空論を廻す

 新しい桜原(おうはら)家の階段は、以前のものより広くて緩やかだ。通い慣れたはずの和風建築が現代風の様式に変わったことに、侑志(ゆうし)は未だ違和感を覚える。
 二階に上がると右手に襖が見える。櫻井(さくらい)(あきら)の仕事部屋は、桜原家に残された唯一の和室だ。
皓汰(こうた)。入るぞ」
 引き戸に手をかける。襖が滑るのと同じ速度でゆっくりと櫻井皓――桜原皓汰が振り返る。陽を忘れた白い肌に、ひそめられた短くて薄い眉。不健康と不機嫌を和服で包んだらこうなる、とう分かりやすい見本だ。今日も祖父の遺した文机に張り付いて、タブレットPCに繋げたキーボードを叩いていたらしい。
「侑志、家の中ではマスク外してくんない? 見てて息苦しい」
「悪いな。一応つけとく」
 侑志は中に入って襖を閉めた。皓汰は裾を払って座椅子から立ち上がり、窓ガラスを手の幅ほど開く。六月の夕べの風は、雨こそなくとも重苦しい湿気を孕んでいる。
 昨年の末頃に中国で流行り出した疫病は、瞬く間に世界中へ広まった。ご近所の日本も例外ではない。東京では毎日数十人の新規感染者が出ており、ついには『東京アラート』なるものも発令された。マスクなしで人と話すのは悪という空気が漂っている――特に多数の子供たちと接する教職においては、感染症を持ち込むのはテロに等しい。
「どうせ寧志(ねいし)燈夜(とうや)が俺をベタベタ触ってるんだから、感染してたらもろともだろうに」
 皓汰がレースカーテンを引くと、畳を染める茜の色がぼんやりと和らいだ。不意に胸を衝く強烈な感傷を振り払うために、侑志は努めて父親らしい顔で頭を下げる。
「いつもすまない。一緒にリスクを背負ってもらって」
 義実家(おうはらけ)には、延長保育の都合がつかないときなどたびたび息子たちを預かってもらっている。接触機会は同居家族とそう変わらない。侑志がマスクを外さないのも結局はリスク回避などではなく、小さな不織布一枚で免責されたいという保身なのだ。『息苦しい』と評されるのも無理はない。
「それより、送った原稿読んでくれた?」
 皓汰は窓辺に寄りかかって腕組みをする。袖の広い単衣は近頃の空の色を映したような薄雲鼠だ。本人曰く『文豪気取り』の格好も、十年近く経てばすっかり板についている。
 侑志は部屋の隅から座布団を二枚失敬してきて、部屋の中心に胡坐をかいた。
「また手厳しくやってくれたな。お前、そろそろ俺のことお題botかなんかだと思ってるだろ」
「物書きに燃料持ってくる方が悪いんでしょ。俺に話した時点でプライバシーポリシーに同意したことにしといてよ」
「悪徳アプリみたいなこと言ってんじゃねぇよ」
 侑志は苦笑してサマースーツのジャケットを脱いだ。
 会話の内容を作品のモチーフにされるのは初めてではない。個人が特定できるほど不器用な書き方をしていないことも読む前から解っている。事前に許可を取りに来ない狡さも、『何を使う』ではなく『どう使う』を能書きなしに叩きつけてくる気位の高さも気に入っている。ほんの少し居心地が悪くてからかってしまうだけだ。
「あれ、どれぐらいで世に出るんだ」
「あんまり自分で把握してないけど、年内には雑誌に載るんじゃない? 単行本は出てるとしても早くて来年とかだろうね」
「ぎりぎり間に合うかな。本人に見せるのは」
「『繊細』な思春期にわざわざ汚くて意地の悪い大人を見せつけることないでしょ」
 皓汰がうら寂しく微笑んだとき、仄赤いカーテンがふわりと広がった。
 斜陽、という単語が脳裏をよぎる。
 いつまでも青い感性のまま尖っていると思っていた。三十を過ぎてからの皓汰は時折、舞い散る直前の桜みたいな色になる。

 

