藍色の雨空を海のようだと
天地が引っくり返って、逆さまの海から水がこぼれている。
それはとても不自然な在り方で美映子はいつも不安になる。
太陽はどこに行ってしまったのだろう。地中深く潜ってしまって、ここまで光が届かないのか。
昇降口の前で取りとめもなく考える。下校ラッシュは過ぎてしまって、もう生徒の姿はない。
待てばマシになるのではとここに立っていたものの、雨足は弱まるどころか強まる一方だ。
これ以上ひどくなる前に、覚悟を決めて帰ってしまった方がいいかもしれない。
美映子が庇を出ようとしたとき、誰かがその腕を引いた。
「
不機嫌そうな顔の桜原太陽が立っていた。
「雨降ってんの見えねぇのかよ。ド近眼」
桜原は苛ついたような声で言ったが、彼はいつもこんな声なので、どれぐらい苛ついているのか果たして本当に苛ついているのかさえ、美映子に判断はつかない。
「傘忘れちゃったのよ。見れば分かるでしょ」
「あーはいそう、ご愁傷サマー」
桜原は気のない口調でそう言って、黒いこうもり傘を開く。
美映子に挨拶もせず、雨の下に出て行く。出鼻をくじかれた美映子は立ち尽くしている。
濡れながら隣を歩くような、嫌味たらしいこともしたくないと思う。
黒い学生服に黒い傘が馴染んで、桜原の姿は一匹の巨大な生き物のようだ。
美映子は黙って彼、とも、それ、とも呼びがたいものを見ている。
ふいに異生物が振り向き、桜原に戻る。美映子の方に近づいてきて、眉をひそめて顎をしゃくる。
「入れよ。お前に風邪ひかれっと困んだよ」
美映子は口唇を尖らせて、桜原の傘の下に入った。
唯一絶対のエース――何故なら八人だけの野球部に投手は彼しかいない――は、これも一人きりのマネージャーに体調を崩されると都合が悪いのだそうだ。
何せ、彼らは自分では何も出来ないような甘ったれ集団なのだから。
私はあんたたちのお母さんじゃないわよと怒鳴ってやりたくなることもなくはないが、好きでこんな役目に就いたのだから仕方ないと美映子はいつもため息をつくだけである。
特にこの傍若無人なお山の大将には、何を言っても無駄だ。
雨は大粒で、傘の表面に当たる度に鈍く弾ける。並木の土を跳ねかして、二人の履物を汚す。
桜原は右手で傘を持っている。美映子は桜原の右側にいる。
桜原の背は低くはないが、美映子の背が高いので身長差はあまりない。
「私、持つよ」
「うるせぇ。小せぇ方に持たすとめんどくせぇ」
「いつもデカ女って言うくせに」
「めんどくせぇ。それより遠いんだよお前、そんなに俺が嫌いか?」
「違う、ってば。あんまり占領したら悪いかなって……」
「だからお前が大人しく納まってる方が濡れねぇんだっつうの、俺は」
桜原は左手で美映子の左手を取ると、ハンガーにコートを引っ掛けるように無造作に柄の部分へ掛けた。桜原の右手の甲に美映子の左手の平が重なった。
美映子はぱっと手を引っ込める。指先にかさついた肌の感触が残っている。
桜原は黙っていた。美映子も何も言わなかったが、距離を取るのはやめた。
学生服の肩とセーラー服の腕が触れる度に動揺した。
桜原の呼気の聞こえそうな位置にある自分の耳に腹を立てた。
俯いてアスファルトの雨筋を眺めた。
ふと、桜原が道を曲がろうとしていることに気がついた。
「あの、駅は……」
「俺は駅なんて行かねぇよ。帰るんだよ」
短く言って桜原は先に進んでしまう。
男子と二人きりのこの状況で、美映子はついていったものか迷う。
「おい、勘違いしてんなよ。俺んち近所だから、とりあえず傘貸してやるっつってんだよ。行くぞ」
桜原は見下したような口調で言って、再び美映子を傘の下に招き入れた。
美映子は渋々それに応じた。
「一体何考えてたんだよ。やーらーしー」
桜原は意地の悪い笑い方をして、美映子を肘で小突く。美映子は言い返さない。
言ってやりたいことは山ほどあったが声にならなかった。
彼はきっと美映子には何を言っても大丈夫だと思っているのだろうと口唇を噛んだ。
桜原はいつもと調子の違うのに気がついたらしく、気まずそうに言った。
「心配しなくても、俺、お前に興味ねぇし」
その気遣ったつもりの言葉が、一番憎らしいのだと美映子は思った。
家に着くと桜原はタオルを貸してくれた。
美映子は玄関から先に上がるつもりはなかったし、桜原もどうぞとは言わなかった。
「古いから使えねぇかも。一回差して」
桜原は一本の傘を美映子に差し出してきた。
既に詰襟とワイシャツは脱ぎ捨て、上半身裸だった。
美映子は彼を見ないように傘を受け取り、留め具を外す。
ピンクに赤い薔薇模様の傘だ。父子家庭の桜原家に、古い女物の傘。
その指す意味は一つだろうが、美映子は確かめることが出来なかった。
「気に入ったら、そのままやるよ」
桜原は諦めたような声で言った。
開いてみた傘は見た目にもまだ美しかったが、木製の柄に残った温もりがあまりに鮮明だった。
美映子は目を伏せ、傘を畳む。
「明日返すね」
桜原は感情のない声で、わかった、と言っただけだった。
礼を言って桜原家を出るとき、美映子は桜原の身体を少しだけ見た。
首からタオルを提げた剥き出しの胸。部活の休憩時間にも見ている姿。
同じ筈なのに、蛍光灯の下で見る彼は何だか頼りなさげに感じる。
やはり太陽がなければダメなのだ、と思った。彼はみんなの太陽でなければいけないのだ。
「
桜原が窓を開けて叫んでいた。美映子は花柄の傘を軽く回して応えた。
藍色の海に沈んだ町を歩く。微かに笑みを漏らす。
憂鬱ではない。今や美映子は、太陽の在り処を知っているからだ。