1話 No.[10+1] - 4/5

直球勝負!

 鉄製の扉が軋んだ音を立てる。侑志は身体を強張らせ、公園のグラウンドに足を踏み入れる。
 高葉ヶ丘高校野球部の面々は、月曜の朝から揃っているようだ。
「どうした?」
 入り口傍に立っていた、野球帽の男性が話しかけてくる。桜原皓汰に不精ひげと年齢を加えた風貌。姉弟の父、桜原監督だとすぐに分かった。
 侑志は一つ唾を飲み込んでから口を開く。
「あの。見学させてもらいたいんですけど、いいですか」
 時季外れの申し出に、監督は不思議そうな顔で侑志を眺めた。
 侑志は学校指定のジャージに野球のアンダーシャツを着ている。中学のときのものは小さくて入らなかったので、父からの借り物だ。スパイクは新しく買った。エナメルのスポーツバッグにはファーストミットを入れてきた――一応、グラブも。
「野球の経験は?」
 監督は小麦色のたくましい腕を組んだ。侑志は少しためらってから頷く。
「小学校に入ったときから、中三の夏まで。内野と……投手、やってました」
 ああ、言ってしまった。
 侑志は目を逸らして鞄の紐を握った。
 監督は黙って考え込んでいる。やがて顔を上げ、選手の方に声をかけた。
「モリサダ!」
 はい、と答えて走ってきたのは、朔夜と初めて会った日に受けていた捕手だった。百九〇近くありそうだ。大柄な身体にあどけない顔が載っているのだが、アンバランスな感じはしない。屈託なく笑いかけてきた彼に、侑志は軽く礼を返した。
 監督は親指で侑志を示す。
「受けてやれ」
「投手すか!」
 彼はぱっと顔を輝かせて侑志の両手を取った。そのまま手のひらや指先を軽く押してくる。初対面なのに。侑志は固まってされるがままになっている。
「左! 変化球は? マックス何キロ? 身長いくつ? 細いなーメシ食ってる? 体重は?」
「あんまり投手を触るな」
「あ、そうですね。すみません」
 監督が遮ってくれたおかげでやっと解放された。手に変な汗をかいてしまった。
 彼は右の親指で自分の厚い胸板を叩き、高らかに名乗りを上げる。
「申し遅れた。俺は森貞(もりさだ)竜光(りゅうこう)! 三年で捕手で一応主将(キャプテン)。君は?」
「あ、俺は――」
「一年B組、新田侑志。城羽北中学校で内野手と投手を経験。三年では主将と四番を務め、十四年ぶりの初戦突破、二十年ぶりの東京ベスト十六入りを果たす」
 答えたのは侑志ではない。バットを肩で弾ませながら歩み寄ってきた、桜原朔夜だ。朔夜は監督の近くで足を止めると、侑志をじろりと睨み上げてきた。
「何か訂正事項はあるか?」
「……ないです」
 侑志は休めの姿勢をして視線を宙に向ける。朔夜は鼻を鳴らしてから、ぱっと監督を向いた。
「打者なしで投手の力は測れないでしょう。私が打席に立ちます」
「好きにしろ」
 監督は無愛想に即答した。性格なのか、朔夜の無茶に慣れているのか、単に娘に甘いだけなのか侑志に判断はつかない。
 朔夜はバットを振り上げて、侑志の鼻先で静止させた。
「有利だと思うなよ。私は左、慣れてるからな」
 殺意とまではいかないが、敵意は確かに感じる眼光だった。侑志は思わず後ずさる。会ったらすぐに謝ろうと思っていたのに、これでは下手に口も利けない。
 森貞が侑志の右肩に手を置き顔を近づけてきた。
「大丈夫大丈夫、俺も朔夜には慣れてるからな! はいじゃあサインの確認しようか?」
 縦も横も声もいちいち大きい。痛む耳に耐え侑志は森貞を押し返す。
「俺、ストレートしか投げないんで」
「おおおお、直球勝負! オトコマエ!」
「いや、そうじゃなくて」
 変化球はコントロールが不安なだけだ。彼女相手にいきなり死球など食らわせようものなら、乱闘になりかねない。
「それなら内外だけ提案するから。気に入ったらそう投げてくれ」
 森貞はにっこり笑ってから、さーアップするぞーと大声を張り上げた。
 提案、という言い方をする捕手は初めて見た。大体はリードだとか指示だとか言われるわけで、何だか新鮮な感じがする。
 どうもこの野球部には変わった人たちが揃っているらしい。
