千々ノ一夜迄 - 3/5

 相模(さがみ)雅伸と紺野未紅の出逢いは、運命と呼ぶには随分と数奇であった。
 同じ頃に飛び降りようとした男女が、たまたま同じ場所を選んで鉢合わせた。未紅はその偶然をいたく気に入って、逢ったばかりの男をホテルに誘った。勢いを削がれて諾々と従ったのが雅伸。人生通算交際日数〇日で童貞を捨てた。最期の食事を共にしようと未紅の部屋に来て、凄惨なまでの散らかり方に絶句したのが三日前。
 死後を心配し掃除を始めた雅伸と、死にたいと言いながら仕事に向かう未紅。ゴール不明の共同生活は、四日目に入ろうとしている。

 身体が痙攣したはずみで目が覚めた。
 隣に未紅はいない。シャワーだろうか? カーテンから漏れくる光が赤いということは朝まで寝てしまったのか。このご時世で二つ折りの携帯電話を開いて時刻を確認する。朝どころか夕方だった。二日分寝たらしい。
 雅伸はうなりながら身を起こす。昨晩ずらされた下着はきちんと穿いていた。無意識に引き上げたか、未紅が直してくれたのだろう。中身はまだ上がりがちだが、これぐらいの角度なら重力に従ってそのうち落ち着く。
 未紅は今日も仕事に行ったようだ。いずれ壊すつもりの日常を遵守する気持ちは、雅伸にも解らないでもない。ルーティンをこなし続ける惰性は、終わりを願う本音を周囲の目から隠してくれる。そもそも本当に職場に向かっているのかさえ定かではないが、それは雅伸の興味の埒外だ。
 初日から二日目にかけて大方のゴミを片付けたので、昨日はクローゼットを攻略した。今日は靴箱をやるつもりだったが、時間が時間だ。夕方のセール品が残っているうちにスーパーへ行くのが先。
 脱衣所で顔を洗って、鏡に映る二十九歳の男を見た。耳が隠れるほど伸びた髪も、まばらに生えたひげも汚らしい。死ぬ前には整えないと申し訳が立たないなと、誰にというわけでもなく思いながら顎を撫でた。床屋に行くにしても剃刀を買うにしても、いずれ財布を取りに実家へ戻らなくてはなるまい。さすがに未紅の財布から出させる筋の金ではないから。
 今から洗濯をしても乾かないので、仕方なく昨日と同じ服を着込んだ。じきに衣類も取りにいかねば。知らない男の洋服は早くゴミとして処分したい。何となく。
 暗くなった道を通ってスーパーへ。皆が素通りするレシピを入り口で吟味していると、ノブさん、と後ろから声をかけられた。
「なにやってんすか、棚なんか睨んで」
 振り返ると高校の後輩がいた。百七十センチと女性にしては長身。スパイクならば雅伸に分があったが、少しヒールの高い靴を履かれるともう追い越されてしまう。
 新田(にった)朔夜(さくや)は、プラスチックの買い物かごを手に首を傾げた。現役時代と同じショートカットがさらさら流れる。
「ぐずぐずしてっとみんな売り切れちゃいますよ。ノブさん」
「何を作るか決めてない」
「そんなん何が安いかによるでしょ。ほら」
 右手をつかまれ強引に入店させられた。
 朔夜とは高校の野球部で一緒だった。年齢は雅伸の一つ下で、夫も雅伸の後輩。婚前からこの辺りに住んでおり、先日もスーパーで遭遇した。雅伸のことは近所で一人暮らしを始めたとでも思っているらしい。
「疲労回復に豚肉のビタミンB1、こま一〇〇グラム八十八円。向こうで安くなってるナスでカリウム、玉ねぎでアリイン」
「玉ねぎはある」
「じゃあその三つ、塩コショウして火ぃ通しちゃえば夕食はバッチリっすよ。あとはサラダとか買っちゃえ」
 にっと笑って指でOKサインをつくる朔夜。懐かしい感覚に雅伸の頬も緩む。
