言わないから、こうしていられる

 高校生の頃、伊禮瑞榎はよく、その砂浜で波乗りをしていた。
 サーフィン部がメインで使う場所とは違って、『最高の波』なんて滅多に来ない。よって人気もない。だからこそ伊禮はここを選ぶわけで、伊禮ならその気難しい波でも軽く手懐けてみせた。
 長深田充彦が何でそんなことに詳しいかと言って、しょっちゅう見に来ているからに他ならない。
 ロボット研究部――通称ロボ部の初代部長である充彦は、何かにつけてこの浜に足を運んでいることが多かった。
 伊禮が長い黒髪をかき上げながら、海から上がってくる。南国の陽射しを浴びて目を伏せるその姿を、本人には口が裂けても言えないが、綺麗だと、語彙力もなく充彦は思う。
 身体のラインにぴったりとフィットしたウェットスーツは、身も蓋もない裸よりも、余程伊禮の輪郭の美しさを際立たせて。ヴィーナスの誕生などとは程遠いが、海神ほどの荒々しさもなく、沈着と静謐の女神のような佇まいに見える。
 劣情とは違った。美術品を見るような高尚な心構えでもない。海底で思いがけず、綺麗なかたちの珊瑚を見かけた驚きと感動に似て。触れがたい、持ち去りがたい、壊れやすい尊さのようなものを、感じていた。
「あんた、またロボ部サボッたね?」
 近づいてきてじろりと充彦を睨む伊禮は、もう完全に充彦の同級生『伊禮瑞榎』以外の何者でもなく。充彦は幻影の残滓を愛想笑いで吹き散らす。
「いやぁ、副部長が優秀だからよぉ。オレは瀬乃宮に指示されたことを言っとくだけの伝書鳩で済むってわけ。どうせオレはロボットのことなんて全然分かんねえしな。これ、豆知識な」
「豆でも知識でもないよ、そんなもんは。周知の事実って言うんだ」
 充彦の冗談をばっさり切り捨てると、伊禮は白いタオルを取って自らの髪を拭き始めた。
 すぐに帰り支度をしないということは、もう一働きするのか、それとも、珍しく充彦と話し込んでくれる気があるのか。
 充彦は、近すぎるあまり、縁の薄い海を見遣りながら言った。
「ホント言うと、オレは―『瀬乃宮が自分で作らないロボには興味ない』、ってのが、一番近いのかもな。はは」
 充彦はロボットに興味が薄い。巨大ロボット建造なんてどうでもいい。でも、目を輝かせて語る瀬乃宮みさ希を見て、こいつは面白そうだと思った。だから口車にだって敢えて乗ったのだ。
 それを急に、全部任されたりなんかして。『私はアドバイザーでいい』なんて言われて。一応、瀬乃宮の顔を立てて『初代部長』の名をもらったはいいけれど。『夢が汚れてしまう』と顔を曇らせた友人を、余計に落胆させたくなくて。もっと有能そうな部員に任せてしまうのだ。瀬乃宮の『夢』を、手ずから壊してしまうことだけは、充彦の最も避けたいことだから。
「大体オレ、ロボクリニック出禁になったしなぁ。これ以上お荷物にはなれねぇよ」
 肩をすくめると、伊禮も運動のおかげで一般女子よりはやや広いが、充彦より丸みのある肩をすくめ返してきた。
「相変わらずアンタは、本音から逃げるのが上手いね。そりゃ後輩共も面食らって右往左往するわけだよ」
「って、お前の情報網も相変わらずだな、伊禮」
 伊禮はにやにやと笑って、ポリタンク持ってこい、と充彦に告げた。へいへい、と充彦はお手上げのポーズで、伊禮の運び込んでいた真水入りのポリタンクを取りに向かう。
 別に伊禮の人遣いが荒いとか――荒いけれど――自分で取りに行けないからとかではなくて。これは会話終了の合図。
 彼女は今から、誰もいない砂浜で、ウェットスーツを脱いで、中に着込んだ小さな水着一枚で水を浴びるから。充彦はそれを見る権利を与えられていないから。
「ミッチー」
 だが急に名を呼ばれて、振り向く。伊禮は充彦に背中を向けていた。部分的に剥き出しにされた肌は、まるで羽化したてのように白く。
「今日の分のおにぎりは、もう渡したっけね?」
「何言ってんだ。今朝、もらっただろ」
 瀬乃宮の提示した、充彦が部長を引き受ける条件。『毎日ミズのお店のおにぎり一個』。
 伊禮は何の義理もないはずなのに、その約束を必ず履行してくれて。受け取らないと伊禮は怒るし、第一育ち盛りの充彦は恵んでもらえる食べ物ならいくらだってほしいので、甘えて受け取り続けている。あの店だって一応伊禮の両親が商売でやっているんだろうに。
「今日はいい波来たからさ。祝いにジュースぐらいなら、おごってやってもいいけど」
 この風で、俗に言う『いい波』なんて来るはずがない。
 それでも伊禮がそう言うのなら、きっと『いい波』は来て、彼女は機嫌がいいのに決まっていて。
「そーだな。そんなら、伊禮サマの気の変わらないうちに甘えることにすっか」
 充彦は彼女から離れて歩き出しながら、苦笑した。
 彼らにはまだ酒は許されていないけれど。それに近い気分で飲み交わしたいことだって、子供なりにあるのだ。伊禮はきっと大人になったら、もっと強引に充彦たちを飲みに誘うのに違いない。
 彼女が瀬乃宮を実妹のように気にかけながらも、そのロボット建造だけは頑なに手伝わない理由も。瀬乃宮があんなに大好きな、機械やゲームに絶対に手を出さない理由も。
 果汁や、炭酸や、アルコールや、氷に、溶けていくのだろう。伊禮の細い喉だけが、その真実を味わうのだろう。
 それでよかった。長深田充彦という少年は。
 伊禮瑞榎の湛えた液体を、たとえ大人になったとしても、差し出された以外には口にしない。決めたわけではないけれど、決まっていたことだった。
 そうでもしないと、多分何かが、ずれてしまうから。それは狡さだとしても本意ではないから。
 ポリタンクを手渡して。じゃあオレ向こうで待ってるわ、と充彦は自分の原付の元に引き返す。
 砂を一歩、二歩、サンダルで踏み締めて。膝までまくり上げた、学校指定のジャージに粒が跳んで。
 伊禮が水を浴びるのを、初めて一度だけ盗み見た。
 スポーツ用の水着に色気などはなく。
 しかし伊禮の立ち姿は、やはり割れ物のように繊細で滑らかで、冒しがたい貴さだった。