 声高に配慮を求めてトラブルになってしまう生徒がいる、と皓汰にこぼしたのは、一月二日の午後だった。元旦に実家に戻って翌日の義実家。今に比べればおおらかに帰省ができた頃だ。挨拶も昼食も済み、妻と息子たちは義両親たちと一緒に一階で過ごしていた。
 侑志と皓汰のいる和室には火鉢。また祖父の形見かと思えば、パートナーが一目惚れして買ってきたものだという。深い瑠璃色の上に雪のような釉薬がかかった、大の男が両手でやっと抱えられるぐらいのずっしりした器だ。
 炭が爆ぜていた。部屋の隅まで届ききらない丸いぬくもりから外れないよう二人で身を丸めていた。
「HSP――『ハイリー・センシティブ・パーソン』、ね」
 皓汰は自分の眼鏡のつるを指先で神経質に叩く。もう十五年ほど外ではコンタクトレンズ、家では裸眼だったはずで、眼鏡姿を見たのは随分久しぶりだ。このときは目の調子があまりよくないと言っていたから機嫌も悪かったのかもしれない。
「そんなものは免罪符が欲しいコミュ障の妄想だ。一種の虚偽性障害だよ。診断項目、まぁ現実に診断が下る類のものじゃないからセルフラベリングの材料と言い換えるけど、俺にはショットガンニングに見える。レイク・ウォビゴン効果を狙ったくすぐったい項目もゴロゴロしてるしね」
「いきなり容赦ないな」
 侑志は嘆息して、まくっていたセーターの袖を戻した。皓汰が頭でっかちな言葉を並べ立てるのは、感情的になりすぎないよう自制している証拠だ。多分本心はもっと口汚い。
 HSPは九十六年にアメリカの心理学者エレイン・N・アーロンが提唱した概念で、ざっくり示せば『音・光などの刺激に弱く感受性が強い』=『繊細』な人を指すらしい。『気質』を表した用語であり、皓汰の言うとおり医者から診断される病気や障害ではない。
 日本では近年急に取り沙汰されるようになった。手形を必要としない気軽さからか、五人に一人というリアリティのある割合のせいか、自称する人間は後を絶たない。侑志が受け持つ生徒の一人もそうだ。
「少し前から、大学生のお姉さんに『診断』されたとかで『自分はHSS型HSPだ』って言い出してさ。それまでは自分が悪いと思えば謝れてたのに、最近じゃ気性のせいにして埒が明かない」
「HSS? ハイスのこと? 高速度鋼(こうそくどこう)?」
「『外向的な繊細さん』だと」
 逆になんだそれ、と思ったが藪蛇なのでツッコまないでおいた。後でスマホで調べよう。
「別の学者が作った用語と組み合わせたやつらしい。全人口の約六パーセントで、HSPの中でもマイノリティだとか」
「はー、どこまでも幼稚な選民思想」
 皓汰は両手を広げて畳に引っくり返った。侑志は自分の左手を見下ろす。左利きは十パーセントかそこらだそうだが、こんなものは学生時代野球をするのにほんのちょっと有利だっただけだ。
「少数派の何が嬉しいんだろうな。俺は単純に不便だよ」
「被害者面して自分は変わらないまま『配慮』って名目で他人に指図できるからでしょ。俺の定義ではそれは『支配』だけど」
 皓汰は天井に右手を伸ばし空気をぐっと握り込んだ。侑志は口をつぐんで、世間では多数派だが家庭内では唯一だった彼の利き手を見つめる。
 初めて『繊細さん』自己診断に目を通したとき、侑志はすぐ皓汰を思い浮かべた。勝手にチェックしていったらほとんどイエスだった。それぐらい神経が鋭敏で社会が苦手で人が嫌いなやつだ。だからなのか『弱く在ろう』とする人間にはとても厳しい。『弱い』人間ではなく、『望んで弱く在ることで自らの歩みを止める』人間。『選んで弱く在ることで他人を意のままにする』人間。
