1話 No.[10+1]

ナンバー・テンプラスワン

 軟球を、バットで打った音がした。
 新田(にった)侑志(ゆうし)は足を止め、音がした方に目を向ける。
 入学したばかりの高葉ヶ丘(たかばがおか)高校まで、両親と住んでいるマンションから徒歩三十分。大きな公園を通って、焦げ茶色の髪に朝の光を浴びていく。
 打音は公園内にある広場から聞こえた。緑色のフェンスで囲われた小さいグラウンド。子供たちが白球を追いかけているのを何度か見たが、平日の七時台に小学生が校外で練習などしているのだろうか。
 侑志は広場に近づいていって、茂みの隙間から騒がしい場所を覗き込んだ。
 野球の練習着に身を包んだ少年たちが動き回っている。少年といっても、身体のサイズはほとんど大人だ。マウンド――とはいえ盛り土はできないのか他の箇所と同じ高さ――に一人と、ホームベースに一人。
 左打席には打者。バッテリーに比べかなり細身で、高葉ヶ丘高校指定のジャージ姿だ。まだ練習着を持っていない新入生だろうか。
 それにしても、こんな時間にこんなところで高校生が野球?
 侑志はもう一歩踏み出してライト側のフェンスをつかんだ。試合さながらの緊張感が肌を刺す。知らず唾を飲み込んで息を止める。
 投球。スイング。打音。そして――。
 目の前に白球。
 フェンスが激しく揺れたのと、侑志が悲鳴を上げてのけぞったのはほぼ同時だった。とっさに顔をかばった両腕も下ろさないまま、侑志は跳ねていくボールを呆然と見下ろす。
 何だよこの打球。どういうヘッドスピードしてんだよ。あんな身体で、しかも軟球で、こんな鋭い引っぱり方するバッター……見たことねえよ。
「悪い! びっくりさせたか」
 はっと視線を向ける。フェンス越しに今の打者が立っていた。メットの庇の下から、切れ長の両目で侑志を見上げている。百七〇センチくらいだろうか、侑志より十センチほど背が低い。
「おい?」
 少年期特有の中性的な声で呼びかけられる。侑志は慌てて姿勢を正した。
「すみません。大丈夫です」
「ならいいけど」
 打者は膝を屈め、自分の飛ばした球を左手で拾った。
「君、タカコーの新入生だろ。まだボタンがキラキラしてる」
 袖をまくったジャージから、よく締まった両腕が伸びている。上体に対して腰周りががっしりしているのは、いかにも野球経験者らしい。
「いつもこっち見てるよな。野球に興味あるのか?」
 打者は身体を起こしてボールの土埃を払った。侑志は声を詰まらせる。
 確かに目を向けていたことは、これまでも何度かあった。だが足を止めたのは今回が初めてだ。気付かれるほど長く見つめていた覚えはない。
 打者は返答を待たず、陽光の下にありなお黒い瞳で侑志の目を捉えた。
「野球部、入らないか」
 ヤキュウブ。聞かされた単語が耳の中を不愉快に転がる。侑志は詰襟の第二ボタンを握りしめ、かすれた声でどうにか返した。
「い、嫌です」
「即答じゃなかったな。なら望みはある」
 いたずらそうな笑みを浮かべ、打者はボールを持った左手を小さく振った。
「部員足りなくて困ってるんだ。考えといてくれるか」
 駆け戻っていく華奢な背中。馴染みのある掛け声と、明るい喧騒。
 侑志は目を切り、舌打ちをしてその場を離れた。
 野球だけはもうやらない。
 あの日、自分でそう決めたのだ。