 朔夜は昔からこうだ。横から出てきて颯爽と相手を助けるのが趣味。口が悪いこと以外は文句のつけようのない敏腕マネージャーだった。
 雅伸はそのまま奥様のお買い物に同行させていただいた。管理栄養士の資格を持つ朔夜は、食べ物についてあれこれと教えてくれる。雅伸は頭の中でメモをしながら頷いている。
「新田家も今日は同じメニューか」
「いや、うちはよく食うデカいのがいるんで何品か足します。ゆってもアラサーなんで野菜中心ですけど」
「毎日ちゃんと考えててえらいな。俺なんて食えるものを調達するので手一杯だ」
 雅伸は苦笑した。元々この自炊は、終わらせるために始めたことだ。1Kに住んでおきながらゴミ袋でキッチンの機能を完全に殺していた未紅、料理の腕も推して知るべしだった。コンビニ弁当よりはマシな食事になればと、雅伸はいつか来る『最後の晩餐』に備えている。遠い先々もないから栄養計算は放棄した。
「そんな大袈裟なもんじゃないっすよ。うち母親いないから、子供の頃からずっとやってて慣れてるってだけで」
 謙遜する朔夜の口許は笑っていたけれど、声は複雑に乾いていた。雅伸も、朔夜の実家の事情はおぼろげに知っているだけだ。どうも母親が育児放棄をしていたらしい、ということを人伝に聞いたぐらい。謝るのも偽善のようで、しかしこれ以上の迂闊な発言で傷を広げるのも嫌で黙っていた。
「ノブさん、うちで作っていったらどうすか? 私でよければ教えるんで」
 朔夜が一転明るく提案する。雅伸は腕時計を見る。そこそこいい時間ではあるが。
「やめとく。ご主人がまだ帰ってきてなかったら後で気まずい」
「また『ご主人』なんて他人行儀な。私もあいつも同じ後輩っしょ?」
 目を丸くする朔夜に、まぁなとは呟いたが積極的に同意はしなかった。
 かつての関係がどうだろうと、雅伸にその気がなかろうと、男は男だ。彼女の夫も、気安く家に上がり込まれてはいい気分ではないだろう。朔夜が男の前では過剰に蓮っ葉な言葉遣いになるのも、無意識に性的対象から外れようとしているのかもしれない。そうでもしなければ自分の意思以上に『女』にされると、きっと彼女は肌で感じている。人の視線は、ときに真実以上にそれらしい物語を語り出すから。
「寂しいですよね」
 朔夜がぽつりとこぼす。薬指を光らせて、左手で髪を耳にかける。
「同一人物なのに。今まで後輩として当たり前にできてたことが、ヒトヅマとか、いろんなラベルで制限されちゃって」
 目を伏せるその姿は、高校生の頃には香らなかったしとやかさに満ちていた。皮肉にも。
 雅伸も朔夜の疎む違和が解らないでもない。だがまず、後輩たちを不要な謗りや傷から守ってやりたいと思う。
「誰が何を騒いでも、お前らは俺の大事な後輩だよ」
 追い抜きざまに言ってみても、買い物かご片手では格好もいまいちだ。案の定後ろで笑い声がした。
「ノブさんっていつも言葉足らずなのに、そーいうことはガァンてストレートに言いますよね」
「悪いか」
「いえ。すげー好きです」
 朔夜が隣に並んでくる。わずかに高い横顔。雅伸も朔夜のシンプルなもの言いは好きだし、羨ましい。妹であり弟でもあるような、特別な後輩。
 ふと、実の妹のことを思い出した。住み込みのバイトが決まったと、あながち嘘でもない留守番電話を残したきり着信は無視している。結納代わりの食事会はもう済んだだろうか。
 未紅の家に戻ってから、朔夜に教わったとおりに野菜を切り始めた。すぐに鍵の音。未紅も今日は上りが早いらしい。
「おかえりなさい」
