異文化コミュニケーション

 濁音つきのらしからぬため息をついて、富島(とみじま)彩人(あやと)は勢いよくベッドに腰を下ろした。
 高級ブランドスーツの上着は、チークの椅子の背に無造作にかけられている。
 指を突っ込んでネクタイを外しているところで着信に気付き、彩人は眉をひそめた。とりあえず下をジーンズに履き替えてからかけ直す。長いコールに苛ついて、もう切ってやろうと思ったところでようやく繋がった。
桜原(おうはら)お前、出ないときは用件をメールで送れって言っただろう」
『えー、だって俺メール嫌いなんだもん』
「じゃあ留守電に入れろ。必要があればかけ直してやる」
 桜原皓汰はたまに連絡を寄越すのだが、何故かそれはいつも電話なのだった。
 だってさぁ、と桜原は眠そうな声で言う。
『メールとか留守電とか、一方的な感じで嫌なんだよね。俺、誰かが助けてくれないと上手く喋れないんだよ』
「……お前の達者な喋りなんか誰も求めてない。安心しろ」
 彩人は通話口にかかるように深く嘆息した。
「で? 用は」
 電話を肩と頬で挟んで、スーツをハンガーにかける。
 用なんかなくたって好きなときに声をかければいい、などという偽善的なことは言わない。彼と彩人との間にはどうしたって用が必要なのだ。
 桜原が、ああうん、と答える。
『さっきまで、ウチでみんなで飯食ってて。富島の話が出たからかけてみた』
「みんなったって、どうせ新田と朔夜さんと監督だろ」
『今日は侑志来てないよ。ミツさんがいた。コンビニで会ったから呼んだんだ』
「また面倒くさいのが……空いてても行かんぞそんなもん」
 彩人はクローゼットを閉めた。その音が聞こえたのか、先の発言のせいか、桜原が問いかけてくる。
『今日出かけてたの?』
「ワグナーのオペラを眺めに」
『うわっ、金持ちの趣味!』
「僕じゃない。親父の趣味だ」
 彩人は再びベッドに腰かける。
 彩人はオペラが嫌いだ。生演奏はともかく、歌や演劇といったものが好きではないのだ。二つが合わさればもう、それは苦痛以外の何ものでもない。
 父親のことはもっと嫌いだ。ちぐはぐなブランドで固めた全身も、高尚そうな公演に好んで行きたがる癖も、本人はユーモアと思っているらしい中途半端なおどけも、全てが成金じみていて癪に障る。
 しかしオペラに付き合うのが大学院に進む条件だと言われてしまえば、お供をせざるをえない。いくら冗談めかした口調であっても、どこまで本気か分からないからだ。
 まぁ三時間ちょっとの公演と夕食(と趣味の悪いワイン)に付き合うだけでまとまった金を出してもらえるのなら、割のいいバイトだろう――と、何度も自分に言い聞かせた。そうやって半日、じっと耐え忍んでやっと帰ってきたのだ。
『俺、ワグナーのオペラって「ニーベルンゲンの指輪」しか知らないなぁ』
 そんな彩人の気も知らず、桜原は呑気な声で言った。彩人は、頭の中で何かが潰れるような音を聞いた。
「バカか! アレを上演するのにどれだけかかると思ってる? 四日間だぞ! そんなもんに付き合っていられるか!!」
『ごめん、ちょっ、怒鳴んないでよ。鼓膜がどうかなる』
 桜原の情けない声で我に返る。彩人は舌打ちしてあぐらをかき、ワックスで固められた髪を崩した。掌がべとついて気持ち悪い。
「『タンホイザー』だ。今日観たのは」
『へぇ。どんな話?』
「貞淑な妻に飽きた男が風俗に溺れて社会的に抹殺される話」
『すごい脚色してない?』
「失礼、風俗ってのは適当じゃないな。愛欲の国だ。タンホイザーが散々やりまくった挙句、故郷が恋しくなったっていうんで滅亡させた国さ。そのくせ破門の憂き目にあったらまた戻ろうとするんだから笑えるよ。そこに葬列が通りかかり、妻が夫の罪を贖うために命を落としたことを知るや、タンホイザーはショック死。哀れな魂は救済されました、めでたしめでたし。――貞節と淫乱の二分法で大変分かりやすい歌劇だ」
『富島のフィルター通すとなんか全然高級感がなくなる』
