反逆シンデレラ - 3/4

【当日】

「澪、ずっと機嫌悪いわね」
「別に。普段からこんなもんだろ」
 会場のホテルからは、神成岳志の本来の職場が見えた。
 都会の夜、高層階でビルの明かりを見下ろしながら、何の中身もないプライドの見せつけ合い。料理がアメリカのものより旨い以外は、澪にとって何にもメリットがない。
 特に身体のラインに沿った丈の長い衣装と、ヒールの高い靴、後頭部で器用にまとめられた髪の重さがとにかく煩わしかった。
「やっぱりあなたスタイルいいから、シースラインのドレスすごく似合ってる」
 紅莉栖はシャンパンゴールドの膝丈ドレスで、にこにこ笑っている。確かに紅莉栖の体形なら、裾がふわりとして脚を出していているデザインが似合いだった。ネックレスをはじめとする小物も自己主張しすぎず、全体の調和が取れている。ついでに歩き方も、澪とは比べものにならないほど様になっていた。
 澪はお上品なグラスに注がれたジンジャーエールを、一気に喉へ流し込む。
「こういう服は、動きづらくて好きじゃない」
「でしょうね。澪って意外とおしゃれな服着てるけど、機能性はいつも気にしてるもの」
 紅莉栖の腕が左腕に絡んでくる。
 こうしているとやはりエスコート要員だ。本当にタキシードにするのだったか。
「あのう、そちらは牧瀬博士ですよね。過去の論文興味深く読ませていただきました、少しお話よろしいですか? 実は当方の研究テーマとも通じる分野で、ぜひともいろいろ伺いたいと……」
 見知らぬ中年の男が寄ってきて、薄っぺらな笑みで言った。紅莉栖を向きながら、澪の大きく開いた胸元にもちらちら視線を寄越している。分かりやすすぎて、あくびが出そうだ。
 ええ、光栄ですと、紅莉栖はぎこちなく愛想笑いを浮かべていた。澪は口唇の端を上げて、大げさに紅莉栖にしなだれかかる。
「お仕事の話? あんまり大事になりそうなら、ちゃんと彼に相談しなさいよ。もうすぐ『本物』を買ってくれるんでしょう」
 わざといつもと違う口調で言い、紅莉栖の右手の薬指を指差した。紅莉栖が赤面して口ごもる。澪が用意した安物の指輪がはまっているだけだが、本気の照れが信憑性を与えたようだ。男は急にテンションを下げ、見え透いた社交辞令を二・三述べて去っていった。
 紅莉栖は大きくため息をつき、いっそう澪にしがみついてくる。
「ありがと。本当に、これ受け取っておいてよかったかも」
「だろ? 『研究に』興味があるかどうかは目を見れば分かる。ちゃんと虫よけをしておかないと、本当に面白い奴を取り逃がすぞ」
「澪は自分の分はしてないの?」
「私はあんたと違って実績もないし、お飾りとしてもあまり優良な物件じゃない。他人が下心を抱くような要素はないさ」
 それより食べ足りないと指先で示せば、紅莉栖は何か言いたげに苦笑して腕から離れてくれた。取ってきていいということらしい。しかし一人にしておいては自分も来た甲斐がない。片手にグラスを持ったまま、もう一方の手で紅莉栖の腰を軽く抱くようにして、料理のテーブルに近づいていった。
 不自然でない程度に、周囲へ目を走らせる。
 ドレスコードの都合上、黒っぽい服の男性が多いのは仕方ないとしても、警戒態勢で立っているサングラスの男たちが多すぎる気がした。ホテルか主催者の用意した警備員だろうか。日本の宴会、しかも夜間、わざわざ視界を暗くし威圧感を出す必要がどこにあるのかは分からない。
 紅莉栖に注がれる視線の量もかなりある。数は予想していたが、ひとつ他とは明らかに異質なものがあった。一番の気がかりがそれだ。
 好奇でも、羨望でも、嫉妬でも、情欲でもない。害意とも、敵意とも違う――近い言葉を敢えて選ぶとしたら、執念、のような色が、混じっている。
「わぁ、やっぱり日本の高級ホテルって、立食でさえ繊細なお料理出すのね」
 紅莉栖はまだ気付いていない。だが気付かないなら気付かないままでもいい。その為の澪だ。食わせてもらった分ぐらいは仕事をしなければ。
 澪は視線だけで振り向く。探す。濃くなってきた、そのおかしな色を。熱を感じるまでに動き出した視線の元を。
 ――いた。三十半ばほどに見える、ループタイの痩せた男。
 澪ではなく、周りを囲む他の誰でもなく、紅莉栖だけを見つめている。不意に、まるで『ケージから逃げ出したウサギ』を見つけた少年のように、にいと口唇の端を吊り上げた。
 人をかき分けてくる。草むらを行くように真っ直ぐ。紅莉栖だけを瞳に捉えて。
「私の合図で、壁際の警備員のところまで走れ。紅莉栖」
 澪は鋭く言い、テーブルからナイフを引っ手繰って逆手に持った。自分の腕の陰に隠れるよう周到に。焼いた食肉を切る為のものだが、剥き出しの皮膚を軽く割く程度の役には立つはずだ。
 男と紅莉栖の間に割り込む。男は初めて澪に気が付いたように視線を向け、不快そうに眉をひそめる。
 そうだ、それでいい、と澪は知らず笑っていた。
 お前は紅莉栖を見るな。それに値しない。
 私はその目を知っている。お前は紅莉栖の脳を利用したいわけでも、あの貧相な身体を抱きたいわけでもないんだろう。だからって、心を奪いたいなんてロマンティックなものであるはずもない。
 見たことがあるんだ。一瞬で判る。お前のその目は。
 他人の『存在』を保管したいという、身勝手な願望。時間という不可逆の流れを捨てたがっている、世界不適合存在……『異常者』の、目だよ。
「澪……!」
「行け!」
 叫びながら、踏み込んだ。男との距離は約8m。人質にされそうな人間の影はなし。男の手は懐に入っている。あの動きなら素人。出されたのがたとえ銃器だろうと、澪は被害が出る前に制圧出来る自信が――。
「ッ、な……!?」
 ――ダサいブラックスーツにシルバーのネクタイ。澪が異常と断じたのとは別の男が、身体ごといきなり割り入ってきた。サングラスとインカム。足の運びが明らかに一般人ではない。警備の人間? とにかく視界の一部を塞がれ、紅莉栖を狙っていた奴を不覚にも見失ってしまった。
 澪は舌打ちしてその男を押しのけようとしたが、逆にその手を払われる。事情を説明するのももどかしく、どけと言ったが男は黙って首を振る。澪が進もうとする先を半歩で必ず遮る。
「邪魔、だ!」
 澪は隠していたナイフを下から振り上げた。傷つける意図はない。のけぞって隙さえ見せてくれればよかった。だが男は左手以外の一切を動かさず、躊躇もなくテーブルナイフを峰の側から掴む。虚を突かれたのは澪の方。角度をつけて押し上げられた拍子に持ち手を離してしまった。男がナイフを前方に――澪にとっての後方に放る。そちらには紅莉栖がいるかもしれないのに!