 翌日も侑志は朝の公園を通る。
 広場に高葉生はいない。太極拳(だろう、多分)をやっているお年寄りが数人いるだけだ。
 平和な通学路。耳に届くのは鳥のさえずりだけで、急襲されたフェンスが鳴ることもない。
 それがフツーじゃんか。別に何も気にすることなんてないんだ。
 自分に言い聞かせながら、高校への道を急ぐ。
 五階の教室に着いてみると先客がいた。一番乗りでなかったのは初めてだ。侑志は学ラン姿の男子生徒にそっと声をかけた。
「オハヨウ」
 窓を開けようとしていた少年が振り返る。
 中性的な細面、切れ長の黒い瞳、百七〇センチほどの上背、細くて薄い身体。どこかで――。
 侑志ははっと息を呑む。思い出した! 
「昨日の!」
 指差し叫ぶ。目を丸くした少年に詰め寄っていく。
「なんだよ。えらそうなこと言って、お前も一年じゃねェかよ!」
「あー、ちょっとまって」
 少年は引け腰になって、両の手のひらを侑志に向けた。侑志は眉をひそめて動きを止める。
 昨日こいつ、こんな声低かったっけ。
 もっと声変わり前みたいな、かすれた高い声だったような。
 少年は両手を下ろし、台詞をはっきり区切った。侑志の目を見て淡々と。
「それ、多分、姉貴」
「は?」
「だから。多分そのえらそうな奴、俺の姉貴。よく間違われる」
 真顔だ。嘘をついているようには見えない。侑志は不平を息に込めたものの、言葉には出せなかった。
 俺の兄貴だと言われたら、もっと素直に納得しただろう。だが侑志の常識では、あの鋭い打球と女子高生が上手く結びつかない。
 少年は首を傾げ、右手の人差し指を下に向けて振る。
「なんなら並んでみせようか。四階の二年A組。今、いるよ」
「いいよ。分かったから」
 侑志は首をかいて引き下がった。上級生の教室に行くなんて、冗談やハッタリにしては質が悪すぎる。
「俺の名前、知らないよね」
 サクヤと間違えてたもんね、と少年は肩をすくめた。侑志は目を逸らしながら、窮屈な詰襟の金具を外した。
「ごめん。まだあんまりクラスメイトの顔覚えてなくて」
「しょうがないよ。俺、目立たないしね」
 少年は小さく笑って黒板へ歩いていった。白いチョークを手に取り、リズミカルに文字を書きつけていく。
「オウハラコウタ。姉貴はサクヤ。字は覚えなくてもいいけど」
 少年は『桜原皓汰』と書いた後、名字の斜め下に『朔夜』と書いた。姉弟というより夫婦みたいに。
 侑志はしばしそのまとまりを眺めていたが、振り向いた少年――桜原(おうはら)と目が合い、慌てて自分を指差した。
「えっと、俺は」
「知ってる。新田ユウシ君。漢字は確か」
 桜原は自分の名前よりもゆっくりと二つの文字を書いた。
『有志』。
「にんべん」
「失礼。こうだね」
 素早い修正。人偏は『有』より上にずれている。丁寧に書かれた他の箇所とのバランスが悪く、自分の名前とは別の記号に見えた。
「何で知ってんの?」
 侑志は黒板に歩み寄り、崩れた『侑志』を左手の指先で消した。下の名前を他人の字で見るのは気恥ずかしい。桜原姉弟の名前は勝手に消したら悪い気がして残しておく。
「やっぱり並ぶとデカいね」
 桜原はふっと口許を緩めて、黒板消しを手に取った。
「体力測定のときも目立ってたよ。記録、すごくよかったじゃん」
 桜原の右手が、す、と一直線に自分の名前を消す。
 侑志は、別にと目を伏せ、手についたチョークの粉を払い落とそうとした。広がってしまって余計始末に困る。
「俺は受験期も気分転換に走ったりしてたから。みんな鈍ってただけだろ。他の奴らの体力が戻ってきたら、俺なんかすぐに埋もれるよ」
「そんなものかな」
 桜原は姉の名前を、自分の名前を消すときより入念に擦った。
「だって、朔夜(さくや)に声かけられたんでしょ。言われたんじゃない? 野球部入れって」
「入んねェよ」
 桜原がびくりと肩を震わせる。侑志も思った以上に不機嫌な声が出たことに動揺したが、覚られないよう舌打ちする。
「野球部なんか絶対、入んねェ」
 今度こそ意識して低い声にした。桜原は黙っていたが、やがてため息をついて侑志に背を向ける。
「だからそれは、朔夜が言ってるんだろ。俺は知らないよ」
 桜原は黒板消しを持ち、軽やかに教壇を降りた。クリーナーのスイッチが入り、騒音が教室内を暴れ回る。二十秒ほどで音はやんだが、まだ耳の奥に残響がある。
 桜原は黒板消しを元の場所に戻すと、遠慮のない笑顔で侑志を見上げた。
「俺は個人的に新田と友達になりたいと思ってるんだ。野球とも朔夜とも関係のない文脈でね」
「何で?」
 侑志はポケットティッシュで左手を拭う。桜原は自分のスラックスでチョークの粉を払っている。
「何が。文脈の話?」
「ちげェよ。その前の」
 言いかけて、やめる。
 何で俺と友達になりたいの? なんて、みじめすぎる。
 桜原は少し考えて、ああ、と手を打った。
「波長」
「ハチョウ?」
 侑志はオウム返しに尋ねる。桜原は頷いて教室を横切っていく。窓の前に立ち、骨ばった右手をガラスに添える。
「合いそうだなって思ったんだよ。それにさ」
 桜原がガラスを横に滑らせると、教室に春風が吹き込んだ。黒板脇に掲示されたプリントがばたたと鳴る。桜原は窓辺に寄りかかって目を閉じる。硬そうな黒髪を揺らしてやわらかく微笑む。
「俺は左利きが好きなんだ」
 侑志は黙って自分の左手を見下ろした。
 昨日の打者は、彼の姉だという桜原朔夜は左打ちだった。確かボールを拾っていたのも左手だったはずだ。
 ――変な姉弟。
 桜原に背を向け、廊下に出て手を洗う。四月の水道水はまだ冷たかった。