 森貞に背中を押され侑志は荷物を置いた。

 で、どうしてこんな本格的なことになっているのか。
 捕手の森貞、主審に桜原監督。そこまでは分かる。だが何故、野手七人に審判が一・三塁までしっかりついているのか。
 奥を見る。外野が狭い印象を受けるが、防球ネットもあることだし、ライナー性の当たりなら場外ということはなさそうだ。打たれることを前提に考えてしまうのが情けない。
 侑志は大きく息をつき、気を取り直してマウンドの感触を確かめる。といっても平たい地面にただ投手板が埋まっているだけなのだけれど。
 グラブの中でボールを回す。またこの球を握ることになるとは思わなかった。あの夏までは、高校生になったら硬式野球部で甲子園を目指そうと思っていたのに。一週間前までは、もう野球なんてしないと言い張っていたのに。
 森貞との間で何球かやり取りする。金土日、急ではあったが、父に調整を手伝ってもらったおかげで意外と悪くはない。身体自体は動かしていたので、肩をつくるだけで済んだ。もちろん充分とは言いがたいけれど――大丈夫。投げられる。侑志は誰にも気付かれないよう頷いた。
 朔夜がバッターボックスに入り、左脚で地面をならす。ジャージの下にスパイク。いつでも練習に参加できるようにしているのか。
 森貞がサインを送ってくる。侑志は首を縦に振る。そしてド真ん中ストライク。生憎サインは外のボールだった。
 朔夜は全く動かない。
「ナイスピッチ!」
 森貞が明るい声で投げ返してきた。ナイスって言われても、と侑志は胸中でぼやき右手で捕る。どう見ても敢えて見送られたのに。
 同じサインで今度はしっかり外す。
 さらに外、今度はストライクゾーンのサイン。侑志は頷いて右脚を持ち上げる。その瞬間、ヤバい、と思った。案の定踏み込んだ足に上体がついてこない。指先からボールが抜けた。
 暴投も暴投、大暴投だ。朔夜は身体を捻って顔近くに来た球を避けた。そのままバットを手に、鬼の形相でマウンドに向かってくる。
「てめぇ、ケンカ売ってんのか!」
「売ってません! 売ってないですすみません!」
 侑志は激しくかぶりを振った。まーまーまー、と森貞が飛び出してきて朔夜を止める。朔夜は舌打ちして打席に戻る。気にすんな、と森貞は口唇だけで言ってミットを軽く振った。侑志は小さく頭を下げた。
 朔夜は派手にバットを振って構え直す。
「早く投げろよ。次で終わらせてやる」
「朔夜はせっかちだなぁ。キャプテンはもうちょっと侑志の球が見たいぞぉ」
 森貞がサインを出す。内、ストライク。侑志は蒼褪めて首を横に振った。次に危ないボールが行くようなことがあれば、確実に殴り倒される。
 森貞は同じ指の動きを繰り返して叫んだ。
「思いっきり来い!」
 侑志は逡巡する。少しもサイン通りに投げられていない侑志に、森貞は迷いのない視線をくれる。
 ぐっと腹に力を入れた。
 ――あの人は俺を信じてくれてるんだ。俺もあの人を信じよう。
 今度は言われたところに球を放れた。朔夜は思いきり振り抜く。打球が空気を切り裂いて飛んでいく。やられたと思ったが、一塁線の外に落ちたらしい。右翼方向に立っていた部員が、ファールと声を上げた。侑志は息を呑んで斜め後ろを見る。
 そうだ、初めて会ったときもライト方向だった。彼女は極端なプルヒッター。外を意識させてからだったので振り遅れたのだろうが、今度内に甘い球など入れようものなら持っていかれる。
 カウントは二・二。
「タイムお願いします!」
 桜原弟が声を上げた。
 求めに応じ、監督がタイムを宣告する。桜原はマウンドに駆け寄ってきて、グラブで口許を隠した。
「落ち着いて。朔夜は遠い球が苦手なんだ。カウント整ってるし、外に投げて振らせよう。仮に当てても内野は俺たちが抜かせない。リューさんも多分そのつもりでサイン出してくる」
「でもあの人だって、自分の弱点ぐらい分かってるだろ。外にタイミング合わせてくるんじゃ」
 侑志も口の動きを見せないように答えた。桜原はふっと笑って朔夜を見やった。
「分かってても打てなきゃ意味ない」
「は?」
