silent sunset glow
二〇一六年十月。通夜のように沈痛な面持ちでいつもの病室に現れた彼に、久野里澪は座ったまま短く告げる。
「あいつならもういないぞ」
誰のこととは言わないが、他の用事でやってきた訳でもないだろう。神成岳志はかすれた声で、知ってる、と小さく呟いたきり、部屋の中心に黙って立っている。澪は浅く嘆息して、髪をかき上げる。
「普通に、去った。普通に――あんたの望んだとおりに」
「知ってるさ。一緒に見送っただろう、笑って」
彼の目許が少し歪んだ。澪も口許を少し歪める。
「泣くなよ」
「泣くかよ」
彼は吐き捨てるように言った。そんなに泣きそうなのに、きっと人前で涙を流すことなどないのだろう。大人で在ることにひどくこだわる――澪より十も年上の、だがたった十しか違わない青年。最後までその役目を捨てなかった、頑固なお人好し。
静かな夕陽が、開け放した窓から射し込んでいる。血塗られたような、それでいて全てを赦すような、純粋な赤。青い色はもう瞳に届かない。
「君も、接見出来るように手配した」
神成は欝々とした声で言った。やはり誰のこととは言わないまま。その場から動かずに拳を握り締めたまま。
「主治医として、許可が下りるようにした。他の子たちは流石に無理だったが……今までみたいに俺と君ぐらいなら、何とか」
「神成さん」
澪は答えずに、窓を指差した。
「カーテンを、半分閉めてくれ。眩しくて仕方ない」
神成は何か言いたげに口唇を薄く開いた後、結局、相変わらず人遣いが荒いなと、軽口だけを叩いた。
窓辺に歩み寄った彼の手が、左側のカーテンを掴む。だが引くことはせず、物憂げに遠くを眺めて止まっている。不意の風に、押さえられていない右側のカーテンだけがぱっと広がった。赤く染まった横顔は、それにさえ頓着しなかった。ただ黙ったまま。歪みもせず、涙を流す気配すら見せず。しかし冷たさはなく。
澪もゆっくり立ち上がり、窓辺に歩いていく。両手を所在なく下ろしたまま、彼と並び立つ。
静かな夕焼け。風に揺れる二人の髪。
やっと『少年』に戻れた少年は、もういない。
「久野里さんは、これからどうするんだ」
「症候群者に関する疑問が、全て解明出来たわけじゃない。しばらくはまだ情報屋と二足の草鞋だ」
「そうか」
その話なら何回もしたはずなのに、彼は何度でも澪の行方を確かめる。澪は何回訊いても、彼の行方を断定することが出来ないのに。
「渋谷の次は、どこへ行く? 刑事さん」
「さぁな……残念ながら俺たちは、『出向先』を選べないから。また血が流れた街に呼ばれて、犯人捜しをするだけだよ。いつもと同じだ」
二人とも目は合わせなかった。ただ、渋谷区代々木の景色を見ていた。何の意味もないと承知で、見つめていた。秋も深まってきたとはいえ、西陽の熱はじわじわと肌を蝕む。
「久野里さん」
「なんだよ」
「暑いな」
「そうだな」
本当は二人ともそんなことどうでもよかったくせに。
澪は窓を閉めて、神成はカーテンを閉めた。遮光性が高くないから、茜はやわらぎながらも、やはり床を染めている。
ふとそんな気分になって、澪は横に並んだまま、彼の背にそっと片手を回してみた。彼は驚いた様子も見せず、前を見たまま機械的な手つきで、澪の肩を抱く。
澪のそれは恋情ではなかった。彼のそれも愛情ではなかっただろう。一番近い言葉を選ぶなら、きっと澪の『反吐が出る』ほど嫌っていた『傷の舐め合い』で。それを限定的にでも許容出来るようになった今なら、百瀬の言う『大人』にも少しは近づけたのだろうか。
「なぁ。しんどいな、生きていくのって」
彼が嘆息まじりに笑って。
「じゃあやめるか? 手を貸すぞ?」
澪も悪戯に尋ねて。
「ってわけにも、いかないだろ」
彼は澪に触れていた手を、そっと下ろした。澪も彼に預けていた手を、自分の元に戻す。
「何か起これば、また連絡する。手伝え」
「空いてればな」
じゃあ、と部屋を出る彼は、静かな夕焼けの中を独り往くのだろうけれど。
この渋谷の空の下に、二人を繋いでいた少年はもう、いない。