「オペラだのワグナーだのを高級だと思ってる方がフィルターなのかもしれない」
 彩人は上体を後ろに傾けた。ベッドに仰向けに倒れ込む。
 オペラ。ワグナー。フランス料理。年代物のワイン。
 大いに結構だ。どんどん注ぎ込んで日本経済を活性化させてほしい。
 もっとも、と彩人は目を閉じる。僕に迷惑がかからない範囲でなら、って話だ。 
 人が持ち上げるものを無批判に『教養』と呼ぶのはいい加減止せよ。あんたの無教養が際立つだけなんだぜ。少しは自分の頭で価値を判断しろ。
 僕はそんなことには興味がないんだ。
『富島さぁ、やっぱ今度ウチおいでよ』
 桜原がやけにゆっくりとした口調で言った。彩人は答えずに目を開けて、天井を見つめた。
 それは捨ててきた世界に引き戻す、甘い囁きだった。
『ミツさんがいない日でもいいからさ。親父、富島のこと頼りにしてたし、朔夜も元女房のこと気になるみたいだから。侑志も呼ぼうか? ナイターに安焼酎しかないけどね』
 ただ、ヴェーヌスの誘惑とは違う。
 その世界は愛欲の国と同じくらいの俗っぽさを持っていたが、淫靡な色や背徳の香りはなかった。
 剥き出しの言葉達と下らない実況と解説、ノスタルジックな煙草の匂い、直接喉に流し込む無色の酒が雑然と並んでいるだけだ。
 何のコードも求めない空気は、彩人を簡単にその中へ溶け込ませてしまう。彩人の不在をものともしないくせに、在るように在ることをあっさりと許してしまうのだ。
「用がない」
 彩人はそれが嫌いだった。というより、苦手なのだ。彩人は苦手という感情が嫌いである。だからその中にいることを嫌った。安堵して笑ってしまうことが酷く不安だった。
 あの場所がなければ生きていけなくなることを、何よりも恐れていた。
 桜原は何でもないことのように答えた。 
『用なんかなくたって、好きなときにおいでよ』
 来ること自体が用だって別にいいじゃない。俺達、富島に会いたいし。
 彩人は身じろぎもせずに黙っていた。桜原もそれ以上何も続けなかった。
 受話器の向こうで、風呂だと呼ばわる声がして、音がこもった。桜原が通話口を押さえて対応しているらしかった。
 でんわだれ。とみじま。とみじま?
『もしもし、富島? ひさしぶりー、朔夜だけど。元気?』
 急に音がクリアになった。口調の気安さから姉の方だと分かった。もう成人したのに、二人の声は機械を通すと未だに似通って聞こえる。
 ぼちぼちです、と答えると、ぼちぼちぐらいがいい、元気すぎると後で落ちるからと朔夜は軽い調子で言った。
『ビョーキじゃないなら今度ウチ来なよ。テストとかまだっしょ?』
「僕、桜原家の場所知りませんよ」
『なんだそんなの、駅まで皓汰か侑志迎えに行かすよ。好きなもんとかある? 早めに言っといてくれれば作っといてあげるよ。富島の口には合わないかもしんないけどさ』
 何にしても私のいる日にしてよ、久しぶりに会いたいもん。弟とそっくりの言い方だった。
 そうですか、と呟いてから、彩人は酷く事務的な口調になった。
「何でもいいです。朔夜さんのご都合のいい日を教えて下さい。伺います」
『何でもいいって、何それー? 試されてんの?』
 朔夜が電話の向こうで笑っている。いえ、と彩人は彩人は前髪に手を突っ込んだ。声しか伝わらないのが自分にとって有利なのか不利なのか、それすらも判断できなかった。
「朔夜さんの得意なものが食べたいです」
 朔夜はいよいよ笑い転げると、分かったまた連絡すると言って、弟に断る様子もなく電話を切ってしまった。彩人は電話を畳みもせずに、右腕で顔を覆った。
 きっと酔っているのだ、と思った。カビの生えたようなワインなんぞを飲んだから、ちょっと訳が分からなくなっているのだ。
 眠ってしまおう。風呂に入って着替えて、今日は早めに寝よう。
 しかし彩人は起き上がることなく、崩れた髪もそのままに寝入ってしまった。
 右手に握った携帯電話に着信を示すランプが灯っている。