千々ノ一夜迄 - 2/5

 未紅の部屋は抜群に日当たりがいい。夕になると辟易するほど西陽が熱いが、午前中は心地よい光量。雅伸はセロトニンの分泌を感じながら窓を開ける。まもなく十二月を迎えるといっても、それなりにあたたかい。
 未紅は仕事に出かけた。律義だなと雅伸は思うが、休む連絡を入れるのだったら行った方が楽だと本人はぼやいていた。きっと無断欠勤も選択肢にはないのだろう。その英断を下せるような人間なら、そもそもこんな事態に陥ったりはしない。
 雅伸は不織布のマスクをして、件のマットレスをベッドの台からどかした。カビや埃は予想より大人しい。発掘されたゴミの方がよほどひどかった。ポリエチレンの手袋越しに摘み上げたのは、完全に乾いて劣化した使用済みコンドーム。それもひとつやふたつではない。見ず知らずの男の無為な遺伝子を、雅伸は可及的速やかにコンビニエンスストアのレジ袋へ放り込んでいく。
 未紅とは恋人でも何でもない。彼女がどんな男に抱かれていようと雅伸に口を出す権利はない。かといってその後始末をしてやる義理も本当はない。
 新品のマットレスとシーツは昼過ぎに届いた。枠まで拭き上げたベッドに一式セットして、夕方頃回収業者に古いものを引き渡す。
 それからやっとスーパーマーケットに買い出し。自動ドアの脇に置いてある金属製のラックから、レシピカードを二枚取る。書いてある食材をプラスチックのかごに放り込んでレジへ。
 未紅の家の台所で調理を試みる。『再現性が確保できていない論文に価値はない』というのは大学時代に飽きるほど言われたことだが、その基準なら持ち帰ったレシピは壊滅的だ。『少々』『適量』『お好みで』、要するにどうしたらいいのか。とりあえず文章に従って鶏肉の皮を取り除く。分量のグラム数は皮を剥ぐ前だろうか後だろうか?
 錠の外れる音がする。未紅の弾んだ声が飛び込む。1Kの未紅の家は、玄関扉を開けたらすぐキッチンだ。
「ただいまですー。あっご飯ですか? 今日何ですか?」
「成功すれば鶏の甘酢炒めと中華スープです。おかえりなさい」
 雅伸は顔を上げずに包丁を走らせる。未紅が覗き込んでくる気配を感じるが、今肉から目を離せば指ごといってしまいそうだ。
「未紅さん、できたら持っていきますから自由にしててください。家主なんですから」
「いいんですか? ご飯作ってもらうの待つなんて実家ぶりですよ。うーん、じゃあゲームでもしてようかな」
 未紅はその場にストッキングを脱ぎ捨てていった。調理が一段落したら片付けよう。雅伸は一口大、というのもいまいち不明確だが、とにかく小さめに切った肉をサラダボウルに集め、計量用ではないスプーン一杯分の料理酒をかける。すみません! と部屋から飛び出してきた未紅に嘆息。ストッキングを脱衣所へ持っていくのを横目に、『少々』が分からずおっかなびっくり塩コショウした。
 そういえば、何のゲームをするのだろうか。バリキャリ女性の癒しといえば、二次元イケメンとの疑似恋愛? こんな不精ひげの男を家に置くぐらいだから、もう現実の異性への期待は捨て去っているのかもしれない。
 甘酢炒めのようなものをどうにか作った。あまり旨くはなさそうだが仕方がない。ひとまず食卓、未紅がそこで大体のことを済ませているローテーブルに運んでしまおう。
「未紅さん、一品できたのでテーブル空けてください」
 仕切りのドアをノックする。あー、と間の抜けた声を了承と受け取りノブを回した。
 途端、目に飛び込んできたのは肉の腐り落ちた人間の顔だった。
「あっすみません、違うんです雅伸くんその、待ってこれは、ね?」
 未紅はこちらを向いて何やら必死に弁明しているが、その間も画面の中の青年は正確無比にゾンビの額を撃ち抜いている。雅伸の元々なかった食欲がさらに減退する。右手の鶏肉まで別のものに見える前に、テーブルの中央へどんと皿を下ろした。
「何が違うのか分かりませんけど。なんですか、その浮気現場見られたみたいなリアクション」
「だ、だって雅伸くん引いてる……引いてますよね? 三十路女が夜な夜なホラゲで憂さ晴らしなんて、あっエイムずれた」
 ゾンビが悲鳴を上げる。未紅は苦渋の表情でコントローラーを置き、ラメ混じりに塗られた指先で電源を落とす。セーブしなくていいんですか、と訊けば、連続記録が途切れたのでいいですと言う。黙って立ち去るのも悪い気がして、雅伸はその場に正座した。未紅もこちらに身体を向けて姿勢を正す。
「引きました?」
「驚きはしましたが。別に個人の好き好きでしょう」
