彼らのお話の始まりの集まり

 高校生になっても、年度初めの自己紹介なんて退屈なものだった。伊藤真二は前から数列目の席であくびを噛み殺す。
 彼はいつも五十音順で順番が早いから、あで始まる苗字の奴がいればその流れに乗って、自分が一番なら適当にテンプレートを作って次に回す。それだけの作業だった。後の連中の話なんて、判で押したようでほとんど耳に入ってこない。
 自分の番が来て、真二は立ち上がった。へらっと笑みを浮かべて、前の奴と同じようなことを言う。
「えっとー、伊藤真二っす。出身中は――で、中学では――部入ってました。趣味は読書。入る部活はまだ考え中でっす。よろしく!」
 何の中身もないことを言って、着席。きっとこのクラスの全員にとって印象が薄く、真二の自己紹介など記憶にも残らないだろう。
 次の奴の紹介が始まって、真二は深く息をついて背もたれに体重を預けた。
 別に他人と話すのは嫌いではない。話を合わせるのだって、盛り上げるのだって得意な方だと自負している。
 ただそれは処世術の話で、楽しいかどうかは全く違う問題なのだ。一時的にマジョリティのふりをすることは容易でも、所属し続けるのは真二にとって多大な苦痛を伴う。
 だから、『目立たないし話すといい奴だけど、普段から一緒に遊ぶわけじゃない』という『クラスメイトA』でいるのが、立ち回りとしては一番利口だと、中学までで学んだわけで。他人の自己紹介を真面目に聞かないのだって、下手に記憶して食いついて、仲間意識なんて持たれるのはまっぴらだから。
 お互いにどうでもいい存在でいたくて、でも明らかにやる気がないのは反感を買うので、適当に視線を送りつつ、一人また一人と、ウェーブみたいに立ったり座ったりするのを見ている。
 新設の碧朋学園なら、少しは面白そうな奴も交じっているのではないかと思ったけれど。
 期待外れだったなぁと、半分以上を過ぎたところで首を軽くかいた。
「じゃあ次、ミヤシロ」
 教師が名を呼んで。一人の男子生徒が、はいと裏返った声で返事して、ばね人形のように勢いよく立ち上がった。だれ気味だった真二をして、おいおい大丈夫かよと思うほど、その男子生徒は上がっていた。
「あ、あの、み、宮代、拓留です。しゅ、出身中は――ですけど、部活には、その、都合があって、入ってなくて――」
 ミヤシロ、タクル。変な名前。それが真二の第一印象だった。
 動きの落ち着かなさも目立っていた。眼鏡をかけた顔を伏せて、忙しなく視線を動かしながら、ブレザーの襟元を握り締めている。
「しゅ、趣味は、読書とか、映画鑑賞――それから、カメラと、『情報収集』」
 ん、と真二は眉をひそめた。趣味の後半を述べるとき、この挙動不審の少年は、そこにだけかすかな敵愾心……いや、挑発のような響きを含んだから。
「それで、えっと、その――」
 そして、彼は顔を上げ。誰を見つめるでもなく、黒板を真っ直ぐに睨み付け。
「新聞部、作ります。『この渋谷』でしか書けない記事を、僕は、発信したいです」
 言い切ると、すぐにまた委縮した様子に戻り、すみません以上ですと縮こまるように椅子に納まった。
 真二はやはり以降の自己紹介に興味を示さずに、宮代と名乗った少年だけをじっと注視していた。
 目立ちたがりには見えない。むしろアレは、端から見ていても重度のコミュ障だ。クラスの空気なんてまるで読めていない。そんな抱負なんて誰も求めていないのに。
 真二の顔は自然と、にやついていた。彼を侮辱するつもりは、まぁ全くないと言えば嘘だけれど、主軸の感情ではない。
 この、ムードに迎合出来ない場違いなバカが、どうやら自分は気にかかる。
 碧朋学園、面白くなりそうかも。真二はヤ行以降のクラスメイトの自己紹介を完全に捨てて、どうやって宮代に話しかけたものか、笑いながら算段を始めていた。

「よ、宮代くん」
 なるべく静かに声をかけたつもりなのに、宮代はびくりと肩を震わせた。せっかく人目を避けて、廊下に出るまで待ったというのに。
 宮代は目を背けて、な、なんですか、とやはり上ずった声で言う。
「何か、よ、用ですか。……えと、山本、くん?」
「かすってもねぇよ。伊藤だ、伊藤」
 真二としては軽くツッコミを入れただけのつもりが、宮代は、すみませんと肩を縮めた。正直やりづらいと言ったらない。
 けれどそこで指摘でもしたら余計硬くなってしまうと思って、話題を変えることにした。宮代が手にしている紙を指差す。
「それ、もしかしてさっき言ってた、新聞部のビラ?」
「え……」
