人よ、其の騎士たれ。乙女よ、其の贄たれ。娘よ、其の太陽たれ。

 レンスター軍は戦の真っ最中だった。
 それはもう彼らにとっては、日常にも近い頻度のことだ。
 さりとて余裕が出る道理もない。戦況はよく見て五分。誰もが必死である。
「ナンナ!!」
 レンスター王国の王太子であるリーフが馬を駆る。
 その血相の変え方に対し、呼ばれた少女――ナンナは至極冷静だった。
「リーフ様。何故下がって来られたのです」
「君が怪我したって聞いて、心配で……」
「ご心配痛み入ります。ですが一兵士の怪我でそのように御心を乱されてはなりません」
 リーフはナンナより数メートル離れた位置に立っていた。彼女の築いた透明な壁が、それ以上近づくことを許さなかったのだ。ただ視線だけで彼女に詰め寄る。
「君はただの一兵士じゃない。僕の大切な家族だ」
「もったいなき御言葉です。平素ならば謹んで頂戴いたしましょうが……」
 ナンナはリーフの眼光を真正面から弾き返した。
 母親の琥珀色とは違う水のような碧は、こんなとき酷く冷めて見えた。
「これは謙遜でも遠慮でもございません――諫言です。前線にお戻りください、リーフ様」
「僕が……いや、私が旗頭だからだね? 士気に影響するからと、そう言うんだね?」
「そこまでお解りならもう何も申し上げることはございません」
 ナンナはふいと目を逸らした。リーフはまだ彼女を見つめ続けていた。
「戻る前に聞いておきたい。……君はどうして、そんなに自分の身体に無頓着でいられるんだい?」
「この身は我が身であって我が身ではないからです」
 ナンナは即答した。語気を強めることなかったが、それは決して弱々しいものではなかった。
「一片や二片欠けたとて構うものではないのです。右手があれば剣を握れる。左手があれば杖を振れる。両脚があれば盾となれる。たとえそれすら残らなくとも、喉さえあれば私は希望を謳います」
 右の掌を心の臓に当て。
 ナンナは主君の目を真っ直ぐに見据えた。
「我がものは、魂ひとつあればよい。残りは全て、ノヴァの御許に捧げましょう」
 何の衒いも気負いもなく。ただ静かに。
 それが生まれながらに決められた運命であると、知っている人のように。
 リーフは俯いて口唇を噛み締めた。
「どうして……そんなに……!!」
「どうして? それを騎士にお尋ねになるのは侮辱というものですよ、リーフ様」
 ナンナは不意に表情を和らげた。微笑んで、リーフに向けて最敬礼をした。
「全ては、レンスターの為に。」
 リーフは彼女に背を向けた。口唇を噛み締めて、前線の方へ走り出す。
 視界から消えるまで、彼女はいつまでも見送っているのだろうと思った。
 
 

 

 
「お父様。戦況はどうです」
 ナンナは父に馬を寄せた。父は、もういいのかと無愛想に訊いただけで、然程心配する風でもない。
 こういうところがナンナにとっては楽なところであり、気に入らないところでもある。
 ええ、とナンナも努めてすげなく答える。
「もう血は止まりましたし。司祭様は最前線で傷を癒やすという訳にいかないのだから、私もいつまでも後方で休んではいられないでしょう」
「そこまで解っているのなら、もう少し自分を労ってもいいようなものだがな……」
 眉をひそめて発せられた言葉に少し気をよくした。だが癪でもある。
 父と言葉を交わすとき、ナンナの胸の内にはいつも相反する感情がある。
「お父様が思ってらっしゃるほど無茶はしていないつもりです。無様に斃れるということはありませんから、どうぞご心配なく」
「まったく。誰に似たものだか……」
「鏡でも御覧になったらいかがです? 何ならお貸ししますけれど」
 辞退なのか諦めなのか、父は珍しく大袈裟に首を横に振った。
「お前は間違いなく彼女の子だな」
「ええ、そのうえ呆れるくらい貴方の子です」
「違いない」
 父は前方へ目を遣る。ナンナも手綱を握り締め、同じ碧の瞳に鋭い光を宿す。
 眼前に広がるは血で血を洗う凄惨な戦場。身を投じるは我等が務め。
 この器が真紅に染まろうと、魂までも穢れることは決してない。希望がそこに在るからだ。
「お喋りも飽きました。参りましょう、お父様」
「ああ」
 駆け出す。金色と空色の髪が競い合うように煌く。
 人よ、其の騎士たれ。乙女よ、其の贄たれ。娘よ、其の太陽たれ。
 若き大樹を潤しそれを守る蒼穹を照らせ。