1話 No.[10+1] - 5/5

エピローグに代えて 桜原皓汰編

 俺が姉を呼び捨てにするのには理由がある。
 まず一学年しか違わないために(実際四月生まれの朔夜と二月生まれの俺では二歳近い開きがあるのだけれど)あまり年齢差を意識しない。
 なにより俺は姉が嫌いだった。
 朔夜は幼い頃から活発……と言えば聞こえはいいが、要するにガサツな女の子だった。俺は事あるごとに朔夜と比べられ、運動が苦手なことも、引っ込み思案なことも、果ては男であることすら周囲から揶揄された。
 俺は朔夜の好きな遊びが全部嫌いだけれど、とりわけ嫌いなのが野球だった。あんなゴムの塊を投げたり叩いたりして、危険で、野蛮で、ナンセンス極まりない。
 学校では、俺はいつも図書室にいた。望んだ静けさと、六年間かけても読みきれない本がある場所。本の中では俺は何でもできたし、何にでもなれた。本さえあれば、俺は一人で完璧な世界を構築できたのだ。
 書棚を回っているとき、ふと校庭の様子が目に入ることがあった。探さなくとも朔夜は一際目立っていた。休み時間の野球は禁じられていたから、大抵おにごっこや竹馬などに精を出していた。バカみたい、と呟きながら、本を読まずにずっと見つめていることもあった。
 朔夜が嫌いだった。
 朔夜は俺にないものをたくさん持っていたから。
 友達がたくさんいて、いつも堂々としていて、運動が得意で、そして親父と野球ができた。俺と違って。
 いつも朔夜が羨ましかった。朔夜は俺のヒーローだった。同時にいつも恨めしかった。
 だからあのとき、朔夜があんなことを言い出したのは俺のせいだと思った。
『野球、もうやめる』
 小五のときだ。朔夜は見たこともないくらい弱々しい姿でそう言った。なんで、と訊いても、やめる、と言って泣くばかりだった。学校も休みがちになって外でも遊ばなくなった。
 正確な理由は今でも分からない。直感したのは、サクヤが女の子だからだということだけだ。
 その頃俺は、朔夜は本当は男で母の胎内にペニスを置いてきてしまったのだと本気で信じていた。それを俺が間違えて拾ってきてしまったのだと。俺が男に生まれてしまったから朔夜は男になれなかったのだと。
『ごめんね。サクヤ』
 朔夜には俺の謝罪の意味は伝わっていなかったと思う。九歳の俺には自分の想いを正しく表現するだけの力がなかった。きっと今でもない。朔夜への負い目を説明することは、誰に対してもできない。
 自責の念だけが膨らんでいった。自分が男に生まれただけでは飽き足らず、朔夜を妬んだりしたせいで、朔夜から全てを奪ってしまったのだと。
『ぼくが代わりに野球するから』
 俺はうずくまる姉を抱きしめて泣いた。俺より背の高かった姉を精一杯包み込もうとした。
『ぼくがサクヤになるから』
 長い間そうして同じ言葉を繰り返していた。
 泣かないで。おねがい、泣かないで。ぼくがサクヤになるから。サクヤから取っちゃったものムダにしないから。
 ぼくがサクヤになって、サクヤの代わりに野球、するから。

 俺は野球を始めた。
 朔夜は喜んではくれなかった。コータがわたしから野球をとった、と言ってひどく暴れた。
 無理もない。親父は俺が野球に興味を向け始めた途端、俺の方に関心を移した。あれだけ可愛がっていた朔夜を持て余し、放り出した。
 朔夜に憎まれるのはつらくなかった。然るべき罰だと思っていた。それより、朔夜がそうやって苦しんでいることの方がずっと悲しかった。
 俺は野球を続けた。
 朔夜は少しずつ落ち着いてきた。学校にも行き始めた。友達とも遊び始めた。俺にひどいことも言わなくなった。むしろ前より優しくなった。
 約一年もの時間がかかったけれど、野球のボールにも触れるようになった。
『コータ。キャッチボールしよう』
 初めて朔夜からそう言ってくれたときの気持ちは、きっと一生忘れない。
 バッティングを教えてくれたこともある(ただし左打ちで極端なプルヒッター、しかも感性でバットを振る朔夜のアドバイスは、頭でっかちな右打ちの俺を混乱させることの方が多かったけれど)。チームに戻ってきてはくれなかったが、大した問題ではなかった。
 俺と朔夜を隔てていた野球が、俺たちを繋ぎ始めた。

