多少なりともましな椅子へ

 財布と携帯電話と煙草にライター。持ち歩くのはこれで充分。
 黒いロングカーデのポケットに愛用のセットを突っ込んで、皓汰(こうた)はひらりと電車に乗った。行先は決めていない――携帯を出して友人に連絡。
『今日飲まない? こないだ言ってた店』
 すぐに『五時半以降なら』と返信が。よし、降りる駅はOK。携帯をポケットに戻す。
 車内は比較的空いていたが、座席は大体埋まっていた。わざわざ詰めてもらって微妙な隙間に身をねじ込むのも好かない。ピアスを着けた男を怖がる人もいるし。
 ドアに寄りかかって、見飽きた景色が加速していくのを眺める。耳に残っていた姉の小言も、心地いい揺れで薄まって少しずつ流れ出ていく。
 説教の発端は、今までならカフェに出勤していたはずの時間に皓汰が寝ていたこと。姉に問い質され『昨日辞めた』と話した。『店長と上手くいかなかった』とだけ。細かく言うと『流れで寝てしまって以降やたら馴れ馴れしい先輩と、嫉妬した店長の間に挟まれて面倒くさくなったから』というのが本当のところなのだが……みなまで言わずとも姉は解っているはずだ。多くのバイトを似た理由で辞めている。
 労働自体は嫌いではない――好きでもないが。シフトを増やした分だけお金がもらえるというのも単純明快で好きだ。
 どうしても合わなかったのはシューショクカツドーというやつ。みんなで清潔な見た目を心がけ同じ服を着ておそろいの時期に似たり寄ったりのことを言って内定が取れたとか取れないとかで一喜一憂して決まったら大学の手柄なので逐一報告しなさいとか……リクルートスーツの学友たちを尻目に気の向くまま授業に出まくっていたら、皓汰は特に何にもならないまま卒業してしまった。
 受け付けないのは採用に至る道だけではない。集団主義、帰属意識、連帯感ロイヤリティエンゲージメント……言い方は何でも構わないが、ただの一度も共感したことがない。
 その点アルバイトはいい。飽きたら外せるし捨てられる、ただのアクセサリーだ。正社員は『人生』という感じがする。長い時間を注ぎ込んだものは、生きる手段というより生きている本体に食い込んできそうでいただけない。両腕が仕事なんぞになってしまったら、もう人間ではなくバケモノだ。今だってまともに人間かどうか自信がないというのに。
 だんだんとスピードが緩やかになって、電車は目当ての駅に停まる。かっちりしたスーツの男性や、ジャージ姿の眠そうな学生、おしゃべりに興じる紫の髪のマダムたちとすれ違いながら、皓汰は軽やかにホームに降りる。
 携帯電話で時刻を確認。約束までまだ三時間以上ある。本屋だの総合雑貨屋だのをぶらついて、疲れたら漫画喫茶にでも……いや、その前に駅直結百貨店の催事スペースを覗いてみるか。面白いことをやっているかもしれない。
 エスカレーターで上昇していく。途中でポスターが目に入る。七階・写真展……やべ、と思ったが駆け下りるわけにもいかない。着いたらすぐに下りのエスカレーターに飛び乗る? それともいっそもっと上まで……。
 迷っていたらよりによって七階で足を止めてしまった。パンツスーツ姿の若い女性が、息を弾ませて近寄ってくる。
柏木(かしわぎ)夢子(ゆめこ)写真展にご来場の方ですか? 入場無料となっておりますので心ゆくまでご覧ください!」
 ――いやぁ、興味ないです全然。上のフロアに用があるだけ。
 そう言えるだけの強メンタルも持たず、皓汰は背を押されるようにパーテーションの迷路に入っていった。
 写真を大きく引き伸ばしたパネルが等間隔に飾ってある。ほとんどは知らないものだ。当たり前か。根暗な作品ばかりなのは相変わらず。