 侑志は教師だ。学級担任としてだけでなく、教科担任としても大勢の生徒を預かる。必ずしも自分と価値観が一致する生徒ばかりではない。むしろ妻子持ちの成人男性と一致する価値観の生徒などいない。自分にはないものの見方を理解しようとする――不可能を承知で限界まで試みる――姿勢を常に持たねばならない。中学生の、幼く尊大でおそろしく傷つきやすい心の前で、限界まで。
「今回みたいに周囲を巻き込むのは考えものだけど、俺はバーナム効果も悪いことばっかりじゃないと思うんだ」
 敢えて皓汰が使いそうな用語を口にした。皓汰が寝転がったまま熱のない視線を向けてくる。お許しと理解して先を続ける。
「中学生って本当に脆いんだよ。授業で当てられて答えられなかったとか、体育着を忘れたとか、そんなことが不登校やそれ以上の行為の引き金になることもめずらしくない。人間関係だってほんの一瞬で激変しちまう。そんなときでも、思い込みのおかげで踏み止まれるならそれはそれで……」
「論点をずらすなよ」
 皓汰は身体を起こして侑志を睨みつけた。二十年来の腐れ縁を切りつける口調は、顔も知らない中学生を揶揄したときとは比較にならないほど鋭利だった。
「いっとき心地よい武装に救われようが、身の内の毒の濃度は薄まりはしない。ましてそのレッテルが、本来向き合うべき病理や障害を覆い隠していたら? 救われる道を怠惰で葬って、正体の見えない生きづらさに少しずつ首を絞められていくことをおまえはまだ『それはそれで』と言えるのか?」
 これが桜原皓汰だ。逃げを許さない潔癖。リアリストで在ろうとするほど形而上を愛してしまう理想主義者。
 新田侑志は親友の目を見つめ返す。短絡的な平穏を願う狡猾は自覚している。現実を諦めているから綺麗事を信じたい惰弱なペシミスト。
「お前は、どうせ切ることに変わりないんだから麻酔も薬も使わずその場で手術しろって言ってるようなもんだよ。ほとんどの人間はそんなに強くできてない。自分のつらさに立ち向かうのは痛くて怖い。ごまかさなきゃ耐えていけないんだ。子供も、大人も」
「なら」
 皓汰は激しく二文字を吐き出した後、ぐっと息を呑んだ。
 吠えかけたのはきっとよくない言葉だ。それが本音だ。だから呑み込んだ。誰も望まない極論を。最後の最後で『それ』をぶつけようとしない甘さを侑志は『優しさ』と呼びたいし、限りなく愛おしいと思う。
「皓汰の言ってることは正しい。身体にしろ心にしろ、不調に対する安易な自己判断は命を脅かす場合もある。先送りにする無責任は重々承知してる。ただ、成長には個人差があるから……現状で患部を取り除く痛みに耐えられないなら、将来のために症状を緩和させてやる大人がいてもいいんじゃないかと、いつも思ってる」
「現場にいる新田先生がそう感じるならそうなんじゃないの。どうせ俺は安全圏から囀ってるだけの引きこもりイキリだからね」
「そう言うなよ。うちの生徒にも櫻井先生の小説に救われたっていう子いるんだぜ」
「多感な時期に変なもん読ませないで。性的嗜好歪むでしょ」
 皓汰は虫でも払うように手を振った。既成概念をブルドーザーで轢き潰す作品ばかり書いているくせに、妙に常識ぶったところがある。いや、常識から離れられないから歪みが目に付いて仕方ないのか。
 小さな足音が争って階段を駆け上ってきて、このときはここで話が終わったのだった。
 全く大人は、互いに息をしているだけで半年なんてあっという間に過ぎる。

 

「繊細さんは元気?」
 皓汰が窓から離れて歩み寄ってくる。侑志は勝手に持ってきた座布団を自分の正面に置く。
「ここのとこ衝突は減ったよ。HSEを名乗り始めてからかな。ハイリー・センシティブ・エクス……なんだっけな」
「ミュンヒハウゼン症候群……」
 うんざりした顔で皓汰は腰を下ろした。多分言葉ほど強い気持ちでは言っていない。侑志は笑ってスーツのジャケットを畳み直す。
