ディスコネクト・トリガー

 渋谷の街はどこもかしこも崩壊しているように見えた。
 西條拓巳は咲畑梨深に手を引かれ、青空の下、瓦礫だらけの『町だった場所』を、漫然と歩いている。
 サードメルトが起こって。ノアⅡを破壊して。自分と星来を取り戻して。それだけで、コミュ障オタクの彼のキャパシティはいっぱいで。気の毒とか、心が痛いとか、感じている余裕もない。梨深の向かう先も分からなくて。
 ただ、その手の平がとてもあたたかくて、心地いいから。半分眠りながら、彼女に従っている。
「あれ? この辺だと思ったんだけどなぁ……」
 梨深が足を止めたので、拓巳も歩みを止める。繋いでいない方の手の甲で、重い両目をこすった。
「梨深、どこ、向かってるの?」
「クラスのみんなのところ」
 さらりと返され、拓巳はばっと手を離した。勢い余って、剥き出しのコンクリートに尻もちをつく。
 大丈夫? と手を差し出す梨深を、ぶるぶると首を横に振って拒否した。
「ぼ、僕は、行かない。そんなとこ」
「どうして? みんな心配して―」
「『もう妄想なんて解けてる』よ!」
 何にも解っていない様子の梨深に苛立ち、拓巳は声を荒げた。その後で、自分の声の大きさに怯えて頭を抱える。
「『咲畑梨深は、もう二年C組クラスメイトじゃない』。『翠明学園の生徒でもない』」
「ううん。あたしそれ、解いてないはず。だからみんな、認識してくれるよ。折原さんもいるかもだし」
 梨深はスカートが汚れるのも構わずしゃがみ込んで、拓巳に触れようとした。拓巳は顔を上げないまま、気配だけでその手を払ってしまう。
「こ、こずぴぃはいいよね。クラスの中でも、ちゃんと書類上の事実として、翠明の生徒でさ。梨深だって、ディソードがあれば周囲共通認識が出来て、まだ翠明生でいられるんでしょ? でもさ――」
 こんなこと、拓巳だって言いたくはなかった。言いたくはなかったけれど。連れて行かれそうになるのなら、言うしかない。梨深に限って自分から察してくれることなんて、あるはずがないのだから。
「まだ『西條拓巳が存在』していたとして! 翠明の生徒でいようと思ったのは、『僕の意思じゃない』! 梨深たち以外に、誰がそれを望むのさ? ど、どうせ学校なんて行きたくなかったんだ! 僕は梨深とか、星来とかいれば、それでいい――また嫌われて、白い目で見られて、つらいだけの日々になんて、戻りたく、ない……っ!」
「タク……」
 拓巳は自分を抱きしめるように丸まった。最早、包み込んでくれる梨深を振り払う気力すらなかった。泣かないようにするのだけで、震えを抑えようと無様に抗うだけで精一杯で。
 そんなとき、切迫した青年の声が聞こえた。
「タク!」
 それは。ありふれた名前だからという、勘違いでなければ。自分を呼んでいるような、気がした。
「ああ、こんなとこにいたのかよ、タク! やっぱ梨深と一緒にいたのか」
 涼やかな声は、リミという目の前の少女の他には聞いたことのない名前も響かせていて。拓巳は恐る恐る、顔を上げる。
「三住、くん……?」
 三住大輔は、多くの女性を虜にする端正な顔に、無邪気な笑みをのぼらせた。
「よかったー、見つかって。お前らなら、きっと生きてるって思ったからさ。明るい時間にはなるべく捜してたんだよ。ダチ想いだろ、俺」
 そういうことを自分で言ってしまうところがいかにも『三住大輔』らしすぎて、かえってうすら寒かった。
 拓巳は立ち上がれないまま、細くひび割れたコンクリートの上で後ずさる。三住は眉をひそめた。訝るというより傷ついたような、『三住大輔』にはあまり似つかわしくない表情で、それも拓巳を不安にさせる。
「とにかくタク、立とう? せっかく大ちん来てくれたんだもん」
 梨深の手を、拓巳はまた拒んだ。身体を極限まで小さくして、望んだはずの渋谷の青空から顔を伏せる。
「三住くんは……違う。僕の、友達なんかじゃ……なかった、んだ」
 そう。最初から。三住大輔の中に『西條拓巳』なんて存在しなくて。都合のいいように、思い込まされていただけ。拓巳自身がそうであったように、三住も茶番の被害者なのだ。
 三住は、大袈裟に長い長いため息をついた。そして迷いもなく拓巳に歩み寄ってきて、その正面にひょいと腰を下ろす。
「やっぱタク、あのときのこと怒ってんのか。そりゃそうだ。怒るわな、普通は」
「ねぇ、何の話?」