 さらに翌春、朔夜は再びプレーヤーに戻った。
 野球ではなくソフトボール。同じ競技でなかったことが寂しくなかったと言えば嘘になる。けれど反発心はなかった。一年間朔夜とゆったり野球できただけで俺は満足だった。女子がやるならソフトの方がまだ道が拓けているし、俺は野球を、朔夜はソフトを、それぞれ頑張っていけばいい。
 ところが朔夜とソフトボールとは、どうやら縁がなかったらしい。
 最初につまずいたのはピッチングだ。元々投手をやっていた朔夜は、ソフト部でも投手を志望したのだが、ソフトボールは下手投げ。ずっと上手投げだった朔夜は、三つの投法を試してどれもうまく行かなかった。残ったのは半端に崩れたフォームだけ。
 この時期、朔夜は球も精神もちょっと荒れた。投球練習に付き合わされた俺の全身は、赤と青のまだら模様になった。嵐はすぐに去り、結局朔夜は諦めて内野に転向した。ちなみに、その後で野球用に整え直したのが今のサイドスローのフォームだ。
 次の問題は他の部員との関係だった。
 正直言って、俺たちの母校には自慢できる運動部など一つもない。ソフト部も例外ではなく、きゃあきゃあボールを追いかけて遊んでいるだけだと朔夜は常々こぼしていた。
 朔夜は高い技術を持っているし、勝利に対する意識も強い。そんな朔夜を好ましく思う部員もいれば、煙たがる怠け者もいて、妬みも混じって部内はどろどろの派閥闘争へ。
 加えて朔夜は二年のときに、野球部と揉め事を起こしてしまった。グラウンドの使用権などをめぐり、元々この二つの部(と、サッカー部)は仲がよろしくなかったのだけれど、目立つ存在の朔夜は殊更に目障りだったのだろう。事態は勝負にまで発展し、朔夜の打球はライトの頭を高々と越した。
 このいざこざが原因で野球部/ソフト部の抗争は激化。引き金となった朔夜の立場は推して知るべし。世話になった先輩たちを最後の試合で送り出すと、その翌日に朔夜はすっぱりと退部してしまった。
 俺はというと、おかげさまで野球部の先輩方から随分な扱いを受けた。特に朔夜にやられた投手には本当に可愛がっていただいた。そうやってあの人が俺だけを執拗にしごいてくれなければ、俺は今よりもっと野球が下手だったはずだ。その点では先輩にも朔夜にも感謝している。

 それから朔夜を進学校の高葉ヶ丘に押し込んで(朔夜の偏差値は五十を切っていた)、翌年俺も合格通知をもらい、俺たちは正式にタカコーの野球部員となった。朔夜が練習に参加できる時間はあまりないのだけれど、それなりに充実しているようだ。俺も今度の先輩方には入学前からよくしてもらっているし、ちょうど空いていたショートに納まることもできた。
 入学式直後、投手と捕手が一人ずつ入った。投手は肩に、捕手は性格にそれぞれ難があるけれど、実力もある。幸先はなかなかいい。
 それから朔夜が、一人の一年生に目をつけた。
 俺と同じクラスの新田侑志。あの長身はとにかく目立つし、体格に劣らない運動能力も目を惹いた。
 それより俺の印象に残っていたのは、彼が右手にしている時計や、黒板に左手で書きつける癖字だった。そして自己紹介のとき、緊張した面持ちでクラスを見回しながら名前と出身校を言った後、唐突に目を伏せて吐き出した言葉。
『部活はやってませんでした』
 嘘だと思った。牽制している。部活の話には触れてくれるなと。それほど頑なな言い方だった。

