1話 No.[10+1] - 2/5

野球なんかやめちまえ

 授業が始まるまで、桜原と二人どうでもいい話をした。
 侑志がこの辺に住み始めて日の浅いこと、桜原家は昔からこの町に住んでいて、両親は共に高葉ヶ丘高校の出身であること。受験のときのこと、入学式のこと、来月の体育祭のこと。
 体育の授業の前も、桜原と並んで着替えた。
 出席番号が近いだけでつるんでいた顔ぶれもいたけれど、今日は自然と離れていた。桜原の周りに誰もいないということが、侑志はなんとなく気に食わなかったのだ。
 靴を履き替えて外に出たら、侑志たちは向かいの建物の外階段をのぼる。高葉ヶ丘高校には土のグラウンドがない。体育棟の屋上、人工芝のフィールドが運動場。野球部が外部で練習しているのも場所が理由だろう。
 隅に転がっていた蛍光イエローのボールを、桜原が右手で拾い上げる。
「テニスボールって、なんかふかふかしてて面白いよね」
「そうか? ボールが面白いかなんて考えたことねーけど」
 桜原の声は落ち着いていて聞きやすい。早くもクラスの中心となっている連中も悪いやつらではないが、ハイテンポな応酬についていくのは息が切れる。
「投げても違うもんかな」
 桜原は左足を前に出し両手を上に振りかぶった。ワインドアップだ。外周に張り巡らせてある防球ネットに向かってテニスボールを投げつける。かなりあさってな箇所に飛んだ。
「投げづらいな」
 首を傾げる桜原。侑志は桜原の顔を覗き込み、慎重に言葉を選ぶ。
「え、お前は、野球部、じゃ」
「野球部だよ。小四からやってる」
 桜原はあっけらかんと返した。侑志は口許を覆って俯く。
 その割に下手とかいうレベルではないし、からかうのすら憚られる。
「あ、右足が前か。朔夜と逆になるんだっけ」
 軸足を直したやり方でも大差はなかった。桜原皓汰に投手の才能がないことが残酷なほど明確になっただけだ。本人も自覚はあるようで、参ったと呟いて黄色いボールをもてあそんでいる。
「これじゃまた朔夜にどやされる」
「桜原って、もしかしてそれでピッチャーなの? 大分やばくねぇ?」
 思わず本音が出てしまった。強い弱い以前に、この投球では試合が成立しないだろう。
「大分やばいよ」
 桜原はボールを投げ上げる。落ちてきたものをキャッチする分には危うさもない。
「うち投手足りないから、お前やれって言われたけどさ」
「マジで?」
「さすがに冗談だろうね。御覧のとおりだもん」
 軽い調子でトスされたテニスボール。つい捕ってしまった。ナイキャ、と桜原が笑う。
「三年生が一人早期引退したりとか、エースの親が転勤とか。いろいろあってね。まぁ全部身内の問題」
「他、もう誰もいねェの?」
 投手、と侑志は小さく尋ねた。聞こえなければそれでいいというつもりで。桜原はくっくっと肩を震わせている。
「すごいよ? まず、二言目には『マウンド降りたい』っていう二年でしょ。こないだ入った一年は医者から球数制限受けてる。まともに一試合投げられる人間はゼロって言っていい」
「笑いごとじゃねェだろ!」
 突然の大声に桜原が動きを止める。侑志は右手のテニスボールを握りしめる。
 何だ、今の。俺が怒鳴ったのか?