「これで非武装だ、文句ないだろ!?」
 怒鳴りながら紅莉栖を捜そうとして、がくりと膝が下がる。慣れないヒールがやわらかいカーペットに沈んだのだ。澪は英語で口汚く文句を言うと、靴を両方脱ぎ捨てた。あの明るい髪の色を求めて声を上げた。
「紅莉栖!」
 叫んでいた。『先輩』の名を。こんなに必死なのに、同時にひどくおかしくて笑い出しそうだった。
 馬鹿だよ、あんたも私も。こんな靴、やっぱり必要なかったのに。
 何でシンデレラの靴は、階段に置き去りにされたと思う? 魔女がぴったりに作ってくれたはずなのに、何故脱げたりしたと思う?
 ――決まってるさ。邪魔だったんだ、あいつには。
 シンデレラは灰かぶり。いつだって汚い身なりで一日中働きづめで、綺麗な世界なんか知らなかった。一夜だけ着飾ったところで、お姫様になんかなれやしなかったんだ。だから逃げた。王子という夢から。ガラスという壊れものから。
 結局自分は這いつくばって床を磨いている方が、似合いだって知ってしまったから。
 黒スーツの男が手を伸ばしてくる。澪は自分の靴を引っ掴んで殴りかかる。かかとの部分は、人の体重を支えられるだけあって強固。有効な打撃武器になる。男は左腕を使って澪が穿とうとした目を庇う。骨に沿ってヒールが逸らされる。まだ動きづらかったので、ドレスのスリットに手をかけ更に深く裂く。そのまま左膝で相手の内臓を狙う。男は腰を引き残った右腕でブロッキングする。頭の位置が下がり脳天が澪の射程内に入る。
「なぁ、あんた――」
 澪は赤いヒールを振りかぶって、笑った。
 こんなに凶暴に害そうとしているのに、何故か穏やかな温もりが胸の奥にある。
「なんで私にここまでされて、反撃も拘束もしない?」
 途中から、少しずつだけれど、気付いていた。
 この男を、澪は知っている。さっき見失った不審者よりも、ずっと。
 体格。呼吸の癖。右手はずっと空けておこうとする動き。自分は平気でナイフを掴むくせに、相手の身体へダメージがいかないようにする護身術。非効率的で偽善的なその自衛。
「笑えるよ。このまま殺してもいいか。私、あんたのことは結構そうしたいんだ。本気で」
 なぁ、答えろよ。このままじゃ。私は本当にあんたを殺しちまうぞ、刑事さん。
 男は澪の疑問に答えなかった。すっと構えを解き、インカムに左手を寄せる。薄い口唇がやっと音を発する。
「……了解。こちらも問題ありません。そのまま処理してください。以上です」
 その声にはやはり聞き覚えがある。年の割に枯れてくたびれた、人が好さそうで、そのくせ呆れるほどしたたかな声。外したサングラスの奥には、目尻は鋭いくせにどこか情けない瞳。
「まったく、暴れてくれたな。久野里さん」
 ――神成岳志は嘆息しながら、サングラスを畳んで胸ポケットに突っ込んだ。
 せっかく整えていたらしい髪は、澪との乱闘のせいで、半分ぐらい普段の跳ね方に戻っている。
 後ろから急に手を叩く音がして、振り返れば紅莉栖がよそ行きの笑顔で歩み寄ってきていた。唖然としていた周囲の人間たちも、首を傾げながら拍手に参加してくる。
 紅莉栖の機転のおかげで、一連のことは『出しものか何か』だと思われたようだ。空気に呑まれる実にニホンジンらしい性質だが、連中が馬鹿なおかげで澪は随分助かった。
 神成はその茶番に乗るように大仰な礼をすると、真っ直ぐに紅莉栖を見据えた。
「まずはご無事で何よりです、牧瀬博士。お話は別室で構いませんか?」
「ええ。ありがとうございます」
 紅莉栖は驚いた素振りも見せず頷くと、澪に視線を向けながら笑う。
「この子も、あなたに訊きたいことが、山ほどあるでしょうから」
 澪にとって面白くない話であるのは確かだろう。
 嘆息しながら、澪は裸足のまま靴を指先に引っ掛けた。気は進まないが、神成に付き添われていく紅莉栖を追うより、今は仕方がない。