5話 Taste Like Adolescence - 2/5

身内の温度

「今日は雨天につき臨時ミーティングだよ~。みんな準備はいいかなぁ?」
「はーい! お願いしまーすタイチおにいさん!」
「よーし、おにいさんがんばっちゃうゾっ☆」
 元気だなぁ、と侑志は八名川(やながわ)森貞(もりさだ)のやり取りを真顔で見ている。
 八名川は、じゃあ始めますよと地声に戻って眼鏡を押し上げた。
「臨時だろうが議題はあります。明後日の体育祭が終わったら中間考査が始まるわけですが、皆様学生の本分たる勉強はいかがでしょうか」
「してない」
「しているわけがない」
 堂々と答えたのは三石(みついし)と朔夜だった。八名川の笑みが引きつる。
「今回も勉強会やりますんでね。なおキミら二人は強制参加です。今のうちに取り損ねたノート写させてもらっときなさい」
「えームリ。オレほとんど全部取ってねーもん」
「取り損なってるかどうかすら記憶が定かでないよ」
「誰が反駁してよいと言いましたか!」
 八名川は笑顔のまま右手をホワイトボードに叩きつけた。当の本人たちは平然としている。『はんばく』の意味も分かっていないようだ。
「あのね、オレはキミらのためを思って言ってんの。去年の通知表どうだった? とても後輩には聞かせられない評定平均――」
「二・六!」
「二・九!」
「競って言うな!」
 勢いよく挙がった二本の手に、端正な顔がついに崩れた。
 高葉ヶ丘高校では、通知表の評定平均が二・七を切ると進級が困難になり、二・五を切ると不可となる。二人は共に死線をかいくぐってきた同士らしい。
「監督! この子らに何とか言ってやってくださいよ」
 八名川が眼鏡をかけ直しながら言った。監督は頭をかいて天井を見ている。
「まぁ……卒業はしろよ」
 どうやらお父上も学業面は芳しくなかったようだ。
 八名川は渋い顔で首を振った。
「キミらが受験で苦労するとかね、そういうのももちろんありますけど。野球部員が赤点だー追試だーあまつさえ留年だーなんてことになったら、監督や平橋(ひらはし)先生にご迷惑がかかるの。分かる?」
 ヒラハシセンセーって誰、と井沢(いざわ)が侑志の袖を引く。知らんと小声で返すと、耳に入ったのか八名川がこちらを向いた。
「平橋映斗(えいと)先生、知らんの? 顧問だよ。こないだ試合のときいたでしょ」
「え、ウソ? 映ちゃんこの前もいなくなかった?」
 三石が眉をひそめる。いたよー、と岡本(おかもと)が口を挟む。
「端の方で小テストの採点してたよ」
「またかあのオッサン。部活とそれ以外の仕事分けろよ」
 早瀬(はやせ)の呆れには慣れと諦めもにじんでいた。まあまあ、と森貞がとりなす。
「平橋先生、二年の担当だろ? 一年は習ってないんじゃないか」
「僕らは習ってますけど」
 富島(とみじま)がさらりと反論する。それを発端にごちゃごちゃと話が錯綜したが、要するに『平橋先生』というのは三石のクラスの担任で、二・三年の文系と一年の後半クラスを教えていることが分かった。A組の井沢とB組の侑志たちは担当外らしい。
「お前ら一応、これ終わったら一応挨拶に行ってこい。いくら何でも責任教師の顔を知らないのはまずいだろう。一応」
 監督は顎ひげをしきりにいじっていた。一応と三回繰り返すあたり含みを感じる。
 三石が元気に手を挙げる。
「カントクー。オレ面談の希望書出してないんで、一緒に連れてきます」
「ミッちゃんそれも昨日まででしょうがぁ」
 八名川は座り込んで頭を抱えたが、咳払いひとつで立ち上がり進行を再開した。
「もうまとめますよ。疲れたまってると思うけど、ひとつひとつ集中して怪我のないようにやってください。一年のA・B組は三石君と一緒に平橋先生んとこ行ってもらって、残りの人はちゃんと椅子と机を整えてから出ること。オレからは以上です」
 監督も三年生も特に付け加えることはないと言うので、解散になった。
 三石に先導され、三階にある社会科準備室に向かう。
「おー三石、プリント持ってきたのか? またこの前みたいに麦茶こぼしてないだろうなぁ」
 一人の男性教諭が振り返った。細身に袖をまくった白衣。アンダーリムのフレームは鼈甲のようだ。四十手前ぐらいだろうか、眼鏡のデザインで少し老けて見える。