「自分が『そう』だって本気で信じてるわけじゃないさ。きっとお姉さんに教わった難しい言葉を説明して回りたいだけだよ」
「お、正月より強気」
「ちょっとずつ進歩してるんだよ。あの子も俺も」
 それより、と本題の紙袋を引き寄せる。引き出物を持って帰ってきたときの頑丈な袋だ。
「結構字数あったから、二段組の上下巻でもすげぇサイズになっちまった」
「うはは。なんだこれ、辞書じゃん」
 皓汰は手を伸ばして人生の一部を受け取ると、滅多に見せないぐらい穏やかに微笑んで頁を繰り始めた。
「あー、口ゲンカのシーンばっか。この頃から侑志とはずっと空理空論をこねくり回してるよね」
「そうかな。俺は実際的な議論も多いと思ってるけど」
 皓汰の手にある分厚い本は、二人の青春時代を虚実混ぜ合わせてかたちにした私小説だ。なにせ膨大でこうしてまとめるまでに十年以上を要した。高一の秋に思いつきで始めたことを、仕事でもないのに必死に誠実に完遂した。せっかくだから、個人製本したものをお世話になった人たちに手渡そう(という口実で久々に集まって騒ぎたい)という会も企画していたのだが、三密回避のお達しで流れてしまった。
「十八年前か。あの頃の親父と同じぐらいになっちまったな」
 らしからぬ、父親に似た口調で皓汰は目を伏せた。
 皓汰も侑志も親が二十一のとき生まれた子供だ。この本にある二〇〇二年、互いの両親は三十六か七だった。侑志たちは今年で三十四。二年も三年も三十を過ぎてからは誤差だ。
 当時の自分に語りかけるように、父親を労うように、皓汰の指は印刷された文字を撫でていく。
「この歳で高校生二人も抱えて無事に育てるとか、俺には絶対無理だよ。まして男手ひとつでさ……突っかかってばっかのクソガキだったな」
「いいんじゃないか。それが『無事に育つ』ってことだよ」
 似たり寄ったりな十五歳の自分を思い出しながら、侑志は頭をかいた。
「親の事情なんか関係ないぐらいガキでいさせてくれたのも、ひとつの愛情だと俺は思うよ。大人になるとガキをやってる暇もなくなるだろ」
「シェルターとしてのガキっぽさね。最終的にそこに戻るか」
 皓汰は話を蒸し返そうとはしなかった。侑志が予想したほど父親には似なかった横顔を、可視化された厚い過去にじっと向けている。
「ねえ侑志。こっからもう二十年後、俺たちどうしてると思う?」
「さぁ。わかんねぇけど」
 五十四歳。自分はそろそろ定年を見据えているだろうか。皓汰はますます仕事盛りだろうけれど……。建て替えて数年ばかりの家を見回す。
 皓汰の祖父が建てた、前の家の記憶がよみがえった。古い畳と焼けた本の匂い。侑志が胡坐をかいて、皓汰は寝っ転がって、黙ったまま相手の呼吸を感じながらひたすら本を読んでいた。気まぐれで呟いた言葉に噛みついて、二人とも当事者ではない議論が宙に咲いて、散るに任せてまた読書に耽って、そのうち皓汰の姉が『暗いから電気点けな』と声をかけにきて……。
 もう存在しない部屋だ。もう戻らない時間だ。だが土地は動くことなく、調度は引き継がれ、時代が移ろっても皓汰と侑志はこの部屋で息をしている。
 侑志は息苦しいマスクを指先で引き上げ少しだけ笑った。
「いつまでも火鉢囲んで、空理空論をこねくり回してたいな。俺は」
「それ二十年後の二十年後もやってそうじゃん」
 皓汰は肩をすくめた。高校の頃と同じ笑い方だった。侑志も笑い返して腰を上げる。
「じゃ、今日は帰るよ。櫻井先生も身体には充分お気をつけて」
「はいはい。新田先生もご自愛くださいね」
 文鳥の描かれた襖を開け、桜原皓汰の親友から父親や教師としての日常に戻っていく。四十年後を守るために、慣れない階段を下りていく。
 二十年のうちに、きっとまた足が覚えていくだろう。