5話 Taste Like Adolescence - 5/5

エピローグに代えて 早瀬琉千花編

 野球の何がいいのか、私には全然分からない。
 ルールは複雑なばっかりで、何だかだらだらした感じがするし、巨人が負けるとお父さんは機嫌悪いし、私も延長なんかでドラマの録画に失敗したときなんてすごく嫌な気分になる。
 それより、何より、野球は私の大事な人をみんな持っていってしまうから、嫌い。

 最初にとられたのは、為一君だった。
 ご近所に住んでる男の子で、よく一緒に遊んでた。たぁ君はホントに大人しい子だった。女の子みたいにキレイな顔の、天使みたいに優しい子だった。
 身体が弱くて、お兄ちゃんみたいに外で暴れるのは苦手で、私やホタル(うちの猫)といる方が多かった。おままごと、お人形遊び、折り紙、お絵描き、絵本を読むの、他にも色んな遊びに、たぁ君はにこにこ、にこにこしながら付き合ってくれた。
 小学校に上がってからはそういうことも減ったけど、それでもたぁ君はときどきホタルに会いにきたし、そのときは私にも構ってくれて、まだまだ全然、おっとりしてた。
 だけど中学のとき、たぁ君は変わった。
 お兄ちゃんが野球部に入るとか言い出して、何だか知らないけど、たぁ君も一緒に入ってしまった。そうしたら折れそうだった身体がだんだんゴツゴツしてきて、白かった肌が焼けてきて、大声を出すせいなのか声が低くなってきた。
 たまにうちに来ても、お兄ちゃんとワケの分からない会話に熱中して(サンタテとか、ゼンタコとか、魚介の話をしてるのかと思った)、げらげら笑ったりして、ホタルを膝に乗っけたままソファで寝ちゃってることもあった。
『おー、るっち。こんちわぁ』
 その頃聞いた覚えのあるたぁ君のセリフは、これだけ。ああ、でも、やぁ、でもなく、おお、っていうのがすごくオジサンくさいと思ったし、間延びした語尾が軟派っぽくて気持ち悪かった。
 自分のことを『オレ』って呼んだり、『あいつ』とか『おまえ』とか言いながら下品な話をしてるのとか、耐えられなかった。たぁ君だけは特別で、野蛮な男子たちとは違うんだって思ってたのに。
 野球のせいだ。お兄ちゃんがあんな風なのも野球がそばにあったせいだし、たぁ君がこんな風になっちゃったのも全部野球のせいだ。野球が悪いんだ。
 もちろん、本当の原因はそんなことじゃない。ただ、たぁ君も男の子だったってだけ。私がそれを認めたくなかっただけ。
 私も中学に上がったら少し大人になって、少しずつ現実を受け入れられるようになった。うちの居間に積んであった洗濯物の山(の中の多分お姉ちゃんの下着)をチラ見してたたぁ君を引っぱたいたら完全に吹っ切れて、私たちはまた普通にしゃべるようになった。
 だけど野球へのわだかまりは、やっぱりまだ残っていた。