「朔夜の口癖。外だって分かってても朔夜は多分打てないよ。内でも思いっきり投げれば振り遅れる。新田の球なら、朔夜は外狙いから内には合わせられない。左だし速度あるからね。新田がその気なら、どこに投げても打ち取れる」
 桜原は指先を何度か曲げて侑志を屈ませると、囁く音量で力強く告げた。
 だいじょうぶ、できるよ新田なら。
「皓汰! 余計なこと言うな」
 朔夜に怒鳴られ、桜原は肩をすくめて侑志から離れた。グラブを振ってショートのポジションに戻る。
「あと一球!」
 監督からプレーのコール。
 侑志は深く息を吸って、吐いた。
 生温かい汗が肌を伝う。季節外れの蝉の声を、耳の奥に聞いた気がした。
 あの日の俺が、一番投げたかったボールを投げよう。
 今度こそ後悔しないように。
 今度こそ、野球が好きだと胸を張って言えるように。
 侑志は森貞のサインにはっきり頷き振りかぶる。球は言われたよりも内気味。朔夜のスイング。打音。センターに抜けるかという速い打球に、侑志は自ら右手を伸ばした。
 衝撃のあまり捕り落す。痛みを感じる前に左手で拾い一塁に送球。朔夜の足は速かったが、ファーストが手足をいっぱいに伸ばしてアウトを取ってくれた。
 安堵と同時に身体が痛みを訴える。侑志はグラブ越しに右手を押さえて座り込んだ。
 朔夜が一塁からこちらに走ってくる。
「バカか! 今のはバックに任せる球だろうが。投球動作終わりきる前に手ェ出しやがって!」
 心配してくれている顔ではない。今までで一番激しい態度だった。侑志はまた反射で返してしまう。
「手ェ出ちゃったんだからしょーがないじゃないスか!」
 恐いと感じる前に、彼女がどうして怒っているのかを考える前に、侑志は立ち上がって怒鳴り返した。
「守れるときは自分で守りたいんです。負けたくなかったんです、勝ちたかったんです俺は!」
「本当にバカだなお前は!」
 朔夜はまた侑志の胸倉をつかんだ。持ち上がるわけもないし、不意打ちでなければ引き寄せることすらもできないのに、朔夜は右手にどんどん力を込めていく。
「投手ってのは打者一人打ち取って終わりじゃないんだ。マウンドにいる間中、部員である間中まともに投げなきゃいけないんだよ。アウト一個がなんだって? そんなの危険冒してまで取るべきものかよ。走者いくら出したってホーム踏ませなきゃいいんだ!」
「朔夜、そこまでだー。相手は入部もしてない一年だぞ」
 森貞が苦い顔で朔夜を侑志から引き離す。朔夜は森貞を振り払おうともがきながら、なおも侑志に叫び続けた。
「投手は無事に投げて初めて投手なんだよ! そのために野手がいてくれるんだ。自分(てめェ)のためにしか動けないなら投手を名乗るな。仲間のこと信じられないような奴が、デカい面してその場所に立つな!」
 侑志は勢いを削がれて立ち尽くした。朔夜の剣幕に圧されたのではない。ようやく気付いてしまったから。左手で口許を隠し、口唇を噛み締めた。
 桜原、違うよ。この人は最初から、自分のために怒鳴ったりなんかしてなかった。野球と真摯に向き合ってただけだ。仲間たちのために怒ってただけだ。考えなしの俺を叱ってくれてただけなんだ。
 だってこの人は、この人が。
 この人が、この高校で初めて俺のことを『投手』だって言ってくれたんだから。
「言い過ぎだよ。朔夜」
 言い尽くして肩で息をする朔夜を、弟が低い声で非難した。桜原は侑志とも朔夜とも目を合わせず、斜め前の地面を睨みつけている。
「朔夜が新田をこの場所に登らせたんじゃないか。あんなに嫌がってたのに、新田は戻ってきたんだよ。しかも本気で投げた。ちゃんと自分で守った。負けたくないって、勝ちたいって――新田に言わせたのは、朔夜なんだよ?」
「皓汰、おまえ」
 朔夜は何か言いかけて、途中で口を閉ざした。弟とは逆の地面を、マウンドを見つめて黙り込む。
 桜原は顔を上げて姉の顔を見た。強い眼差しとそよ風に揺れる髪がアンバランスで、侑志は何だかおかしくなってきた。
「いいよ。桜原」
 侑志は笑いをこらえて桜原の肩を叩き、朔夜に向けて直角に身体を折った。
「すみませんでした。次から気をつけます」
