦る。知らない革靴が歩道を叩く。風が吹く。自分が息をする。心臓が早鐘を打つ。
 何もかもが混ざり合ってひどくうるさかった。
「なんで、あんなに――優しい目で、聞くの」
 彼女のか細い声だけが鮮明に聞こえ、そして一切の音が、消えた。
 それも刹那の空白。
「さっくやさぁんおっはよおう! こんな時間から会えるなんて偶然だね、それとも運命かな?」
 後ろから走ってきた坂野(さかの)の声が、いとも簡単に空気を引き裂いた。
 侑志は安堵しながら大きく腰を折る。
「坂野先輩、おはようございます」
「ああ新田、いたの?」
 今ほどこの無関心がありがたいと思ったことはない。侑志は上体を起こして、過剰に真面目な口調で言った。
「お邪魔みたいなので先に行きます。失礼します」
 言うが早いか背を向けて歩き出す。朔夜の怒鳴り声が響く。
「なんだよそれ! ……なんだよ!」
 坂野に足止めを喰らっているのか、追いかけては来なかった。
 侑志の速度はどんどん上がる。校門をくぐる頃にはほとんど走っていた。昇降口にあるガラス戸の向こうでやっと息をつく。
 ベンチには桜原が座っていた。一人だ。侑志に気づいて立ち上がる。
「どうしたの?」
「おうはら。るちかちゃんに謝った?」
 侑志は乱れかけた息で尋ねた。桜原は困惑した表情で、まだ来てないよ、と答えた。
「そう」
 そう、と繰り返して侑志は靴を履き替えた。
 昨日琉千花が好きだと言った甘い声がまたどこかから聞こえていた。
 多分ラブソングだ。侑志の知らない曲。朔夜もきっと聴かないだろう。

 チャイムの音に顔を上げると、一時間目が終わっていた。ノートは何とか取ったが自分でも内容が分からない。
 琉千花が教壇で黒板消しを振っている。精一杯のつま先立ちでも、上の方の文字にはかすってもいなかった。
 侑志は息を吐いて立ち上がり、教室の一番前まで大股で歩いていった。
「ちょい、どいてて。粉が降るよ」
「わっ、新田君? びっくりしたっ」
 琉千花の背でも確実に届くところまで念入りにこする。ペアの男子は何やってんだ、と日直の欄を見たら休みだった。
「遠慮しないで俺とか呼びなよ。デカいのなんて、これくらいしか役に立たないんだしさ」
「悪いよ。新田君の席、一番後ろなのに。私、今度は自分で椅子持ってくるから」
「だって椅子、呼んでも来ないじゃん」
「意外と変なこと言うんだね。新田君って」
 琉千花はチョーク受けを引き出しながら笑った。
「そういえばね、桜原君と仲直りしたよ」
「そっか。よかった」
「でも、今度は新田君が朔夜さんと何かあったでしょ」
 疑問ではなく断定の口調だった。侑志は憂鬱な気分で琉千花を見遣る。
「なんで?」
「体育祭の朝練終わった後、朔夜さんうちの教室来てたの。新田君いるかどうか聞かれて、男子はまだ戻ってないって言ったら、じゃあいいって。なんか変だったから」
 琉千花は何故か口唇をとがらせて答えた。用事が自分宛てでなかったことが悔しいのだろうか。
「鋭いよなぁ、オンナノコは」
 侑志は黒板消しを持って教壇を下りた。クリーナーの騒音の中、聞こえなくても構わない程度の気持ちで呟く。
「なんかっていうか、何もないんだけど。なんでこうなっちゃってるんだか、俺もよく分かんない」
「分かんないの」
 繰り返しながら琉千花は桟を拭き始めた。侑志も逆側から、綺麗になった黒板消しを滑らせる。真ん中で、かちんとぶつかった。
「朔夜さん、怒ってんのかな」
「どうだろ。ホントに何もないの? 新田君が気付いてないだけかもよ」
「分かんない」
 仕上げに黒板消しをまた掃除して、手を洗うため一緒に廊下へ出た。
「本当によく分かんないんだよ。気に障るようなことした覚え、ないし」
「じゃあ新田君は何もしてないのに、勝手に朔夜さんの様子がおかしいってこと?」
「そうじゃないけど」
 天井を向いていた蛇口を下に向ける。左手で捻るとしばらく生温い水が出て、そのうち冷たくなった。
「監督の昔の話聞いてたんだよ。そしたら、俺の目が気になるみたいなこと言われて、怒ってるみたいでもなかったし、からかってるんでもなさそうだし、でも俺朔夜さんが何言ってんだかよく分かんなくて」
 どうして、『優しい目』なんて言い出したのか、全然分からなくて。
 侑志は乱暴に水を止めた。
「ああもう、女子って何考えてるんだか全然分かんねぇ」
 手も拭かずに、流し台の縁をつかんで座り込む。ステンレスに額を押し付けたら少しは頭も冷えるかと思ったが、全く無駄だった。
「新田君て、すごぉく真面目だよね」
 琉千花は、すごぉく、のところに力を入れて言った。侑志は視線だけで琉千花を見上げる。新田君見下ろすなんて初めて、と琉千花は屈託なく笑った。
「お兄ちゃんとか、たぁ君はね、結構テキトーに話聞いてること多いんだよ。でも新田君はすごく真面目な感じがする。真面目に聞いて、真面目に考えながら反応してるでしょ。なんかね、他の男の子と違うから、朔夜さんはそれがちょっと不思議だったんじゃないかな。だけど何て言っていいか多分、分からなかったんだと思う」
 侑志の手のひらから手首へ水滴が伝い落ちていく。流しをつかんでいた指が緩む。
「それで俺、どうしたらいいのかな。どうやって話聞けば、いいのかな」
「そのまんまでいいんじゃない?」
 琉千花がハンカチを差し出してきた。ひよこの刺繍が入った、淡い黄色のタオルハンカチ。
「昨日言ってくれたでしょ、普通にしててあげてって。おんなじだよ。新田君がそういう人なんだって分かれば、朔夜さんも気にしなくなるよ。だから新田君はそのまんまでいいんだと思うな」
 ね、と琉千花は首を傾げた。ありがとうと侑志は立ち上がる。
 琉千花のものを断って自分のハンカチを取り出した。
「偉そうなこと言ってこのザマだよ。何で、自分のことだと分かんなくなっちゃうのかな」
「みんなそうなんじゃない? だから誰かに話聞いてほしくなるんだよ」
 琉千花は流しに寄りかかった。侑志も苦笑をもらして、琉千花と同じように教室を向く。
「ねぇ、あのさぁ。俺も先輩たちみたいに、るっちって呼んでもいいかなぁ」
「えっ? もちろんいいけど。どうしたの急に?」
「いや、そっちの方が友達っぽいかなぁと思って」
 侑志は天井を仰いだ。
「またこうやって話聞いてくれたら嬉しいなって、思うんだけど」
 琉千花は一瞬言葉を失った後、いいよと言って吹き出した。侑志もつられて笑い出す。
 二人してくすくす震えていたらチャイムが鳴って、慌てて教室に戻った。