 何で。関係ねェじゃん。
 渇いた喉に無理やり唾を流し込んだ。
 ――だって、そんな大変なのに、桜原がにやにやしてっから。
「新田は優しいんだね」
 桜原はやはり笑っていた。口調は穏やかなのに、目は見下すように冷えている。
「だから朔夜につけ込まれるんだよ。気をつけな」
 手の中から黄色いボールをかすめ取られた。桜原はまた無様なフォームでネットを揺らす。
 なんだか無性に腹が立った。
 侑志は舌打ちしてボールを左手で拾う。よそよそしい手触りだ。
「桜原はサイドスロー向いてないよ。すげぇ投げづらそう」
「そう? 朔夜がこうやって投げるからさ」
 こうかな、と桜原はぎこちなく左右を反転させる。侑志は手のひらでボールを転がし、桜原の隣に戻る。
「投げやすい高さって個人差あんだよ。無理な投げ方すっと身体に負担かかんぞ」
「えっと、じゃあこう?」
 桜原はボールなしで投げる真似をした。まだ不自然だ。
「だから、さぁ!」
 侑志はテニスボールを持ったまま、右脚を上体に引きつけた。静止。
「こうやっ……」
 左手を後ろに引く。右足で踏み出す。左脚が半円を描くように回る。て、と最後の一文字の代わりに鋭く息を吐き左腕を振り下ろす。人工芝を踏みつける。
 ネットの揺れる勢いは桜原のときと比べものにならない。が、それだけだ。侑志は顔を覆って座り込んだ。
 やっば。どこ投げてんだよ。えらそうに講釈垂れてこのザマかよ。つーか肩って半年投げないとこんな回んなくなんの? やばいな。
「新田」
 名を呼ばれ、侑志は視線を上げた。桜原は太陽の側に立ち、黄色いボールを差し出している。
「新田。もっかい投げて」
 興味というより差し迫った声だった。逆光の表情は暗く翳っている。侑志は桜原の手を押しのけて腰を上げる。
「無理。ちょっと調子乗っただけだから」
「お願い。もう一回だけ。投げる真似だけでいいから」
「嫌だ」
 強い口調で二度断ると、そう、と桜原は手を引っ込めた。静かすぎて怒っているのかどうかすら分からない。
 たまらず侑志は、大声を上げ始めた体育委員を指差す。
「ほら、集合。早く行こうぜ」
 返事を待たずに歩き出した。桜原は小走りでついてくる。
「ごめん、興奮しちゃって。さっきの話も気にしなくていいから」
 桜原は淡々とした横顔で告げると、足を速めて侑志を追い抜いた。侑志は下を向いて口唇を噛む。
 投げるんじゃなかった。やる気もないくせに妙な期待だけさせて、謝らせた。
 どうしてあんなことしたんだろう。
 昼休みになってからも、桜原は野球に関する話をしなかった。桜原は何も訊かない。侑志の傷に触れようとしない。きっと解っているのだろう。訊いたところで侑志は何の答えも持っていないと。

 放課後、帰るのに桜原を誘おうか迷っているうち、彼は姿を消していた。
 桜原だけではない。クラスメイトの多くはこれから始まる何か――恐らくは部活――で忙しそうだ。誰も自分に頓着しない教室を出て、侑志はまた公園に向かう。
 広場からは甲高いはしゃぎ声が聞こえるだけで、例の音はしなかった。活動日ではないらしい。
 それならそれで、桜原はどうして黙って帰ってしまったのか。いや、まず侑志に何か断る義理もない。この春に持たされたばかりの携帯電話にも、桜原皓汰の名前は登録されていないのだから。
 前方のベンチにセーラー服の女子が座って、並木の緑を見上げていた。長い黒髪を二つに分けて耳の下で結ってある。古風というか、子供っぽい髪型だ。友達か彼氏でも待っているのかなと、侑志は目を伏せ彼女の前を通り過ぎようとする。
「よぉ。待ちくたびれたよ」
 女生徒が突然声を上げた。侑志はびくりと彼女に視線を向ける。
 いたずらが成功した笑み方。切れ長の瞳。
 間違いない、昨日の打者だ。本当に女だったのか。
「弟と遊んでるの、上から見てた。投手やってたんだろう?」
「いいえ」
 桜原朔夜は弟と違ってストレートに踏み込んできた。ずけずけしたもの言いに、侑志の返事も素っ気なくなる。
「すみません。今日宿題多いんで。失礼します」
「まぁ待て少年。少しお姉さんと話をしようじゃないか」
 学ランの裾を思いきりつかまれた。腕でないのは彼女なりの配慮なのだろうか? 力が強すぎて首が締まる。
「飴ちゃんやるからさ。あ、からいの平気か? ハッカなんだけど」