 森林、海辺、都会、夕陽、蒼穹、星空……月並みなモチーフもたくさんあるのに、どれも世界滅亡の一歩手前みたいな空気だ。もしくは、もう滅んだ後。柏木夢子の心の在り様。
 彼女の写真は、世が美しいと讃えるものを、見る者が不快に感じる地平に引きずり下ろす。普遍と思われた概念をいとも容易く否定する。
 啓蒙とも違った。彼女は作品を通じていかなる主張もしない。単に心理的色覚異常なのだ。彼女には『美』という色が見えない。だから彼女の作品は必ずその(・・)色が抜けている。
 皓汰は、最後から三枚目のパネルの前で立ち止まった。
 花弁の千切れたスミレの画。とてもとても分かりやすい、凡俗で、浅薄な哀しみ。
 誰にも聞こえないよう、口の中で舌打ちをする。
 不純物だ。今皓汰の頭をめぐっている記憶も感情も、多分彼女にとっては。
「気になりますか? ただいま柏木は在廊しておりますので、どうぞご遠慮なく……」
 品のよい初老の男性に話しかけられた。大して人の入っていない展示とはいえ、同じところに居続けたら目立つか。
「いえ、どきます。すみません」
 顔を伏せて歩み去ろうとしたら、誰かが来て皓汰の前に立った。つま先の丸いやわらかそうなパンプス。皓汰はゆっくりと顔を上げる。ボブヘアの中年女性が見覚えのある笑みを浮かべている。
「久しぶりね。皓汰」
「久しぶり」
 皓汰はそこまで答えて、先程声をかけてくれた男性をちらりと見た。呑み込めていない顔だ。皓汰は柏木夢子に視線を戻し、他人に聞かせるための台詞を選んだ。
「元気そうだね。お母さん」

 

 両親が正式に離婚して以来、九年ぶりに再会した母と連れ立って、ひとつ上のフロアにあるカフェに移った。同じ名字だったときでさえ食卓を共に囲んだことはないのに変な気持ちだ。
 先に言葉を発したのは皓汰だった。
「あれ、まだ飾ってると思わなかった」
 もっとおどけるつもりだったのに吐き捨てる口調になった。母は動じない。そのくせ意味は通じている。
「評判がいいのよ、あのスミレ。『柏木夢子に残された最後の可能性』とかいって」
 母は涼しい顔でコーヒーカップを傾けた。皓汰は眉をひそめてスティックシュガーを三本取る。
「一時の気の迷いの間違いでしょ」
「それより、随分お砂糖入れるのね」
「甘党なの。ミルクに一度もお砂糖入れてくれたことないお母さんは知らないだろうけど」
 大事な話をしているのに『それより』とはなんだ、しかも内容が砂糖の本数だなんて。皓汰は口を尖らせてコーヒーフレッシュの爪を折った。
 子供の頃、夜眠れずに布団から出ていくとリビングに母がいることがあった。泊まり込みの仕事はザラで、たまに帰る日も家の者が寝静まってから戻るひとだ。今思えば、母に会えるかもと期待していたから皓汰は上手く眠りに就けない日が多かったのかもしれない。
 あの夜、母はテーブル一面に写真を広げ、ナツメ灯のオレンジの光の下に立っていた。
『眠れないの?』
 母は皓汰に気付くと、お決まりの見れば分かる問いを発してホットミルクを作ってくれた。レンジでチンしただけの、ほんのり甘い牛乳。皓汰は椅子に座って両手で飲んだ。
 母はそのまま黙っているのが常だったし、皓汰も母に聞いてほしい話があるわけではなかった。お腹がほかほかになるまで、母のそばで静かにミルクを飲むのが好きだったのだ。
 皓汰、と母が顔を上げて呟いた。名前を呼ばれるのはびっくりするぐらい久しぶりだった。
『好きなのある? なければいいわ』
 投げやりな手つきで示された写真の海。言葉の意味が頭の奥まで届いてから、皓汰は勢いよく立ち上がった。
 おかーさんがジューダイなオシゴトをまかせてくれた! ぼくに!