「どしたぁいっぱい引き連れて。新入部員か? どうもどうも、顧問教諭の平橋映斗です」
 説明も待たず、平橋は両腿に拳を載せて頭を下げた。芝居がかった動作だ。
「ここの野球部のOBでエイトなのにショートやってました。ハチなのにロク、なんつって」
「先生そのネタもういいっスよぉ」
 三石は机上の地層に古文書のようなプリントを紛れ込ませながら、うんざりした口調で言った。どうやら十八番らしいが井沢しか笑わなかった。
 平橋の勢いは止まらない。
「担当教科は世界史で、2Bの担任だよ。やぁ君がそうか、センパイの息子さんだろ?」
 平橋は座ったまま、好奇の視線で桜原の顔をまじまじと見つめる。
「若い頃のお父さんそっくりだなぁ。あ、でも口許はお母さん似かな?」
「いちねんびーぐみのおーはらこーたですよろしくおねがいします」
 桜原は一息で言って三石の後ろに隠れた。自然、侑志らが前にせり出される。
「一年A組井沢徹平(てっぺい)です!」
「一年B組の新田(にった)侑志です」
「一年B組の早瀬琉千花(るちか)です。二年の早瀬怜二(れいじ)の妹です」
「おー、今年は身内よりどりみどりで」
 平橋はほくほく顔で一年生を見回した。よりどりみどりと言っても、桜原と琉千花だけではないか。
 平橋の視線が侑志で止まる。あまりに凝視されていたので、つい声が出た。
「何か?」
「いやー、わかるわかる」
 にやにやされた。侑志にはまるでわからない。
 井沢が唐突に挙手をした。
「質問です! ここのOBってことは、監督と先生はチームメイトだったんですか?」
 平橋の意識がそちらに向いた隙に、侑志は桜原のそばまで下がった。
「そうだよ。桜原センパイの一期下。だからここに赴任してすぐ、なり手のなかった野球部の監督をあの人に頼んだ。英断だったろ?」
 平橋は何度も頷いた。監督が、一応一応と念を押したのは、身内に対する照れだったのかもしれない。井沢はまた何か訊こうとしていたが、桜原が遮った。
「先生。ぼくら、そろそろ体育祭の練習に行かないと」
「そうか。悪かったな、引き留めて。頑張れよ」
 平橋は最後までにこやかだった。三石だけ残るように言われ(プリントの件だろう)、一年生は廊下に出た。
「ねぇ、私まだよく分からないんだけど、桜原君のお父さんってどんな人?」
 琉千花が邪気のない声で尋ねた。まずいなと思ったが取り繕う暇もない。
「朔夜に訊いた方がいいと思う」
 桜原は素っ気なく答えた。琉千花は大きな目をしばたかせて固まっていた。桜原ははっとした顔になったが、何も言わず下を向く。
 何か言わなくてはと思うのに、侑志の口からも言葉は出てこない。
 声を上げたのはまた井沢だった。
「便所寄りたい。先行くわ、オレだけA組だし」
「俺も行く」
 桜原は苦々しい調子で言って、井沢と共に階段を駆け上がっていった。
 琉千花は自分のシャツの裾を握りしめている。小柄な身体が一層小さく見えた。侑志は首を傾け、努めてやわらかい声を出した。
「気ィ悪くしないでやって。あいつ、お父さんとあんまり仲よくないみたいだから」
「そうなんだ。悪いことしちゃったかな」
 琉千花は弱々しく呟いた。そんなことないよ、と侑志は微笑む。
「多分あいつも気にしてるだろうから、普通にしててやって。その方が安心すると思う」
「うん。ありがとう」
 琉千花はまだ硬い笑顔をつくった。促して一緒に教室のある五階に向かう。
 どこかから知らない音楽が流れてくる。琉千花が顔を上げる。
「aikoだ。五月なのに『花火』でパフォやるんだね」
 曲を知らない侑志は曖昧な返事になる。歌声が若い女性のものであることしか分からなかった。
「好きなの? 琉千花ちゃん」
 場を繋ぐための質問に、琉千花ははにかんで頷いた。
「『夏服』ってアルバムに入ってる、『初恋』って曲がね。いちばんすき」
「へぇ」
 二年生もCDを貸し借りしていたし、この部には音楽好きが多いのかもしれない。侑志が話についていくのは大変そうだ。歌ものは母が流しているものしか知らないから。
「俺らもパフォ頑張んないとね」
 露骨な話題逸らしに、そうだね、と琉千花は同意してくれた。
 この日の雨は昼には上がった。けれど部活はなしになって、放課後も体育祭の練習ばかりだった。