 夏頃になると、お兄ちゃんたちは高校野球の話を始める。
 トジツ、イワハチ、マブガク、シューワダイフゾク……中学の頃の私は、二人の会話に出てくる名前をひとつひとつ覚えた。その高校だけは行かないようにしようと思って。だって、学校をあげて野球を応援してるような学校で、野球キライなんて言ったら私、ヒコクミンじゃない。
 お姉ちゃんの使ってた高校案内を眺めながら、私は思った。
 野球が有名じゃない学校に行こう。それで、大学に行けそうなところ。高葉ヶ丘とかいいなぁ。お姉ちゃんが行ってたところだし、結構近いし、セーラー服っていうのがいいよね。
 よーし決めた。私、高葉ヶ丘に行く。お兄ちゃんたちが野球やるのは勝手だけど、私は野球とは関わらない。
 なのに、お兄ちゃんたちは私より一年先に高葉ヶ丘に入って、しかも一緒に野球を始めた。
 何で? どうして? 野球の話でタカコーの名前が出てきたことなんて、なかったじゃない。私の方が先に決めたのに。どうしてそうなっちゃうの?
 すごく嫌だった。けど、あの二人のために私の予定を変えるのはもっと悔しいから、やっぱり高葉ヶ丘を受けた。
 ちょっとしたアクシデントはあったけど、もういい。お兄ちゃんたちなんて関係ないもん。
 これから、憧れの高校生活が始まるんだから!
 ……なんて。現実は思い描いてたのとは何か、違った。
 クラスですぐ友達ができた、まではよかったんだけど。
 入りたい部活が、ない。
 卓球はもういいやって感じだったし、ダンス部はノリが違うなぁって思って、他にもちょこちょこ見てるうちに、だんだん疲れてきたから、やめた。
 友達は部活の話で盛り上がってるけど、私は、そーなんだーとしか言えない。部活が全部じゃない! って胸を張れるような趣味とかあれば別なんだろうけど、私には残念なことに、なーんにもなかった。
 このまま、三年間だらーっと終わっちゃうのかなぁ。せっかく高葉ヶ丘に入ったのに、もったいない。
 それで、ある昼休み。
 もう友達の話を聞いているのも嫌になって、家で読む本でも探そうと思って、図書室に行った。高校の図書室って大きい。図書『室』、っていうより、図書『館』みたい。椅子に乗ったって上まで届かないような本棚が、何列も何列も並んでる。何だか迷路を歩いてるみたい。
 落ち着かない気分でうろうろしてたら、前から読みたいと思ってた小説を見つけた。何年か前のベストセラー。事故で死んでしまった男の子が、天使と協力して、生前好きだった女の子を助ける物語。
 これ借りよう! って思ったんだけど、よく見ると妙に高いところにある。背伸びすればどうにか……なんて、考えるまでもないぐらい、全然上。
 泣きそうになった。何にも上手くいかない。本棚まで私をバカにしてるみたい。届く訳ないだろって、さっさと帰れって。
 なんで。どうして。
 知ってるのに、見えてるのに、何も触れなくて。
 もうやだ。
 ねぇ誰か、助けてよ。
「どれですか?」
 ふわっと、やわらかい声がした。振り向くと、学ランの男の子が立っていた。
 本の森の中にいても負けないくらい、まるで周りが透明に縁取られてるみたいに、存在感があった。
 緑の上履き。同じ学年。
 私は慌てて涙を拭いて、あの黄色いのです、って言った。何だか、そのベタベタなタイトルを言うのが恥ずかしい気がしたから。お兄ちゃんとかだったら、お前こんなん読むのかよ、とか絶対言ってくるもん。
 でもその子はバカにした顔なんか全然しないで、これですか、って本の背表紙に指をかけて、ひょいっと取り出した。
「はい」
 表紙を上にして、正面が私に向くように両手で差し出してくれて、そのとき、彼のくちびるの端が少しだけ上がった。受け取りながら、ありがとうって私が言うと、彼はちょっと頭を下げてドアの方に歩いていった。
 私は本を握りしめて、彼の後ろ姿を見つめていた。
 あの人、知ってる。クラスで見たことある。
 教室ではいっつも難しい顔をしてて、無口なのに。恐い人なんだと思って、避けてたのに。
 本当は、あんなに優しい声をしてるんだ。
 もう小説なんかどうでもよくなった。椅子に座って、読んでもいないのにページをめくりながら、カウンターにいる彼の横顔をちらちら見てた。
 キレイな横顔だった。特にくちびるのラインがすごく整ってた。借りていく人に返却日を言うときの口もとが、声の聞こえない分なおさら印象的で、もうそれだけで映画みたいだった。
 昼休みが終わるちょっと前、私は思いきって立ち上がった。これ借りたいんですけど、って言おう。初めてだから借り方わからないんですけど、って言おう。
 でも私が一歩踏み出したときにちょうど入ってきた人がいて、彼はその人の返却手続きを始めてしまった。今さら座り直すこともできなくて、私は結局、彼の隣にいるお姉さんに借り方を教えてもらった。
 図書室を出るとき、ガラス戸越しに盗み見たら、彼はまたいつもの面白くなさそうな顔に戻っていた。
 私は走って教室に戻った。