 呼びかけたのに返事がなかった。包丁を置いて視線を向ける。未紅は靴を履いたまま上がりかまちに腰掛けて、頬杖をつきながら呟いた。
「浮気。女の子と楽しそうに歩いてた」
 おまえもか。内心で返し、雅伸は未紅の横に膝をつく。
「そもそも付き合ってないでしょう」
 単純な事実を突きつけて話は終わりのはずだった。未紅が深刻に瞳を潤ませたりしていなければ、雅伸もこんなことを口走ったりしなかったのに。
「俺は、ベッドの周りの無意味なゴムだって黙って片付けた」
 未紅が顔を真っ赤に染める。雅伸を突き飛ばすように両手を伸ばしてくる。
「全部雅伸くんに会う前のことですし!」
「だから、その弁明も最初から必要ないって言ってるんです」
 折れそうな手首を強くつかんだ。未紅がまつ毛から細かい雫を散らして視線を上げる。切羽詰まった声で。
「じゃあ、今のわたしたちって一体何なんですか?」
 そんなこと決まっている。雅伸は手首を握っていた手をずらして、未紅の右手の指を小指から三本折り曲げた。残った人差し指を自分の額に突きつける。
 死んだはずだった身体だ。生きていないはずの日々だ。俺を動かしているのはもうあなたの意思ひとつなんだから。
「撃ち殺すのも、マウント取るのも、ご自由にどうぞ」
 未紅が目を見開く。雅伸も瞬きをやめて、思ったより色の薄い虹彩を見つめる。
 白々しい明かりの遠く向こう、子供たちが別れを惜しむ声が響く。
「て、」
 身じろぎひとつしなかった未紅が喉を震わせる。音を伴いきらない願いを目で汲んで、雅伸は顔を近づける。呼吸が重なり、口唇が合わさる。歯列をこじ開け、舌は互いの存在を貪る。
 未紅がパンプスを脱ぎ捨てる音がする。雅伸は華奢な体躯を引き寄せる。息を継ぎながら言葉をこぼす。
「今日はもう、つらい話はいいでしょう」
 調理台から細長い箱を取る。中には洋酒の瓶のかたちをしたチョコレート。未紅は陶然とした手つきで包みを開き、雅伸にひとつくわえさせる。二人で噛み砕く。鼻を刺す痛みと喉を灼く熱、脂をまとったくどい甘さ。すさまじくまずかったが、雅伸が昨晩彼女の口に注いだものだって旨くはないだろうから全部食べた。もういっこ、とねだるので、剥いてやって舌で彼女の口内に押し込んだ。
「まさ、のぶ、くんは、きょう、なにが、ほしいの」
 たどたどしい口調で未紅が問う。雅伸は口唇の端についた褐色を舐め取ってやる。
「チョコレート食べてくれたから、俺は、もういいです」
 それだって未紅の金だから微妙なところだが。手間が省けた程度のこと。
 未紅の手がベルトのバックルをいじっている。お返しに雅伸もブラウスのボタンを外す。白い肌はもう上気している。
「ねぇ、雅伸くん、お願い。おねがい」
 ――新しいマットレス、染みになるぐらい抱いて。
 欲求が胸に堪えて、要求に身体で応えて、いつ果てるとも知れない生を従順にくべた。底知れぬ場所に自身を呑み込む女を悦ばせることに専心した。
『俺は反復性うつ病というやつで。言ってしまえば手帳持ちの障害者です』
『わたしは処女のうちに病気で卵巣取っちゃって。片方残すって話だったんですけど、結局両方』
『妹の婚約者は一流企業の役職持ち、無職の障害者が身内なんて申し訳が立たない』
『こんなわたしでも結婚できるって思ったはずが、その人ったら詐欺師で』
『普通に生きられると思ってた』
『少なくとも普通のふりができると思っていた』
『なんて愚かな思い違いだったんだろう』
『見えもしない世界に合わせていくのに疲れてしまった』
『ねぇ』『ねぇ』
『『一緒に飛び降りてしまいませんか?』』