 雅伸は率直な感想を述べた。むしろ人並みの攻撃性は持っているようで安心した、というのは分を越えた発言であるので控える。高速でゾンビ倒せるのに怪談怖いんですか? という疑問も胸にしまう。何となく。
 未紅は何か言いたげに眉を寄せていたが、やがて正面から雅伸の膝に腰掛けた。雅伸は彼女の背中に手を回してバランスを保持してやる。未紅を相手にしていると、一歳半年上の女性というより、幼い子供の世話を焼いている気になってくる。
「だって、わたしがマウント取れるのゾンビぐらいなんですもん」
 未紅が首にかじりついてくる。吐息がくすぐったい。このままゾンビにされそうだ。背中を撫で下ろしてやる。下着のところで指先が引っかかった。
「銃さえあれば、未紅さんだって誰の優位にも立てるんじゃないですか。現実でも」
 実銃を所持するために生じる諸々の問題はさておき、仮に射撃の腕をゲームほどまで磨けたら、どんなクソ野郎も恐るるに足りないはずだ。
 未紅がかぶりを振って、真っ直ぐな黒髪が雅伸の腕の中で豊かに揺れた。
「それでも、わたしは人間に向けて引き金を絞ることはできないと思います。どんな相手であったとしても」
 静かに紡がれる乾いた言葉。引き金を『ひく』ではなく『しぼる』と表現したことに、抱く常識の断絶を感じる。雅伸の手は引っかかりを越えて、未紅の背中から腰をゆっくりさする。
 では目の前の相手がゾンビなら、なんて、くだらなすぎて言えない。どうせ彼女は、交渉の余地なく自分を死に至らしめてくれる存在を喜ぶだろうから。
 食事を終えそれぞれ入浴を済ませた後、新しいマットレスの寝心地を確かめた。雅伸はそんなことより、未紅に貸された部屋着が気になる。おろしたばかりの男物。他人のサイズは納まりが悪い。
 カビの舞う心配がなくなって、未紅のばた足もまた激しくなった。謎の遊び『しんど百物語』は今日も続く。
「好きなもの訊かれたから答えただけなのに、『そんなのが好きなの? だってこれこれだし、それそれだし、私は絶対に無理~』とか全力で否定してくる人って何なんでしょうね。わたしオススメした覚え一切ないんですけど」
 未紅はふてくされながら、ルールに則り『お酒入りの甘い甘いチョコレート』と付け加えた。酒を嗜まずチョコレートが苦手な雅伸にとっては狂気の食物だが、それも好き好きだろう。
「雅伸くんは?」
「人前でしゃあしゃあと『ご冥福をお祈りします』と言える人ですかね」
 昼頃、夕食のレシピを検索しようとパソコンを借りた。ブラウザのホームで騒がしいネットニュースが目に入り、ついクリックしてしまった。コメント欄には無責任な批判と、それを上回る軽率な哀悼の定型句。当てられて、目的を遂げずに電源を落とした。
 悼むのも祈るのも精神の自由。人として真っ当な感情だ。ただ雅伸は、第三者の目に触れる場所でわざわざその言葉を口にする自意識を美しいとは感じない。
「欲しいものは?」
 未紅の左手が雅伸の顎を何度もなぞっていく。爪を塗る心理も一向理解できそうにないが、艶やかな色が欠けないよう日常の些事を代わってやるのは案外に快い。
 雅伸は、花びらに似た濃いピンクを緩慢につかまえた。
「眠り。昨日からずっと寝てなくて」
 何も持たずに家を出たから、睡眠導入剤の手持ちがなかった。『眠い』と『眠り』の間に横たわる『寝る』という境界線を越えられず、意識の曖昧な状態で丸二日を起きている。
 未紅の右手が、雅伸の太腿を下から上につと歩いた。
「しますか? 雅伸くん、おととい終わった後、今にも寝そうだったもの」
 耳朶を濡らす囁き。身体は既にあの日を思い出しているのに、頭の動きはワンテンポ遅い。
 セックス。射精。瞬間的ではあったが確かに恐ろしく眠かった。だが眠剤代わりに未紅を使うなんて――ああ、周りをたどられるだけで呼吸が浅く速くなっていく。理性の継ぎ目がほろほろと綻んでいく。
「疲れてもう動けないかな。してあげるね」
 目の前にあった未紅の頭が沈んで。ぬるくやわらかな感触で脊髄に電気が走って。ぴんと敷いておいたシーツが自分の手で無様に歪んで。おかしな息が喉で詰まって。
 未紅に触れるまで、この身体にこんな本能がまだ残っていたことも知らなかった。こんな、荒々しい、生々しい、野ざらしの、本能。
 長い黒髪の隙間から差し入れた骨ばった指の、その指の触れる頭皮の奥の脳の奥、抱え込んだ頭の芯の芯になけなしの生命力が吸い取られていく。脈打つリズムに彼女の名前を薄く乗せては何度もかき消した。
 彼女は微笑んで雅伸を見つめた、気がする。彼女が口の中のものをどうしたのか、見届けられずに雅伸の意識は途絶えた。