 それ以来、私の目に映る世界は全然変わった。
 彼が先生に指されて口を開くたびに、どきどきしたり。
 黒板に書かれた癖字をノートに真似してみて、慌てて消したり。
 彼が消しゴムを拾うために机の下にもぐった後、思いきり頭をぶつけて(しかも何くわぬ顔で座り直して)いるところを目撃してしまったり、した。
 それだけじゃない。涙ぐましい努力もした。
 彼が通るときを見計らって例の本をかばんから出してみたりした。あ、その本、なんて言ってくれるかもって期待したのに、完全にスルーされた。
 予習に力を入れてみた。完璧な答えで先生に褒めてもらったこともあった。ちょっとだけ振り返ってみたら、そういうときに限って彼はうとうとしていた。
 体育で同じ種目を取ってみたりした。チームは別にされた。しかも彼は、自分が動いていないときはA組(B組じゃなくて!)の方をぼーっと見ていたりするのだった。
 この間と同じ曜日に本を返しに行ってみた。彼はガラスの仕切りの向こう(関係者以外立ち入り禁止)で仕事をしていた。
 でもそんな空回りだけじゃなくて、嬉しいこともあった。
 いつもつまらなそうにしていた彼に、友達ができたみたいだってこと。
 その日も二人は教室で喋っていて、私はたまたま一人だったから、こっそり聞き耳を立ててみた。
「ねー新田、ホームラン打つってどんな感じ?」
「んん? だって、別に、宝くじみたいなもんだよ。狙う気でいきゃあ入るときもあるし、ダメで元々、そうなりゃラッキーって感じ」
「うわっ、いーやーみー」
「嫌味じゃねぇよ。姉ちゃんに訊いてみりゃいいだろ」
「朔夜のバッティング論は擬声語ばっかで理解できないんだよぉ」
「ミスターかよ」
 私は、新しく借りた本をぎゅっと握りしめた。
 あの時と同じだ。お兄ちゃんとたぁ君が、私をのけ者にした言葉たち。
 私の前に立ちふさがるのはいつも、野球、野球、野球。
 机の上に本を置いて立ち上がった。用があるふりをして、教室を横切っていった。
 廊下に出る瞬間、ちらっと彼を見た。笑っていた。くらくらするほど眩しい、無防備な笑顔だった。
「ねー、意味わかんないでしょ?」
「表現が独特すぎだろあの人ー!」
 私は教室を飛び出した。
 ああ、ねぇ、野球の話なら、君はそんな顔をしてくれるの?
 君と話したい。君を知りたい。
 もっともっと、近くで見ていたい。
 もしも私が、野球のことをたくさん知って、そんな風に話ができるようになったら。
 ――私にも、同じ笑顔をくれますか?

 私は決めた。もう野球から逃げない。
 お兄ちゃんを、たぁ君を、彼を夢中にさせる野球ってやつと、正面からぶつかってやる。
 大っ嫌いな野球は、いつの間にか私のライバルになっていた。
 敵わなくて、悔しくて、でも負けたくないって思う。絶対絶対、負けないって思う。
 彼をますますカッコよくする、まるっきり無邪気にしてしまう、そして誰より熱くさせる、すごい存在。私はまだ彼の『野球』の一部にすらなれていないのかもしれないけど、でもいつか。
 君と青春したくって、私は野球と張り合ってます。