香花

「かーきつばた」
 (かおる)は一年三組を覗き込み、中学からの友人に声をかけた。杜若(かきつばた)颯太(そうた)は読んでいた文庫本から顔を上げる。
小春野(こはるの)馬剛(まごう)はどうした」
「美術部のミーティングだって」
「そうか。忙しそうだな」
 杜若は本を閉じる。袖に金のボタンが光る。壮花(わかきはな)高校には制服がないのに、杜若はわざわざ黒の詰襟を着てくる。
 まぁ服のことは、水色のセーラーワンピで通学している薫も言えた義理ではない。
「ちょっと杜若に頼みがあって」
 薫は杜若の机に弁当がないのを再確認して、ガラスの小瓶を見せた。四角い容器の半分ほどを、琥珀の液体が満たしている。
「祖母の形見整理してたら出てきたんだけど。箱とかもないし、何の香りなのかはっきりしなくて」
「力になれるかは分からないが……」
 杜若は謙遜しながら、小瓶を両手で受け取った。そのままスプレーの蓋を外し、ティッシュペーパーを畳んでワンプッシュ吹きつける。左手に載せたティッシュを右手で覆うと、一礼してからそっと顔に寄せた。
 薫は指を後ろで組んで、目を閉じた杜若を見ている。
 杜若の母は趣味で香道を嗜んでいるのだそうだ。幼い頃は母と一日『香り当てクイズ』に興じていたという杜若も、とても繊細な嗅覚を備えている。加えておそろしく姿勢がいい。指の隙間から香りを『聞く』姿は、まるで着物に身を包んだ粋人のようだ。
 杜若はまぶたを上げると、両手を静かに机に置いた。
「強いのは茉莉花、薔薇、それと松明花……だろうか」
「ふむふむ」
 薫はピンクの爪でスマホをタップする。ジャスミン、ローズ、ベルガモットか。杜若はほとんどの花を和名で覚えているから、薫が理解するには一度翻訳しないといけない。
 それから、と杜若は控えめに言い足す。
「月下香が印象的だった。さっき挙げた他の香りは、元々添えものなのかもしれない」
「……げっかこう?」
 画面には『チューベローズ』の文字と、白くて小さな花の写真。
 薫は首を傾けて、耳の上を飾るヘアピンに触れた。幼なじみがチューベローズをイメージして作ってくれたものだ。祖母は薫や姉だけでなく、その幼なじみも本当の孫のようにかわいがっていた。月子(つきこ)ちゃんを大事にね、と薫の手を握ったかさかさの肌を、張りを失った声を、多分薫は一生忘れずに生きていくのだろう。
「ありがとう、杜若。助かったよ」
 薫が沈んだ声で受け取ろうとすると、杜若は片手でそれを押しとどめた。折り目のないハンカチで瓶の指紋を綺麗に拭ってから、布ごと薫に差し出す。
「上等なものだが、いささか劣化が進んでいるように思う。使うとしても、肌に直接つけるのはやめた方がいい」
 杜若は真面目な表情だった。いささか、という言葉を自然に口にする高校生を、薫は他に知らない。苦笑して、大切な小瓶を両手ですくいあげる。
「杜若のそういうところ好きだよ」
「どういうところかは分からんが、おれも小春野の好意を素直に告げられるところは尊敬してる」
 人のことが言えるか。薫は咳払いして話を戻す。
「お礼。どうすればいい?」
「いいものを聞かせてもらった。充分だ」
「そういうところはよくない。またお茶でも持ってくるよ。前と同じやつ」
「ありがとう。……祖父母が喜ぶ」
 いつも歳より大人びて見える杜若だが、はにかんで瞳を伏せるときは小学生のように幼い顔になる。五条が構うわけだと内心で呟き、薫は長い黒髪をかき上げた。
「それと、五条(ごじょう)に杜若の有能っぷりをたっぷりプレゼンしとく」
「そういうのはいらない!」
 真っ赤になって立ち上がる杜若。薫はスカートを翻し廊下に躍り出る。
 薫は友人が少ないが、杜若がいてくれるおかげで困ったことはない。杜若にとっても自分がそうであればいいと、外れものなりに願っている。