 はい、と答える宮代の声は、今までと違う緊張を孕んでいた。
 真二には手に取るように解る。彼の恐れの正体が。だから先手を打つ。
「部員は今、何人?」
「ひと……いえ、二人」
 見栄なのか、当てでもあるのか、宮代はそう答えた。真二は壁の掲示板を、こんこんと指の関節で軽く叩く。
「それ、ここに貼っても一枚ぐらい余る?」
「はぁ、まぁ……あちこちに、貼る気で、刷ったんで」
 宮代は、一緒に手にしていた小さな箱を握り締めた。きっと画鋲が詰まっているのだろう。
 よし、と頷き、真二は右手を殊更ゆっくり、宮代に差し出した。ぽかんとしている彼に、大真面目な顔で言う。
「じゃ、その資料、俺にもくれ。内容いかんじゃ俺も参加したいから」
「え……」
 宮代は愕然とした顔をして、手に持ったビラを両手で胸に抱え込んだ。しかも背中を半分こちらに向けて。
 こりゃ人間不信も重症だなと、真二は内心で嘆息する。
「宮代くんさぁ、今俺のこと冷やかしか嫌がらせって思ってんだろ」
「い、いえ。そんなことは」
「いいって。そう思われる覚悟はある程度してたからな。ただ、話ぐらい聞いてもらっていいか?」
 宮代はビラを大事そうに守ったまま、慎重に一度きり頷いた。
 真二はうなじをかきながら、吹き抜けの廊下の向こうに目を遣った。学校とは思えないほど明るくて開放的な作りで。そこで、似つかわしくないのを承知で言う。
「おまえさ、ハンニバル・レクター知ってる?」
「と、トマス・ハリスの生み出した天才殺人鬼……モデルの一人と言われているのは」
「ヘンリー・リー・ルーカス。ところで『ニュージェネレーションの狂気』第四の事件」
「ヴァンパイ屋。『B型の血液が』」
「『不足しています』。発見は渋谷駅構内トイレ」
「『その目、だれの目?』」
 宮代の口調から、いつの間にかどもりは抜け去っていた。真二は視線を戻す。
 宮代の丸まっていた背は伸び、意外と上背のあることに気付かされた。眼鏡の奥の瞳は、すっと射抜くように真二を見据え。ああなんだ、いい目が出来るんじゃないかと、真二は笑った。
「分かったろ? 俺、猟奇犯罪マニアなんだ。特別スプラッタが好きなわけじゃねえけど。『そういう人間』の精神構造とか、事件の真相とか、すげえ興味ある。こんなこと言うとドン引きされるから、あんま公言しないけどな」
「しない。僕は。引いたりとか」
 宮代は初めて、はっきりした声で言った。胸元からビラを一枚取って、真二に差し出してくる。
「僕も、とても気になって調べていたことばかりだから。その、ええと、新聞部にも興味を持ってくれると、嬉しい、です。えと。……伊藤くん」
「おう」
 いかにも画像編集ソフトで作りました、というチープなチラシ。きっと一年貼っておいたって誰も気に留めないだろう。
 けれど真二にはどうでもいい。知りたいのは、『宮代拓留』の、真実を追い求めようという熱意だから。
「俺も、書いてみたいな。『この渋谷』でしか書けない記事」
「あ、はい……」
「だから、よろしくだけど。部長さん」
 ビラを左手に持ち替えて、もう一度宮代に右手を差し出す。もう一枚渡して来ようとするので、違う違うと首を振る。
「部活もいいけど、まずは個人的に信頼関係を築こうって言ってんの。一緒に事件を追うんならさ、そうじゃなきゃ安心出来ないだろ? で、改めて、俺、伊藤真二。『くん』と敬語はいらねぇから。よろしくな、宮代」
「え! あ、あ、あのその、よ、よろし……!」
 顔を真っ赤にした宮代は、手の中のビラと画鋲の箱を持て余して、床にばらまいてしまった。
 何やってんだよーと笑いながら、真二は拾うのを手伝ってやる。ごめん、と言う宮代も、自然な笑顔になっていた。
「拓留? そんなところにうずくまって、一体どうし――あ」
 そこに一人の女生徒が通りかかって。真二は記念すべき部員第一号が自分などではないことと、(別に狙ってもいなかったけれど)既に副部長の座にあるもう一人の部員の存在を、認識した。
「あ、あの、来栖。彼、伊藤真二。同じクラスの。新聞部、入ってくれるって」
「まぁ、本当? ありがとう。よかったわね拓留、これで正式に部として申請が出せるわ。よろしく、伊藤くん。私、来栖乃々よ」
「ど、どうも」
 微笑んだこの可憐な少女に、結局最後まで頭が上がらないことなど、このときの真二には、まだ分からないことだった。
 尾上世莉架の入学まであと一年。
 部長・宮代拓留。副部長兼会計・来栖乃々。必然的に書記・伊藤真二。
 三人だけの新聞部の活動が、始まる。