 朔夜は何も答えない。
 静観していた森貞が小さく笑い、侑志の背を押す。
「右手、朔夜に診てもらえ」
 ちゃんと投手になりたいだろ? と森貞はウインクしてみせる。海外ドラマの俳優のような仕種。それが妙に似合わしいものだからついに笑ってしまいながら、侑志は頷いた。
「行くぞ」
 朔夜は短く言うと、侑志の右腕をつかんで歩き出した。桜原弟はまだ黙っている。朔夜に引きずられつつ、侑志は桜原を振り返る。
「ありがとな」
 桜原は目をしばたかせた。そして右手で帽子を引き下げて目許を隠すと、左手のグラブをマペットのようにぱくぱく動かした。侑志は苦笑して前に向き直る。朔夜が早足で歩くせいで、気を抜くと転びそうだ。
 朔夜は顎をしゃくり侑志をベンチに座らせた。柱の上にトタンが頼りなく載っていて、その陰に長椅子が無造作に置いてあるだけの簡素な場所だ。
「痛いか」
「いえ」
「痺れは?」
「もうないです。手首も動くし」
 侑志はグラブを外した右手を回した。
 ふぅん、と興味がなさそうに呟いて、朔夜はコールドスプレーを手にした。一応冷やすぞ、と侑志の返事を待たず腕を取る。白い霧が火照りを奪って、春の空にわらわらと消えていく。
「あの。こないだはすみませんでした」
 侑志は視線を泳がせた。朔夜は気のない様子で侑志の手を放す。
「別に。私もいろいろ言ったし。おあいこだろ」
 目を合わせてくれない。随分嫌われてしまったようだ。拳を握り締めて気合を入れ直すと、侑志は朔夜の顔をまっすぐに見つめた。
「認めてくれますか。俺が野球するの」
「私はマネージャーだから知らない」
 朔夜は早口で答えた。侑志は真面目に続ける。
「この部じゃ強打者(スラッガー)のことマネージャーって呼ぶんですか」
 朔夜がふいと顔を背けて、推測が確信に変わる。
 この人、怒ってるんじゃなくて拗ねてるんだ。
 朔夜は大袈裟なため息をつき、バットを握る仕種をした。
「変な色気出さずに初球打っとくんだったなぁ。あれはいったねー、右中間!」
 軽いスイング。侑志は動きにつられてグラウンドを見る。守備体形をとったついでにランダムノックをしているようだった。三遊間に打球が飛ぶ。抜けたコースだと思ったが、桜原が飛び込んでしっかり捕球した。
「こんなこと言うのなんだけどさ。皓汰って友達いないんだよね」
 朔夜は弟の姿を見ながら呟いた。
 桜原姉弟は、父が監督に就任してからというもの、中学校の自分のチームよりこちらに顔を出すことの方が多かったそうだ。それでも朔夜には学校の友達がいたが、弟はここで年上に可愛がられるばかりで、同年代の子供たちと馴染めなかったらしい。
「あいつが他人のためにムキになることなんか、ほとんどないからさ。正直びっくりした」
 眩しそうにグラウンドを見つめる横顔。
 桜原は、難しい打球を捕ったセンターに賞賛の笑顔を送っている。
「あいつが俺に、『友達になりたい』って言ってくれたんすよ」
「皓汰が?」
「そうですよ。そんで今度は俺が、『チームメイトになりたい』って言う番なんすよ」
「新田が」
 朔夜は小さく噴き出した。侑志は右手で耳をかき、左手でベンチの表面を撫でる。
「初めてですね。俺のこと名前で呼んでくれたの」
「そうか?」
 朔夜は首を傾げて侑志を向く。長い黒髪が揺れた。
 そっスよ、と侑志は口を尖らせる。
「だって桜原先輩、ずーっと俺のこと『君』とか『お前』とか呼んでたじゃないですか」
「そっか」
 朔夜は短く言って前を見据えた。
「朔夜でいいよ」
「え?」
「だから。おーはら先輩じゃなくて、朔夜でいいよ」
 この部じゃ強打者のことそう呼ぶんだ、と朔夜は笑った。さくやさん、と侑志は口の中で呟く。何だか気恥ずかしくて、甘酸っぱいような響きだった。
「おら、いつまでもサボってんなよ。しごかれてこい新入部員!」
 朔夜は思いきり侑志の背中を叩いた。見た目より力はあるようで結構痛い。
 侑志は大きな声で返事をして、いとおしい打音のする方へ走り出した。
 花は散り、出会いの季節が終わる。
 新緑に風薫る五月はもうすぐだ。