「いりません」
 今どき小学生でもそんな手に引っかからない。侑志は振り払おうとしたが、大真面目な朔夜の視線に戸惑った。強引に歩くこともできるけれど、上級生を引きずるのもどうかという気がする。
 表情だけで抗議をしたら、朔夜は合点がいったように顔を輝かせた。
「そっかそっか、チョコの方がいっか。待ってな。確かポケットに入ってる」
「いらねっつってんでしょ……」
 完全に意思の疎通ができていない。侑志は聞こえよがしに嘆息した。
「何度言われても野球部には入りません。俺、野球できないんで」
「なんで」
「なんでもなにもそのままの意味ですけど。未経験なんです。今朝のアレも、見様見真似でやってみただけで――」
「嘘だな」
 朔夜は侑志の言い訳を途中で断ち切った。
 飴の小袋を投げ上げ、空中でぱしんと取る。ボールが落ちてくるのを待っていた弟より、せっかちなタイミングで。
「少なくとも、君は投球の仕方を誰かに教わったはずだ。ヘタクソだけどな。真似じゃあない」
 朔夜はつまらなそうに言い放つ。侑志は鞄の紐をきつく握った。
 ヘタクソと呼ばれるのは諦めがつく。それより、あんな投げ方で投手と見破られたことがつらかった。下手と言いながら勧誘してくる彼女が理解できなかった。
「『できない』ってのは、『やらない』より根が深そうだな。野球に恨みでもあるのか?」
 朔夜は飴を自分のポケットに突っ込み、左腕を抱くように腕組みした。
 侑志の喉から乾いた笑いが漏れる。
「あったら、どうだって言うんです」
「聞きたいね。理由ぐらいは」
 朔夜はその割に侑志の顔を見もしない。淡々とした口振りで首をかいた。
 侑志はやはり笑ってしまう。
 なんなんだこれは。こんな路上で俺は何をさせられてるんだ。くだらない劇に巻き込まれて、立ち位置をずっと間違えているみたいだ。
 侑志は左手で、半端に伸びた自分の髪をかき回す。
「そんなに聞きたきゃ、言いますよ。別に大したことじゃない」
 野球好きの父の影響で、侑志は幼い頃から野球に親しんでいた。地域のクラブでは唯一の左利きであったこと、父が捕ってくれるのが嬉しかったこともあり、自然と投手というポジションに就くようになった。コントロールはあまりよくなかったけれど、他人より早く成長する身体のおかげで高低差も球威もあった。中学では背番号1とは言わないまでも、抑え投手としてそれなりに活躍した。
 そして中学最後の試合、五回でスコアは〇対一。侑志はマウンドに登った。その回と次の回に一点ずつ取られ、二対三で敗けた。二十三年ぶりの東京ベスト八がかかった試合だった。
「俺が〇点で抑えてれば勝ってた。せめて一点なら延長に望みもかけられた。あのとき、俺が投げなければ」
 俺が主将だったのに。
 俺がみんなの期待を全部、潰したんだ。
 朔夜はゆっくりと腰を上げ、語り終えた侑志の正面に立った。
「黙って聞いてりゃ、つまんねェことをグチグチグチグチと」
「は?」
 言わせたのはそちらのくせに。声を失う侑志に、朔夜はさらに畳みかけた。スニーカーのかかとで、石畳の隙間から生えた雑草を執拗に踏みにじりながら。
「どこにだってある話で悲愴ぶるなよ。二番手のお前にできなかったのに、他の控えに抑えられるはずないだろ。どっちみち敗けてたよ。そんな脆い主将の率いてるチームならな」
「だから大したことじゃないって言ったろ! あんたにそんなこと言われる筋合いねェよ!」
 抑えていたものが爆発する。朔夜は怯えるどころか侑志の襟をつかみ、無理やり顔を近づけさせる。
「私だってお前を慰めてやる筋合いなんかないね。そんならとっとと野球なんかやめちまえよ、この根性なし!」
「最初っからやんねーっつってんだろ!?」
 侑志は怒鳴り返して彼女の右手を振り払った。
 どれくらい睨み合っていたのだろう。数十秒のようにも思うし、本当は数秒だったのかもしれない。どちらからともなく目を逸らして、どちらからともなく逆方向に歩き出した。
 侑志は指の背で鼻の下を押さえ、小さく洟をすする。
 こんなダセー話して、そのうえキレられてさ。
 泣きたいのは俺の方だっつの。何でだよ。
 間近で見た、朔夜の震える睫毛が目の前をちらつく。強く握りしめた拳の奥で手のひらが痛んだ。
 ――なんであの人が泣きそうな顔、してんだよ。