 梨深がお節介にも口を挟んでくる。女の質問を無視出来ない三住が、それがな、と事情を説明し始めてしまう。
「地震の前に、タクが電話してきたときさ。ミナコに急に聞かれて、俺もちょっとテンパってたみたいで。言っちまったんだよな、タクに。――お前いつ俺とダチになったんだっけ、って」
 梨深が血相を変えるのが見なくても分かった。殊更大きな声で彼女は叫ぼうとする。今の拓巳には見えないがディソードを手にして。
「そんなの、単純だよ! いつものこと。『大ちんがあたしに声をかけてきたとき、ちょうどタクが傍にいて』――!」
「梨深。やめてよ」
 思った以上に静かな声が出た。拓巳にはもう、怒鳴る力も残っていない。
「やめてくれ」
 拓巳が低く繰り返すと、ディソードが消えるのが気配だけでも何となく分かった。
 三住には、今梨深が何をしようとしたのかも認識出来なかったはずだ。それでも彼は、訥々と語る。まるで、あの下半身で生きている『三住大輔』ではないみたいに。
「うん、まぁ、梨深が絡んでるのは何となく分かってる。でもさ、多分そういうことじゃねえんだ。大体、その、自分で言っちまうけどさ。男とダチになった経緯なんか、マメに覚えてるような男じゃねえじゃんよ、俺って。それを……『普通だったらお前みたいなヤツとは絶対関わろうとしねえ』なんて。仮に思ってたって、相手が男だからって普通本人に言うか? 今考えると、すげえひでえ奴だったなって」
 拓巳は腕の隙間から、ちらりと彼の顔を盗み見る。いつも女みたいに綺麗だった頬は、汚れた指先でぼりぼりかいたせいで煤けていて。
 けれど、気まずいとき斜め下に視線をやる癖は、どう見ても拓巳の知っている『三住大輔』で。
「避難所には、当たり前みたいにお前が一番最初にいて、隅っこでガタガタ震えてると思ってた。それで俺は『よぉタク、今日は早いんだな』って冗談飛ばして――なんかそれを、どっかで普通に期待してて。でもお前も梨深も、いなくてさ。待ってても、来ねえから。迎えにいってやんねーと、あのまま二度と会えねえのかなって。それが意外と、キツかったんだわな」
 なんて、俺としたことが何で男口説いてんだろな、と三住が耐えかねたように笑うから。
 拓巳もかすかに苦笑して、いつか投げかけた問いを冗談として返す。
「三住くんは、ホモなの?」
「いーや。お前の周りにはどーしてか、かわいい女子が集まっから、協力関係を維持してえの」
 三住がいやらしく笑って、それで終わり。
 そうなのだ。『三住大輔』が用意された『西條拓巳』の『友人』に過ぎなくても。三住は、馬鹿にしなかった。オリジナルの意図しなかったバグ、すなわち重度で末期なオタクであるということを。一度だって、侮辱したり、気持ち悪いと蔑んだこともない。
 俺は肉体のある女の方が好き、と堂々と最低なことを言い放っただけで。だからお前はおかしいんだなんて、罵りはしなかったから。
 三住の適性がどこまで見抜かれていたにせよ。記憶が改竄されていたにせよ。
 きっと、あのとき『三住大輔』と『西條拓巳』は、きちんと友人だったのだ。
「あ、ありがと、三住くん。迎えに、来てくれて」
 拓巳は自らの力で立ち上がった。手を借りない為に、右手は胸の前にやり、星来のフィギュアを握り締める。
「でも、僕もまだ、捜さないといけない人たちが、いるんだ。だから……」
「おう。俺らの居場所だけ教えとくからな。いつでも顔出せよ」
 三住はここ数日ですっかりくたびれてしまった翠明のブレザーから、小さなメモ帳を取り出して、見覚えのある建物名と住所を書き留め、ちぎって拓巳に持たせた。
 こうやってすぐ連絡先を教えられるようにしてあるのが、隙あらば女を口説こうとする彼らしい。
「梨深。タクのこと頼んだぜ、保護者さん」
「ビシィッ! 頼まれましたっ!」
 また梨深の大袈裟な敬礼があって、三住は苦笑しながら、ひらと手を振って去っていった。
「タク」
 梨深がその背を見送りながら、やわらかく呟く。穏やかな風に髪を押さえながら。
「三住くん――大ちん、友達だって」
「うん」
「『タクミ』がいなくても、友達だって。あたしのことも」
「うん」
「嬉しいね」
「……うん」
 二人は再び、歩き出す。
 もう梨深は拓巳を先導せず。拓巳もまた行き先を委ねず。
 二人は手を繋いで、隣に並んで、同じ速度で、まだ会いたい友人たちを捜しにいく。