紅茶とキャンディ

「ひとつ忠告しとくぞ」
 振り上げた右手は空中で掴まれて、頬まで届くことはなかった。彩人は聡子の手を放さずに淡々と言った。
「眼鏡かけた奴の顔を、不用意に狙わないことだ。弁償させられたくなけりゃな」
 見慣れない縁なし眼鏡の奥から見下ろされる。聡子はぎり、と奥歯を噛み締める。振り払おうと肘を引いたら彩人の指は思いの外簡単に外れた。「何でお兄ちゃんにタバコなんか教えたの!」
「煙草?」
 聡子が睨み上げると、彩人は訝しげな顔で語尾を上げた。聡子も眉をひそめる。
 富島彩人というのは、驚く程あっさりと自分の非を認める男だった。その潔さはむしろ居直りと言ってもいいぐらいだった。間違っても白を切るような性格ではない。
「あやちゃんじゃないの?」
「……何か誤解があるようだが」
 とりあえず上がったらどうだ、と彩人は肩をすくめた。聡子は口唇を尖らせながらも、おじゃまします、と靴を脱ぐ。
 聡子がこのマンションを訪れることは殆どないが、生活感のない部屋だと毎回思う。神経質な彩人のせいなのか、家を空けがちだという両親のせいなのかは分からない。
「慶ちゃん煙草始めたって?」
 薬缶を火にかけながら彩人が尋ねた。聡子は勧められた椅子に腰を下ろす。
「最近吸うようになって……あたし、あやちゃんが教えたんだと思って」
「残念。アテが外れたな」
 彩人は聡子の正面に座った。
「僕が教えたのは野球と数学だけだ。酒と煙草に関しては一切吹き込んでない」
「……ごめんなさい」
 聡子は顔を赤らめて俯いた。彩人は小さく笑って左の掌に顎を載せた。
「いいさ。普段から疑われるようなことしてる方が悪い」
 聡子の兄は高校を卒業したが、まだ未成年だ。家に喫煙者はいない。誰かが教えなければ煙草に触れる機会はないはずだった。彩人は、予備校で覚えてきたんだろう、二浪以上は成人だからな、と呆れたように言った。
 お湯の沸いた音がして彩人が席を立った。キッチンで硬い物を砕いているような音が聞こえるが、一体何をしているのだろう。
「ん」
 カップと共に差し出されたのは、パラフィン紙に載ったルビーのような欠片だった。
「なにこれ?」
「これ」
 彩人は同じ色の球体を自分の紅茶に落とした。聡子は5ミリ程の粒をひとつ摘まんで口に入れる。どうやら飴らしい。
「混ぜながら飲みな」
 彩人がティースプーンを回しながら言った。聡子は言われた通りに欠片を滑らせた。茶色い水面で一瞬浮いて、きらきらと沈んでいく。
「きれい」
 聡子の口許が綻ぶ。彩人は少し微笑んでから、真顔になって右手を持ち上げた。スプーンからカップの中まで、ピンク色の糸が伸びている。聡子の顔が輝く。
「何それぇ!」
「飴」
「あたしもやりたい」
 彩人に渡されたカップを押さえ、聡子は融けかけた飴をスプーンの先に絡めた。簡単に引っ張れる程やわらかかったが、空気に触れると途端に固くなった。一匙飲んでみる。苦い。
「味しない」
「こっちはまだ溶けてないからな。そっちはもう甘くなってるだろう」
 彩人は先に聡子に出した方を指した。聡子は彩人のカップを返し、もう片方の紅茶を口にする。甘みと葡萄の香りが広がる。
「おいしい」
「それはよかった」
 彩人はまだ一口も飲まず飴をつついている。聡子は軽く笑ってから、下を向いた。
「……あやちゃんもさぁ、タバコ吸うの?」
「どうして」
 彩人は穏やかな声で訊いた。質問の意図など全て解っていて敢えて言うのだ。そういう奴なのだ。
 聡子はふてくされてカップの縁をこすった。
「お兄ちゃんに何で吸うのって訊いたら、間が持たないからってゆった。あやちゃんみたいなトモダチがいるのに、お兄ちゃん自分に間が持たないとか、簡単に言う」
 法律上の是非を別にすれば、未成年の喫煙など珍しくもない。中学生の聡子の周りにもいた。
 兄が吸ったということだけがショックだった。今までの人生で一度のルール違犯も犯したことはなかったであろう、馬鹿正直な兄が。何故十九まできて煙草に手を出さねばならなかったのか、聡子にはどうしても理解出来ない。
「サトが思ってるほど僕らは仲良くはないよ」
 彩人は静かな声で言った。聡子は顔を上げる。彩人はふっと目を逸らす。
「慶ちゃんは僕を本当には信頼してないよ。僕もそうだ。嫌いだとかいうことじゃない。それは意思とは関係のない深層の話だ。どうにかしようとしてなるもんじゃない」
 それに、と彩人は続けた。
 近すぎて言えないことなんて山程あるだろう。
 聡子は黙って紅茶をすすった。彩人の言っていることは時々めちゃくちゃだと思う。けれど言い負かせる自信がなくて、結局いつも黙り込んでしまう。
「ああ。お茶うけぐらい出すべきだな」
 彩人はテーブルに手をついて腰を浮かせた。いいよ、と聡子がそれを制する。
「いいよ。紅茶だけでいい。甘いもん」
「そうか」
 彩人は呟いて座り直した。珍しく落ち着きがなかった。
 どんな言い方をしても、兄の一番の友人は彩人なのだと聡子は思った。彩人の一番の友人も兄であってほしいと。
 大切であればこそ突き放さざるを得ないという心境は、まるで理解出来なかったけれど。
「これ簡単にフレーバーティーできていいね。お砂糖いらないし」
 聡子は両手でカップを包んだ。飴はすっかり溶けて、紅茶の色が明るくなっている。
「もう一つメリットがあるんだぞ」
 彩人はいつもの調子に戻って言った。まだ動かしていたスプーンを持ち上げ、先端を聡子に向けてにやりと笑う。
「なかなか飲み始められない分、間が持つ」
 聡子は目を丸くした後、噴き出した。
「お兄ちゃんにも教えなきゃ」
「そうだな。そんなに暇なら紅茶でもかき回しとけって言っとけ」
 彩人はやっとスプーンを置いてカップに口をつけた。聡子はいよいよ笑い出す。
「あやちゃんメガネくもってる!」
「んん? 別にそんな面白くないだろ。箸が転げても可笑しいのか、若いな」
「あやちゃんだって、まだジュークじゃん。未成年じゃん」
「五歳違えば世代が違うよ」
 年寄りじみた口調で言って、彩人は眼鏡を外した。馴染みのある顔になった。
「それ飲んだら帰れよ。子供の出歩いていい時間じゃないぞ」
「えー、まだ七時半じゃん」
「なら言い直す。永田家のお姫様がほっつき歩くには遅い時間だ」
「あやちゃんが送ってくれるんだったら帰る」
「厚かましい奴だな」
 わかった、わかった、と彩人は冷めた紅茶をあおった。
「せっかくだから、兄君に祝辞のひとつも述べさせていただくとしようか」
「うん。言ってやってよ、似合わないって」
 帰りにコンビニに寄ってもらおう、と聡子は思った。飴を買って帰るのだ。なるべく大きな飴玉。砕かずに三個ぐらいカップに入れてやろう。兄はきっと、いつまでもかき混ぜているに違いない。