 皓汰はミルクが冷たくなるまでテーブルの周りを何周もして、底に沈んでいた一輪のスミレを両手でそっとすくい上げた。
『それでいいの?』
 母の問いに頷く。母は右手で写真を受け取り、つまらなそうに自分の額を押さえた。
『どこがいいのかしらね』
 一生懸命選んだのにあの言い様は心外だったし、気まぐれで頼まれた息子だって『あれ』がのちに柏木夢子の代表作の一画を担うなんて知るはずがない。
 ネットであの写真がディスられているのを見るたび申し訳なくなる気持ちだって、絶賛されているのを見て黒歴史ノートを朗読されている気分になるのだって、母は絶対に解ってはくれない。
 皓汰は白茶けた液体をぐっと喉に流し込んだ。母の手がスタンドからスティックシュガーを三本引き抜く。白い粒が黒い湖面へさらさらと落ちていく。
「おじいちゃんも甘いものが好きだったわね。原稿の近くに甘納豆を置いて、一粒ずつ口に入れながら書いてた」
「似てるんじゃない。周りの大人はみんなそう言うよ」
 祖父か。皓汰が産まれる二年前に亡くなったが、家には著書が全て残っている。社会に溶け込むのになんら助けにならない文学論。皓汰が世界で一番愛する本たち。
 母の飾り気のない指先がスプーンを持ち上げる。催眠でもかけるみたいに規則的にコーヒーを混ぜる。
「あなたも同じように生きてみたら。面白がってくれる人を見つけて、自分の血を見せびらかしてお金をいただいてみなさいな。どうせ世間との折り合いのつけ方が分からずにいるんでしょう?」
 祖父がしていたのは、名作と呼ばれる文学の楽しみ方を広く伝える仕事だった。周囲との協調を放棄し血塗れで感性を切り売りしているのはむしろ母だ。皓汰も自分がどちら側の人間なのかそろそろ見当はついている。
 ついているから選びたくないのだ。
「幸せなの? その生き方って」
 悪あがきで尋ねると、母は心底から不思議でたまらないという顔をした。
「幸せな必要がある? 少しでも座り心地がましな椅子を見つけるだけでしょう、仕事って。歩き回るのは疲れるもの」
 皓汰は天井を仰いで細く息を吐く。
 家庭を全力で切り捨てて働き続けたひとにとってさえ『まし』な程度とは。やっぱり仕事なんて夢も希望もないしさっさと煙草でも吸いたい。
「そのピアス、綺麗ね。似合ってはいないけど」
 ソーサーの鳴る音で視線を戻す。口に合わないわ、と母は紙ナプキンでカップの縁を拭い立ち上がった。歩み去る背中。さっきまで伝票があった場所には、『柏木夢子』と印字された紙片があった。我が子に残す初めての痕跡がビジネスツールとはあのひとらしい。
 皓汰はウェイターをつかまえて喫煙席に移らせてもらった。母が『口に合わない』と抜かした甘ったるいコーヒーの前で、父の――父も祖父の真似をして吸い始めたというから、間接的に祖父の――影響でやめられない煙草をくゆらせる。
 母にも父にも訊けたことがない。あのひとは、何故一度も省みなかった子供を二人も産んだのか。何故ついに一度も愛さなかった男と、十七年戸籍上の名字を共にしたのか。
 皓汰には自分の存在する理由が分からない。哲学ではなく歴史としての理由。他者から見ても明らかな事実としての理由。いつかは知るべきだと思っている。知らなければいずれ生きることに行き詰まると気付いている。
 去り際、母が雑に褒めていったピアスを指先でいじる。別れた恋人に贈られた似合わないピアス。
 結局はこういう傷をさらけ出して、世を恨んで、呪いをかたちにすることでしか『ましな椅子』を得られないのだろうか。母と同じように。母の息子だから。
 皓汰はほとんど残っている煙草を灰皿に押し付け、強く目をつぶった。
 友人には悪いが、今日の飲みはキャンセルさせてもらおう。それで――ああ、それで――万年筆は祖父のがまだ使えるはずだし――。
 原稿用紙を、買って帰ろう。
 迷ったまま動き出せない愚かな自分でも、せめて現在地ぐらいは書き記せるかもしれないから。