 朔夜は彼に強い興味を示した。
 やる気のない奴はいらんと言って憚らない朔夜が、野球なんぞやらんと言っている新田を妙に気にする。一度言葉を交わしただけなのに。姉にもついに春が来たかと思わないでもなかったが、どうやら惚れたの意味が違う。朔夜は彼のポテンシャルに目をつけたのだ。華の女子高生が、すっかり父親と同じ目線とは。
 何にせよ大事な姉の希望だ。叶えてやりたいのはやまやまだが、新田のことは俺だって気に入ってしまった。今回ばかりは譲れない。
 それに新田は――少なくともあのときの新田は、野球をやりたがってはいなかった。
 グラウンド脇を通りかかるとき、彼がどんな顔をしていたか朔夜は気付かなかったのだろうか。新田はあの頃の朔夜と同じ目をしていたのに。野球をやめると言って、誰に対しても心を閉ざしていた朔夜と同じ目を。
 彼は何を言ってもグラウンドの土を踏まないだろう。新田はフェンスの向こう側の人間だ。こっちに引き入れてはいけない。
 野球なら俺がやっている。朔夜だって完全に縁が切れたわけではない。朔夜はそれに満足すべきだし、俺は朔夜を満足させるべきだ。そう思った。思おうとした。
 だから朔夜と新田が言い争った後ほっとした。これでケリがついたんだ、これでよかったんだと。
 だが朔夜のやつは本当に諦めが悪いというか執念深いというか、去年の中学野球の記録を探せと言ってきた。俺はどうせ見つかるはずがないと高を括ってパソコンをつけた。そしてすぐ情報社会に対する自分の認識が甘かったことを思い知らされた。適当な条件で検索したら、該当するページが見つかってしまったのだ。
 俺たちはその記事を食い入るように見つめた。
 朔夜があのとき野球をやめた理由を、俺は正確には知らない。けれど朔夜の都合だった。朔夜が自分一人でやめていったのだ。
 新田は朔夜と同じなどではなかった。新田は野球をやめようとしたのではなく、できなくなってしまったのだ。仲間を大切に想うあまり、仲間を泣かせてしまったことを悔やむあまり、あの場所に立つことを自らに禁じた。この日からずっと新田は自分を責め続けているのだろう。希望を奪ったのは自分なのだと、そう思い込んだままで。
 俺は後ろにいる朔夜に顔を見られないように、ディスプレイを睨みつけた。
 違うよ、新田。新田のせいじゃない。このチームがここまで来られたのは、きっと新田がいたからだよ。新田に野球やめてほしいなんて誰一人思ってないよ。
 ごめんね。やっぱり俺、新田と野球したいよ。
 今度こそ勝とうよ。今度は、俺たちと一緒に。
 俺はずっと口唇を噛んでいた。朔夜は何も言わずに立ち去ったけれど、多分俺が泣いているのには気付いていた。
 新田もきっと気付いてくれたのだ。だから、黄緑の硬球を白い軟球に持ち替えた。もう、投げないとは言わなかった。
 彼は投手だった。
 枠から外れても、逆球でも、そこを動かなかった。
 タイミングをずらされた朔夜はそれでも強引に振り切って、新田は任せてくれればショートライナーだった当たりを自分でさばいた。朔夜がそれにキレてまた口論が始まったけれど、ひと勝負終えた後の二人はすっきりした顔をしていた。
 殴り合って相手を認める不良みたいで、朔夜の春はやっぱり遠いみたいだなぁとお節介なことを考えた。
 そんな風に想いをめぐらせていたら、隙ありと言わんばかりに親父……もとい監督が打球を向けてきた。イレギュラーバウンドしてみぞおちを直撃。咳き込みながら、もう一本お願いしますと叫んだ。
 この日我が高葉ヶ丘高校軟式野球部は、夏に背番号10を背負うことになる十一番目の選手・新田侑志を迎え入れた。マネージャーである姉・桜原朔夜を一人加えて、これでチームの総勢は十二人となった。
 俺と朔夜が望んだ春のかたちだった。